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第二章 この世界①

 深い眠りから覚めるように、僕は、すうっと意識を取り戻した。どれくらい気を失っていただろう。すごく長い間だったようにも思うし、一瞬だったようにも感じられる。あの後、僕たちはどうなったのだろうか。バスが何かにぶつかって、車内は、衝撃とともに大きく揺れた。気を失ったのか、そのあとの記憶はない。

 僕は周りを見回して、美紀と亮祐を探した。首を傾げて、目をこすった。もう一度視線を右から左へと。まだ眠りの中にいるのだろうか。不思議に思って、今度は思い切り目をつむって、ぱっと開いた。景色は変わらない。「あれ?」という声が思わずもれた。


目の前に広がっていたのは、二年一組の教室だった。


 机の上には、現代文の教科書と白紙のノートが置いてある。席は真ん中の列の最後尾だった。

 男子生徒が教科書を読み上げる声が聞こえる。教室の隅の時計に目をやると、十五時を回ったところだ。

 これは、夢なのだろうか。僕は、ほっぺたを両手で思い切りぱちんと叩いた。

痛い。意識ははっきりしている。眠っているわけではない、はずだ。何より、指先が教科書の紙にすれる感触、音読する生徒の声、目の前に見える黒板の赤チョークの色、唾を飲み込んだときの、喉に残る粘つき、窓から流れ込む初夏の緑の匂い。 そのどれもが、リアルな感覚として、僕の身に迫ってくる。これが夢だとは、到底思えなかった。

 しかし、例え現実だとしても、状況が全く理解できない。どうして、二年一組の教室にいるのか。服装も、あの日は私服を着ていたのに、今は夏用の制服になっている。

 記憶は、バスの中で途切れている。

 僕は、気持ちを落ち着かせようと、ケータイを探した。制服のポケットの中に入っていた。それを取り出して、永井からもらった桜のストラップを握りしめようと、ケータイの側面をなぞった――指先が、空を切った。

ない。さくらの花びらのストラップが――お守りが、なかった。

 どうしてだ。ストラップをケータイからはずしたことなんてない。だから、無くなるはずがない。大切にしていたのだ。お守りのように、肌身離さず、大切に――。

「それでは、次の段落から、永井さん、読んでください」

 窓からふわっと風が流れ込んだ。開け放したカーテンがかすかになびく。桜色にきらりと光るものを、視界の端にとらえた。

「はい」――風鈴が、響いた。

 空耳だと思った。目を疑った。呼吸が止まりそうになった。頭が真っ白になった。

 永井が、いた。窓際の前から三番目の席に、永井がいた。永井は教科書を手に、椅子を引いて立ち上がり、教科書を読み上げる。

 永井がいるはずがない。だって、永井は、三年生になった四月のあの日――。

 でも、恥ずかしそうに教科書を読み上げる小さな声。壊れてしまうんじゃないかと思うほどの頼りない背中。風に揺れる柔らかな黒髪。窓からの日差しに桜色の光を放つヘアピン。そのどれもが、どうしようもなく、永井だった。

 線を引くような涙が、静かに、頬を伝う。

 嬉し涙なのか、悲し涙なのか、悔し涙なのか、何の涙なのか分からないまま、感情を超えたところから感情が流れ出して、一筋、光った。

 これは、やっぱり夢なのだろうか。それとも、永井にもう一度会いたいという夢を、神様が、叶えてくれたのだろうか。

 涙で永井の姿が霞む。霞んだまま、揺れて、ぽたりと落ちた。白紙のノートの上に涙が滲んでいく。それはやがて花の形に広がっていった。再び、涙はぽたりと真っ白なノートの上に落ちる。そして花を咲かせる。色も名前を無いその花は、何度も消えて、また何度も咲いた。消えては咲いてを繰り返し、真っ白な景色に咲く 無色の花には、永遠が存在しているような気がした。


 チャイムが鳴って、放課後になった。僕は自分の席を立ち、覚束ない足取りで永井のもとへ向かった。途中で誰かに呼び止められたような気もしたが、僕の目は永井しか映していなかった。

