第十話 裂孔
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
テロ実行予告日前日ーーー
北九州市郊外。
フリーランチャーの研究所建設現場。
研究所の建設現場は、想像以上に物々しかった。
リサは車を減速させ、思わずブレーキを踏む。
フェンスが二重に張られ、その内側を警備員が巡回している。
私設警備。
人数も配置も、工事現場の水準を明らかに超えていた。
(……立ち入り禁止、ね)
当然だ。
バイオAI開発を掲げる企業の研究施設。
論争の渦中にある以上、警戒は過剰なくらいでいい。
だが、
過剰であること自体が、情報でもあった。
リサは路肩に車を停め、窓越しにビデオカメラを構える。
近距離での撮影は不可能だ。
警備員の視線が、こちらを外さない。
ズームを最大にする。
画面の中央に映るのは、研究所ビルだった。
RC造。
地上三階、地下三階。
直線的で、無機質な外観。
八割方完成している。
外壁は仕上がり、ガラスもはめ込まれている。
だが、敷地全体は未完成だ。
駐車スペースは未舗装。
歩道も仮設のまま。
外郭工事が続いている。
研究所ビルの前では、作業員が荷物を運び込んでいる。
精密機器用のケース。
白い梱包材。
明日も、彼らはここで作業を続けるつもりなのだろう。
画面の端に、平屋の建物が映り込む。
倉庫だ。
簡素で、用途を語らない外観。
この物々しい建設現場を前にして、
リサは、ひとつ確信に近づく。
(……やはり、ここね)
APDEYのメール。
三日後。
九州。
パイロンとフクロウ。
象徴は、明確だった。
研究施設。
知性。
つまり、この研究所ビル。
リサはビデオカメラを下ろし、フロントガラス越しに現場を見つめる。
もし――
明日、ここで爆破が起きるとしたら。
どこからだ。
正面か。
地下か。
搬入口か。
フェンス越しでは、詳細は分からない。
だが、
見えないこと自体が、状況の一部だった。
警備は万全。
だが、完全ではない。
彼女は、深く息を吸った。
(起きるなら……明日)
根拠はない。
だが、勘でもない。
彼女は「起きる前提」で現場を見ていた。
それが、フリー・ジャーナリストとして生き残ってきた理由だ。
リサはエンジンをかけ、静かに車を発進させる。
今日、ここで出来ることは、これ以上ない。
空港近くのホテルの一室ーーー
リサは撮影した映像をチェックし終えたばかりだ。
ため息が漏れる。
(どう見ても、爆破物が仕掛けられる余地はない。一体どうやって……)
明日。
彼女は、遠くから、すべてを記録する。
それが、
唯一許された距離だった。
テロ実行予告日当日ーーー
北九州市郊外。
フリーランチャー研究所建設現場。
空は明るい。
明るすぎるほど、淡々としていた。
リサは前日と同じ道を走り、同じ路肩に車を寄せた。
同じフェンス。
同じ巡回。
同じ警備員の目。
違うのは数だった。
警備員が増えている。
警備車両が増えている。
現場の外側にまで、無言の緊張が滲んでいる。
(……何かが始まっている)
確信は、音ではなく配置で生まれる。
人間は、何かが起きる前に過剰になる。
その過剰が、事実の前兆になる。
リサはビデオカメラを構え、ズームを最大にした。
画面の中央に、研究所ビル。
八割完成。
直線。
ガラス。
無機質。
その前で作業員が動いている。
精密機器のケース。
白い梱包材。
荷運び。
普通の朝。
普通の動作が、あと数分で“過去”になる。
そう思うと、妙に滑稽だった。
リサは時計を見る。
秒針が進む。
進むだけ。
何も起きない。
それが、最も気持ちが悪い。
カメラを回し続ける。
レンズ越しに見る現場は、映画のセットみたいに静かだった。
作業員のひとりが、額を拭う。
別のひとりが、振り返って仲間に何か言う。
笑っているようにも見える。
その瞬間だった。
光。
一瞬、白に潰れた。
遅れて、音。
空気が殴ってくる。
車の窓が震え、胸の奥が揺れた。
金属音が追いつく。
低い衝撃が、骨に残る。
画面が跳ねる。
リサは手首の角度を殺して、カメラを落とさない。
呼吸が止まる。
喉が乾く。
