第十一話 顕現
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
北九州空港近くのホテルの一室――
テレビはつけっぱなしだった。
フリーランチャーの研究所建設現場の"爆発事故"の緊急放送が繰り返し流れている。
遠景の白い煙。赤い炎。
縦列した消防車が数台、白煙と炎に包まれたビルの瓦礫に放水している。
消防のサイレン音だけが、映像の外からこちらへ滲んでくる。
「建設中の研究施設で爆発がありました。原因は調査中で――」
原因は、調査中。
リサはその言葉を聞くたびに、口角がわずかに上がりそうになるのを抑えた。
それは笑いではない。
リサにだけ届いたテロ予告、誰が見ても"人為的な爆破"だと分かる映像、事実は彼女の手中にのみある。
事実がすでに手元にある人間の優越感ですらない。
ただの計算だ。
"この記事は高く売れる"
この確信が、彼女の表情筋を動かしている。
情報の値段は「鮮度」、「純度」と「希少性」に比例する。
つまり、新鮮で事実に近い程、そして数が少ない程高く売れるのだ。
テレビでは、ヘリによる空撮映像が流れている。
ヘリは、瓦礫と化し、白煙と炎に包まれた、フリーランチャーの研究所ビルの残骸の上空を旋回している。
それは、建設現場の周囲に群れている、無数の報道関係者も映している。
(どんなに高くから撮影しても、どんなに人を多く配置しても、そして、どんなにコストをかけても真実は見えない。)
(大手メディアがコンテンツを選ぶ時代は終った。今は、コンテンツがメディアを選ぶのだ。)
(情報のマーケットが、健全な市場原理で動き出した、ただそれだけの事だ。)
(この差を、従来のメディアは理解していない。)
机の上には、ノートPC。 その横に、ビデオカメラ。 そして、SDカード。
リサはもう一度、カードを差し込む。
画面に表示されるサムネイル。
爆発の瞬間。
崩壊の瞬間。
人間が走る瞬間。
一つひとつが、ニュースの“その後”ではない。
ニュースになる前の、因果そのものだ。
ネットはテレビよりも機動性が高い。
"やるべき事"にたいする意思決定など不要だからだ。
テレビよりもいち早く、現場の瓦礫と炎を映すライブ配信が、匿名アカウントから何本も上がっている。
だがーーー
どれも遠い。揺れる。
POVの臨場感はあるが、危険な場所に近づきたいという、視聴者の欲望に最適化されているだけで、直ぐに飽きられる。
リサは、記事の冒頭をタイプした。
“北九州市郊外、建設中の研究施設で爆発。現場は厳戒態勢にもかかわらず、爆発物の侵入経路は映像上確認できない――”
そこで指が止まる。
確認できない。 というより、映っていない。
ドローンなど、外部からの侵入物も映っていない。
映っていないのに起きた。
なら、残る可能性は一つだった。
内部犯行ーーー
工事関係者。 搬入業者。 フリーランチャーの社員。
警備に「属している」側の誰か。
そういう人間が、フェンスの内側にいた。
つまり、ETHICは――もう現場に入り込んでいた。
リサは、ため息をつき、カーソルを一行下げた。
唯一の可能性、それは"事実"と同義だ。
この事実だけでも十分に売れる。
メディアは喉から手が出るほど欲しがる。
事故扱いで済ませるには、映像があまりに強い。
だが、強すぎる映像ほど、偽物も混じる。
だからこそ、彼女は順序を整える。
起きたことを、起きた順に並べる。
それが仕事で、それが倫理で、それが商売だ。
リサは再生ボタンを押す。
映像が動き出す。
研究所ビル。
荷運び。
作業員達のの小さな会話。
風。 閃光。 白。 遅れて音。
爆発。
粉塵。
走る。 転ぶ。 起き上がる。 また走る。
リサは指でキーボードを叩きながら、目だけで画面を追う。
一度目の爆発で終わらない。
第二波。
遅れて崩壊。
時間が伸びる。
恐怖が伸びる。
その瞬間。
映像が一瞬だけ横に滑った。
爆圧。
揺れ。
カメラが、耐えきれずにパンする。
研究所ビルから――横。
ほんの一瞬。
画面の端に、別の建物が入る。
リサの指が止まった。
(……今の)
再生は止めない。
そのまま最後まで流す。
崩壊が終わり、粉塵が空を塞ぎ、白い粒子がフロントガラスに貼り付いていく。
リサが車の窓を閉める。
ライトを点ける。
視界ゼロの中、ゆっくり車が動き出す。
映像が終わる。
リサは、呼吸を整えもしないまま、タイムラインを少し戻した。
爆発第二波の直前。
再生速度を0.25倍にする。
それでも速い。
0.1倍。
0.05倍。
そして、例の瞬間。
画面が横へ跳ねる。
研究所ビルの陰。
平屋の建物の外壁。
爆風で外壁材が捲れ――欠けた四角い穴。