 どこかで机の角に腿をぶつけた。痛かった。でも、僕には、それが嬉しかった。永井が目の前にいる今が、夢ではないのだと教えてくれているような気がしたから。

「あ、遠野くん」

 僕の姿に気がついて、帰りの仕度をしていた永井が、ぱっと振り向いた。

 永井は、笑っていた。永井の笑顔が目の前にある。これが喜びの感情なのかも分からないくらい嬉しくて、信じられなくて、僕の表情は固まったまま動かなかった。

「ちょっと待ってね。今、教科書とかノートとか、バッグの中に入れちゃうね」

 永井は、教科書を机の上でとんとんと整えて、バッグの中に丁寧にしまい始める。

 遥花。

 僕は心の中で叫んだ。遥花、遥花、と何度も、何度も叫んだ。

 ずっと好きだったと伝えた。永井もそれに応えてくれた。二人でいっしょに帰った。遥花と呼んでほしいと言われた。遥花と呼んだ。遥花は、嬉しそうに、恥ずかしそうに、微笑んでくれた。手をつないだ。ずっと、ずっといっしょにいたかった。だから、守りたかった。

「……どうしたの? 遠野くん」

 永井は、心配そうに眉を垂らし、首を傾けた。

声をかけたいのに、口から言葉が出てこなかった。ただ、ひたすらに永井を見つめた。そこに永井がいるんだと確かめるように、ひたすらに。

「遠野くん? 本当にどうしたの?」

 永井の表情が、苦笑いに変わる。ぎこちなく緩めた頬は、僕の心をぎゅうっと苦しめた。永井の最後の笑顔が脳裏に浮かび上がってくる。

 永井を死なせてしまったのは、僕だ。その罪の気持ちが、どうしようもなく胸に迫ってくる。

「……遥花」

 うめきに似たような、今にも消えてしまいそうなほど震えた声が、出た。

 永井は驚いたように目を見開いた。息を呑むように喉が上下する。まん丸な瞳が、さらに丸くなって、僕にはその瞳がたまらなく愛おしかった。

「遥花!」

 僕は叫んだ。声に出して叫んだ。喜びも苦しみも悲しみも、全てを包み込んで、僕は叫んだ。

「遠野、くん?」

「遥花!」

 永井に飛びついて、抱きしめた。強く、強く抱きしめた。そして、永井の名前をひたすらに繰り返した。あの日の続きをするように、あの日を取り戻すように、あの日を繰り返すように、「遥花、遥花、遥花」と何度も呼んだ。何度も、何度も、何度も呼び、永井の肩に顔をうずめた。

「遥花……」

「遠野くん。苦しいよ。みんな見てるよ、恥ずかしいよ」

 永井の声が聞こえる。確かに永井がここにいる。抱きしめれば抱きしめるほど、永井がここにいるということを、永井の確かな体温が伝えてくれる。

「ずっと、会いたかった。ずっと、ずっと」

 もう、二度と失いたくない。これが夢でも幻でも何でも構わない。例え夢の世界であっても、永井だけは、もう二度とあんな目に遭わせたくない。

 閉じた瞼の裏から、また温かいものが染み出してきた。それは、頬を伝って永井の肩に落ちた。

「ねえ、遠野くん。一つ、聞いてもいい?」

「うん。何?」

「遠野くんは、どうして、私のこと、遥花って呼ぶの?」

「え?」

 僕は驚いて、永井を抱きしめていた腕を離した。

「昨日まで、永井って呼んでた。どうして、急に遥花って呼ぶの?」

 永井は、真っ直ぐに、少し潤んだ目で、僕を見つめていた。僕は困惑したまま答える。

「永井が、遥花って呼んでほしいって、言ってたから、だから……」

「それは、いつのことだったの?」

 永井の目も、困惑したように細かく揺れていた。

「永井、覚えてないの?」

「ごめんね、答えてほしいんだ」

 永井の言っていることが理解できなかった。ここにいる永井が、僕の知っている永井とは、違う永井のような気もした。だから、僕は永井の目を見て、永井とのことを思い出しながら、言った。