次の瞬間、研究所ビルの一部が、内側から膨らんだ。
膨らんで、破れた。
ガラスが飛ぶ。
破片が光り、雨みたいに落ちる。
壁材が裂ける。
粉塵が噴き上がる。
煙ではない。
白に近い。
乾いた粉の柱。
そして、人間。
作業員たちが、弾かれたように動く。
走る。
転ぶ。
立ち上がる。
また走る。
誰かが何かを叫んでいる。
口が開いている。
だが爆音の残響が音を潰す。
世界がまだ揺れている。
フェンス内側の警備員が動く。
手で合図を出し、無線機を掴む。
群れを外側へ押し出そうとする。
だが、誘導という言葉は成立していない。
人は、出口に向かって走らない。
走れる方向に走る。
生存反射が理性を奪い取る。
作業員のひとりが、足場の陰で転ぶ。
背中を打つ。
隣の人間が手を伸ばす。
伸ばしかけて、やめる。
悪意ではない。
計算でもない。
恐怖は、人を孤独にする。
粉塵の中から、ひとりが這い出てくる。
ヘルメットがずれている。
顔が見えない。
咳き込んでいるのが分かる。
肩が痙攣している。
次の瞬間、上から鉄骨の破片が落ちた。
地面に刺さるように叩きつけられ、砂利が跳ねる。
彼は反射で身体を捻り、這う速度を上げる。
立てない。
立つという動作を、世界が許していない。
警報が鳴り始める。
甲高い。
無機質。
火災報知器の音。
その音が、パニックに命を与える。
「逃げろ」という言葉を、機械が代行する。
さらに、人が走る。
ぶつかる。
押し合う。
フェンス際で、警備員が作業員を押し戻す。
外へ出すために、強く押す。
作業員は抵抗しているわけじゃない。
ただ身体が言うことを聞かない。
足が、方向を失っている。
現場の中で、誰かが座り込む。
耳を押さえ、口を開けている。
叫んでいる。
音が届かない。
リサは唇を噛んだ。
近づけない。
助けられない。
ここから踏み込めば、次は自分が映像の中の人間になる。
彼女は撮る。
ただ撮る。
それが仕事だと知っている。
それが、リサ・モリヤマの倫理だ。
ビルの上層が、遅れて崩れた。
崩壊は爆発よりも怖い。
爆発は一瞬で終わる。
崩壊は時間を引き延ばす。
破壊が“続く”という事実が、人の心を折る。
柱が折れ、
床が落ち、
壁が剥がれ、
粉塵がもう一度、空を塞ぐ。
二度目の衝撃で、車のサスペンションが沈んだ。
リサの胃が浮く。
視界が歪む。
人間の群れが一斉に振り返る。
「もう一回来る」
誰かがそう判断した瞬間、
全員がさらに速度を上げた。
警備員の合図が、意味を失う。
秩序が、消える。
言葉が、消える。
ただ、走る音だけが残る。
粉塵の中、研究所ビルが沈み込んでいく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
まるで、ここで起きた人間の恐怖を飲み込むみたいに。
リサはズームを微調整する。
視界の端。
研究所ビルの陰。
何かが揺れた。
フェンス外の風が変わる。
粉塵が流れる方向が一瞬変わる。
その時、画面の端で、
別の建物の外壁が、爆風で剥がれた。
薄い外壁材が、紙のように捲れ、
欠けた四角い穴が一瞬だけ、内部を見せた。
粉塵が空を塞ぎ、
警報が鳴り続け、
誰かが倒れ、
誰かが引きずられ、
誰かが振り返り、また走る。
そして、現場はひとまず静まった。
静まったのではない。
動けるものが、動き尽くしただけだ。
リサはカメラを下ろさない。
下ろせない。
指が、まだ震えている。
画面の中で、研究所ビルは“建築中の骸”になっていた。
その骸を前にして、人間だけが、まだ動いている。
リサは喉の奥で唾を飲み込んだ。
これが、彼らの見せたかったものか。
爆破。
崩壊。
恐怖。
混乱。
そして、記録。
彼女は知っている。
もしこれが悪ふざけでなければ、
ETHICは、自分に“見たまま”を書かせるために、
ここまで準備した。
それが、
自分が引き受けに行くリスクだと。
大量の白煙がリサに迫ってきた。
急いで車のウインドウを閉める。
車が白煙に包まれる。
ガラスの粒子がフロントガラスに貼り付き始めた。
リサはエンジンを掛け、ライトを点けると、
視界ゼロの白煙の中を、
ゆっくりと車を発進させた。