リサは、そのフレームでポーズを押した。
静止画。
ホテルの空調の音が、急に大きく聞こえる。
(倉庫……壁が、剥がれてる)
それだけなら、当然だ。 爆風だ。
周辺の建物が損壊しても不思議じゃない。
だが。
穴の向こうに――何かがある。
リサは、拡大した。 さらに拡大。
ノイズが増える。 輪郭が溶ける。
それでも、そこには“線”が残った。
直線。 直角。 規格。
建設資材の破片ではない。 木材でも、鉄骨でもない。
あまりに、整いすぎている。
リサはもう一段階、拡大し、コントラストを調整した。
暗い穴の奥。 白い粉塵の膜。
その向こうに、鈍い金属の肌。
そして――その手前。
人影。
ひとり、ではない。
穴の縁に、ヘルメットの影が二つ。
その背中は、逃げる方向を向いていない。
逆だ。
彼らは、穴へ入っている。
白い粉塵の中で。
崩壊が進行している最中に、警報が鳴り続けている中で。
彼らは、倉庫の中へ向かっている。
リサの喉が乾いた。
(……何を、しに)
静止画では分からない。 リサは一フレーム進めた。
もう一フレーム。 さらにもう一フレーム。
そこに映っていたのは――
人間の必死の形相だった。
逃げる必死ではない。 助ける必死でもない。
運び出す必死。
彼らの肩が沈み、腕の角度が固定されている。
何かを抱えている。
二人で支えている。
ひとりは後ろ向きに下がりながら、口を開けている。
もう一人の作業着に炎が移ったようだ。
叫んでいるのか、指示しているのか。 音はない。
だが、口の形が言っている。
「落とすな」
リサは、背筋の奥が冷えるのを感じた。
(うそでしょ...白煙と炎の中で、死ぬかもしれないのに...
一体何を運び出して…)
その瞬間、リサの瞳の瞳孔が開いた。
爆破の目的は研究所ビルだと、誰もが思う。
自分も――そう思った。
だが、違う。
この映像が示しているのは、別の意思だ。
彼らは、取りに行っている。
爆風の中へ。 炎の中へ。 崩壊の時間の中へ。
そして、彼らが抱えているものは――
“壊れてはいけないもの”だ。
"彼らの命より重いもの"だ。
リサは、画面をさらに拡大した。
ヘルメットの縁。 粉塵の粒子。 穴の向こうの金属。
そこに、細い文字があった。
刻印。
最大限にズームアップする。
印字のように整ったアルファベット。
リサは唇を噛み、目を凝らす。
「N…T…」
そこで、映像が揺れた。 次の爆圧で、カメラが研究所ビルへ戻る。 倉庫の穴は、白い粉塵に飲まれた。
リサは、椅子の背に深く体重を預けた。
胸の奥が、静かに鳴っている。 恐怖ではない。 興奮でもない。
もっと乾いた、嫌な音。
(……そうだったんだ)
これが、彼らがリサに見せたかったもの、そしてレポートさせたかったもの。
爆破は、派手な幕。
崩壊は、観客の視線を奪う光。
パニックは、画面を満たすノイズ。
だが、そのノイズの中にだけ、見えるものがある。
並の記者は、爆破の炎で満足する。
視聴者も、瓦礫で満足する。 そして、事故として消費する。
だが、リサは違う。
見たままを、順番に並べる。
ノイズの中の“規格”を見る。
そして、ここにいる。
リサは、ゆっくりと指を動かし、映像の該当箇所にタグを打った。
「倉庫パン:00:12:43:18」
息を吐く。
窓の外は、北九州の夜。
静かで、何も起きていないように見える。
だがリサは、もう知ってしまった。
爆破を起こしたのはETHIC。 それは確定だ。
そして――
ETHICが壊したかったのは、研究所ビルではない。
壊したくなかったものが、倉庫の中にある。
それを見せたかったのだ。
研究所ビルだけ破壊し、倉庫の外壁をただ損壊させる爆破技術。
危険を省みずに、それを運び出す人間が、すでに現場にいた...
(内部犯行...最高の演出だ。)
リサは、画面を見つめたまま呟いた。
「うん……これは、テロじゃない」
言い直す。
「これは......提示だ!」
でも、誰に。 何を。
答えはまだ出ない。 だが、ひとつだけ確かなことがある。
彼らは、リサに見せた。
見せる相手を選んだ。
つまり――この映像は、記事では終わらない。
リサは、保存ボタンを押し、
バックアップを二重に取った。
クラウドではない。 物理だ。
切断された世界でも残る形で。
そして、ノートPCの画面に、記事の見出しを打ち込む。
“事故ではない。だが、目的は爆破ではない”
カーソルが点滅する。
リサは指を止めた。
この先を書けば、売れる。 確実に。 桁が変わる。
だが同時に、もう戻れない。
彼女は知っている。
自分が今見たのは、炎でも瓦礫でもない。
炎の中で守られたもの。 そして、それを守る側の人間の顔。
それが、自分が引き受けに行くリスクだと。