「春休みの、部活帰りだった。巡り川のところの遊歩道で、二人で手をつないでた」

「私は、何て言ってたの?」

「『遥花って呼んでくれると、嬉しいな』って……」

 永井は、「そっか……」と言って俯いた。永井の表情が見えなくなる。しばらくして、「ずずっ」と洟をすする音が聞こえてきて、永井は言った。

「あのね、私、そんなこと言ってないよ……」

「え?」

「呼んでなんて、言ってないもん。言ってない、もん」

 永井のまん丸な目から、ビー玉のような涙が、ぽろりぽろりと流れ落ちる。それは、悲しみに近い天色の涙に見えて、僕には、永井の涙の理由を推し量ることができなかった。

「永井、どうして泣いているの? ごめん、僕、その、ごめん」

「違うの、そうじゃないの。遠野くんは、何も悪くないの。でも、どうして……。バカ、バカ。遠野くんのバカ」

 永井は泣きながら、僕の胸をぽかぽかと叩く。風鈴が響くような永井の小さな声は、頬をころころと転がるビー玉のような永井の涙を、静かに受け止めていた。

 僕は、ただうろたえることしかできなかった。永井が泣いている。永井の悲しい顔は見たくなかった。けど、僕にはどうすればいいのか、何も分からなかった。

 しかし、それも当たり前なのことなのかもしれない。人の心の内は、語られない限り誰にも分からない。いや、例え語られたとしても、伝えられるのは、きっと言葉だけで、心の形は誰にも分からないのだから。

 そもそも、僕には今、どうして自分が二年一組の教室にいて、目の前に永井がいるのかも、分かっていないのだから……。

 だから、何も分からない僕は、分かることだけを永井に伝え、分からないことは分からないと永井に伝えることにした。

「僕は、目の前に永井がいてくれることが、すごく嬉しい。でも、永井がどうして悲しんでいるのか、分からないんだ。だから、教えてほしい。永井がどうして泣いているのか。ほら、僕も、一応永井の質問には答えたわけだからさ、これでおあいこ」

「いや」

 永井は首をぷいっと横に振った。その拍子に、涙が頬から千切れて、光が弾けた。

「え……。どうして?」

「私のこと、遥花って呼んだ罰。だから、教えない」

「えー。なに、それ。というか、永井が自分で呼んでほしいって言ったんじゃないか」

「だから、言ってないもん」

「何か、もう。変だなあ……」

僕は頭を抱えるしかなかった。

「それは、きっと、遠野くんの前世の記憶なんだよ。それが、現世で蘇っちゃったんだ。うん。そうに違いない」

 永井は、泣き笑いの顔で、人差し指を天井に立てた。

「前世の記憶って……。もう、いいよ、それで」

 僕が笑うと、永井は、頬をぷくっとふくらませて反論した。

「だって、今、遠野くんの前にいる私は、呼んでほしいなんて言ってないもん。だから、きっと前世の記憶が蘇ったんだよ」

「永井って、たまによく分からないこと言うよね」

「あ、ひどい。私、みんなの前で抱きつかれて、すごく恥ずかしかったんだよ。動揺しているのかなあとか、考えてくれてもいいじゃない」

「そんなあ、無茶苦茶だよ。美紀じゃないんだから、そんな理不尽なこと言わないでおくれよ」

「それに、だよ。遠野くんは、女の子を泣かせたんだよ。君の罪は相当重いのだ」

 永井がしたり顔で笑う。その永井の表情を見ていると、僕はやっぱり嬉しくて、苦しくて、悲しくて――。

「誠太!」

 不意に、美紀の声が飛び込んできた。はっとして、声のしたドアの方に目を向けた。美紀が焦った様子で二年一組へ入ってきて、窓際にいる僕のもとへ駆けてきた。

「これって、どういうことなの? 何が起こってるの?」

 美紀は僕の両腕をつかんで、ゆさゆさと揺らした。よかった。美紀も無事でいるようだ。僕は、その事実にひとまず安堵した。

「ちょっと、美紀。落ち着きなよ、ね」

「さっきまで、私たち、バスの中にいたじゃない。どうして、学校にいるの?」

 美紀は混乱していた。僕と同じように、今置かれている状況を理解できなくて、焦っているようだった。

「落ち着けって、美紀。まず手を離してほしんだけど」

「だ、だって、わけ分からないんだもん!」

 美紀が取り乱すなんて珍しいなと思ってると、僕を揺らしていた美紀の腕が、隣の永井の肩にぶつかった。

「きゃっ」

 永井が短く声をあげると、美紀はぴたり、と動きを止めた。ゆっくりと永井を振り向く。表情が固まった。

「はるちゃん……?」

「今野さん、こんにちは」

「はるちゃん、だよね? 本当に、はるちゃんなんだよね? 嘘じゃないよね?」

 美紀は、自分の言葉と永井の存在を確かめるように、ゆっくりと、言葉を口にする。

「私は、私だよ。永井遥花、十六歳。文芸部部長です!」

 永井はおどけて、兵隊さんのように敬礼をした。そして、照れたように「えへへ」と微笑む。

「はるちゃん!」

 美紀は永井に抱きついた。永井の体がよろめく。美紀の目は、信じられない奇跡に満開の喜びを湛えて、潤んでいた。

 永井は、本日二度目の抱擁に恥ずかしそうに頬を染め、「はるちゃん、会いたかった」と頬ずりする美紀に、永井は全てを受け止めるように「うん、うん」と頷き返していた。

「はるちゃん。私、はるちゃんのこと大好きだよ。私にとって、はるちゃんは、すごく大切な存在なんだから。ちゃんと覚えておきなさいよ」

「ありがとう、今野さん。私も、今野さんのこと、好きだよ」

「あーん。はるちゃーん」

「もう、遠野くんといい、今野さんといい、今日はどうしたの? 突然で、私もどうしていいか分からなくなっちゃうよ」

「はるちゃーーん。私、もうはるちゃんのこと離さない。ぜーったい離さないんだから」

「もう、今野さんったら。でも、とりあえず、今は離してほしいかなあ」

「いやだ! 絶対離さないもん」

「えへへ。遠野くん、どうしたらいいかなあ?」

 後ろの窓から光が差し込んで、永井の姿がうっすらと光の中に溶け込んだ。何だか永井がここいるようで、ここにいないような、そんな錯覚に囚われて、僕は永井の姿を眩しそうに見つめた。

「ごめんな、永井。今日は、僕も美紀もどうかしてるみたい。美紀、永井が離れてほしいってさ」

「しょうがないなあ……。誠太はいちいちうるさいのよ。もう」

「いや、いちいちうるさいの、美紀の方じゃないか?」

「うるさい。はるちゃん、ごめんね。急に抱きついたりして」

「ううん、いいの。気にしないで。私は、今野さんの気持ち聞けて、嬉しかったよ」

「私も、はるちゃんに好きだって言ってもらえて嬉しい」

 美紀と永井は目を合わせて笑い合う。何とも言えず温かい光景だった――のに、永井の目は潤んで、寂しそうに揺れていた、のは気のせいだろうか。

「じゃあ、みんな揃ったし、部活に行こーう」

 握りこぶしを突き上げて、永井は元気よく笑った。

 そういえば、亮祐はどうしているんだろう。僕と美紀は、ここにいる。けど、亮祐の姿がさっきから見当たらない。

「ごめん、永井。ちょっと待って。美紀、亮祐はクラスにいなかったの?」

「それがね、亮ちゃん、今日学校休んでるだって。教室にいなかったから、陸上部の友達に聞いたら、学校サボってプロ野球の試合見に行ってるんだってさ。ドラーズのデイゲームの試合らしいよ」

「そう……。大丈夫なのかな、亮祐。心配だね」

「心配いらないでしょ。野球の試合行ってるって言うんだから、大丈夫なんじゃないの。知らないけど」

「本当に、美紀は亮祐に冷たいよなあ。心配してあげなよ」

「知らない。心配してほしいなら、学校来て、私たちに顔見せなさいよ。まあ、そもそも亮ちゃんだったら、どんなことがあっても笑ってお終い、でしょ」

「ね、ねえ。亮祐くん、何かあったの?」

 永井は心配そうな表情を浮かべていた。そうか、永井は、僕たちがバスで東京へ向かったということは知らないのか。知りようもないもんな。

「あのね、」

「永井くん。ちょっと来てください。先生が呼んでますよ」

 事情を話そうとしたとき、常盤くんが教室のドア越しから永井を呼んだ。

「何だか、怒ってたみたいだから、早く行った方がいいかもしれませんよ」

「え……。私、何かしたかなあ。分かった。常盤くん、ありがとうね」

永井は慌ててバッグを手にとって、僕と美紀と向き合った。

「ごめんね、ちょっと行ってくるね。遠野くんも、今野さんも、先に部室行っててくれて大丈夫だから」

「そっか。じゃあ、先に行ってるから」

 僕が笑って応えると、永井は「うん」と頷いて、教室を出て行った。ドアのところで、常盤くんと少し話をして、永井は廊下を東の方向へ歩いていった。

「ねえ、誠太」

「何?」

「これ、本当に、どういうことなんだと思う?」

 美紀は眉をひそめる。僕にも、どういうことかなんて、分からなかった。

 常盤くんが僕と美紀の前に来た。僕よりも少し背の高い常盤くんは、僕たちを見下ろす格好になって、頭を下げた。

「すみません。お二人に、少しお話したいことがあるのですが」

 常盤くんらしい物腰柔らかな口調だった。僕が頷いたのを確認してから、常盤くんは続けた。

「さっき、遠野さんは、永井くんに抱きついてましたよね」

「え? 誠太、教室ではるちゃんに抱きついたの?」

 美紀が驚いて反応した。切れ長の目が、見開かれて少し丸みを帯びる。

「うん、まあ、勢いで、って言うか」

「この、この。大胆な男だねえ。いつの間にそんな強引な男になったのよ。っていうか、学校の中ではいちゃつかないって、亮ちゃんに散々怒られてたじゃない。何してるの」

 美紀が、茶化すような笑みを浮かべて脇腹を小突いてくる。

「美紀だって、永井に抱きついたじゃないか」

「男と女じゃ、全然意味が違うでしょ。もう、本当に誠太ははるちゃんのことしか見えてないんだから」

「あの、すみません。話してもいいでしょうか?」

 常盤くんが咳払いをして、僕と美紀を苦笑いで見つめた。

「ああ、ごめんね、常盤。はい、じゃあ、続けて。どうぞー」

 美紀が常盤くんに両手を広げて、少しおどけると、常盤くんは決まりの悪そうな顔で話し始めた。

「あの、ですね。もし意味が分からなかったら、忘れていただいて構わないのですが」

「何よ、回りくどい言い方しちゃって」

「この世界では、まだ遠野さんと永井くんは、付き合っていないんです」

「……は?」

 美紀は口を半開きにして、常盤くんを見つめた。僕は常盤くんの言っていたことの意味が分からなくて、沈黙した。そんな僕に代わって美紀が口を開いた。

「何言ってるの? 誠太とはるちゃんは、両思いで……付き合ってたじゃない」

「はい。そうです」

 常盤くんは、それも分かっています、といったふうに小さく頷いた。そして、きっぱりとした口調で続けた。

「でも、今は付き合ってないんです」

「常盤、本当に何を言ってるの?」

美紀が怒りを露にして、眉をひそめた。切れ長の目がさらに鋭くなって、怖いくらいだった。

 常盤くんは、何かを見極めるように、僕と美紀を見つめていた。その常盤くんの態度が気に障ったのか、美紀は声を荒げた。

「あんただって、知ってるはずでしょ! あんなことがあって、それで、それで……誠太とはるちゃんは……やっと会えたんだよ」

 美紀の声は震えていた。僕の気持ちを汲んで、僕のことを思いやってくれているのだと、分かる。

常盤くんは一瞬黙って、そして、得心したように微笑みながら頷いた。

「もちろん、知っています。でも、だから、なんです」

「はあ? 意味分からない。……あ、分かった。常盤は、誠太にはるちゃんを取られたのが悔しいんでしょ。だから、こんなこと言って、誠太を撹乱させようとしているんでしょ」

「違います」

「だって、あんた、ずっとはるちゃんのこと好きだったじゃない。あんたは振られたんだから、黙って身を引きなさいよ!」

「振られてません。この世界では、まだ告白もしていませんから」

「さっきから意味が分からないんだよ! バカ!」

 美紀は今にも常盤くんに掴みかかりそうな勢いだった。いいやつだけど、短気で、だからこそ、優しいやつなんだとも、思う。

「私が言いたいことは、この世界ではまだ二人はお付き合いをしていないわけですから、さっきのような破廉恥な行為は慎んだ方がいいと思いますよ、ということです。すみません、それでは、失礼します」

 呆気に取られたままだった僕と、何か言いたそうに口を開いて睨んでいた美紀を置いて、常盤くんは軽くお辞儀をして立ち去ってしまった。

「ちょっと、待ちなさいよ!」

 常盤くんがドアに手をかけたところで、ようやく美紀は口を開いたが、常盤くんは、頭を下げて、すっと教室から出て行ってしまった。

この世界ではまだ遠野さんと永井くんは付き合っていない。この世界では。確かに 常盤くんはそう言った。どういうことなのだろうか。ますます分からなくなってしまう。

「何よ、あいつ。常盤ってあんなに意味の分からないこと言うやつだっけ。むかつくなあ。学年一位のくせに頭おかしいんじゃないの」

 目が覚める前、僕と美紀はバスの中にいた。気を失っていた。気がつくと、そこは二年一組の教室だった。

「美紀、走る!」

「え? どうしたの急に。ちょっと、待ちなさいよ!」

 僕は走って教室を出て、常盤くんを追った。美紀も僕のあとに続いた。階段を駆け下りて昇降口へと向かった。とにかく、常盤くんから話を聞かなければ話にならない。常盤くんはきっと何か知っているはずだった。

 しかし、下駄箱には、もう常盤くんの靴はなかった。

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