第一章 いつかの春⑤
四月に入り、桜は徐々に散り始めていた。地面にも、桜の花びらが広がって、まるで桜の絨毯みたいに美しかった。
春休みが終わる二日前。今日は、僕の誕生日だった。
お昼過ぎから部室に集まって、短編小説を書き進める予定だった。正門をくぐって、学校の敷地の中に入ると、今から帰るところなのか、ちょうど昇降口から出てきた常盤くんと会った。
「あれ、常盤くん。春休みなのに、どうして学校にいるの?」
「こんにちは、遠野さん。いえ、大した用ではありませんよ。生徒会の活動のことで、先生と話したいことがあったので」
常盤くんは軽く微笑んで、縁なしの眼鏡を指で押し上げる。常盤くんとは、二年一組で同じクラスだった。テストのときには、例外なくいつも学年一位をとる、見た目通り頭のいい、そして温和な人だった。
「そうなんだ。さすが常盤くん、って感じだね」
「どんな感じなんですか、それ……」
常盤くんは苦笑いを浮かべ、でも少しだけ嬉しそうでもあった。
常盤くんとは、最初のころは、そこまで仲良くなかった。二年生の夏休みに、巡り川で行われる花火大会に文芸部のみんなで行ったときに、たまたま常盤くんといっしょになって、みんなで花火を見上げた。それ以来、常盤くんとは、仲良くやっている。ただ常盤くんは美紀のことは苦手にしていたようだけど……。
「そうだ。遠野さん、今日誕生日ですよね。おめでとうございます」
「ありがとー。でも、あれ、どうして知ってるの?」
「実は、永井くんが教えてくれたんです。永井くんから、どんなプレゼントがもらえるか、楽しみなんじゃないですか?」
「そうだね、ちょっと、ドキドキしてる。……って、あれ? 常盤くん、もしかして、知ってるの?」
「ええ。永井くんと、付き合っているんですよね」
「あらら。情報回るの早いなあ。誰から聞いたの?」
「誰にも聞いていませんよ。私はだてに学年一位をとっているというわけではないのですよ」
含み笑いを浮かべて、眼鏡を光らせた。
「とにかく、おめでとうございます。私も、永井くんが遠野さんのような素晴らしい方といっしょになられて、嬉しいですよ」
常盤くんは、今度は素直な笑顔を浮かべた。本当に喜んでいるような、だから、少し悲しみの溶けた笑顔でもあった。
「ありがとう、常盤くん。その、常盤くんには何と言ったらいいか……」
「やめてください。遠野さんが謝ることは何もありませんよ。私には気にせず、思い切り永井くんと付き合ってください。永井くんが笑ってくれていれば、私はそれが嬉しいのですから」
常盤くんは僕の目を真っ直ぐに見て、念を押すように微笑みながら頷いた。だから、その笑顔が僕の胸を苦しくさせるというのに……。
僕は、常盤くんに応えるように首を縦に振った――少しだけうなだれているようにもなってしまったけど。
常盤くんも、永井のことが好きだったのだ。季節が冬の寒さを準備し始める十一月の終わり、常盤くんは永井に告白をした。けれど、永井は常盤くんの差し出した手を、頭を下げて断った。そして、今は、僕といっしょにいてくれている。
部室の戸を開くと、僕以外のみんなはもう顔を揃えていた。
「誠太ちゃん、誕生日&はるちゃんと付き合えておめでとー!」
パン、パン、とクラッカーが弾ける音ともに、紙くずが僕の顔面に降り注ぐ。盛大にクラッカーを鳴らしたのは、案の定、亮祐だった。
「よかったねー、誠太ちゃん。こんなにも嬉しい出来事が二つも重なるなんて、この幸せ者め!」
亮祐は、ぐしゃぐしゃと僕の頭をなでてくる。そして「これ、俺からの誕生日プレゼント、受け取れい!」と言って強引に何かを押し付けてきた。
それを受け取って見てみると、両手で包み込めるくらいの大きさの、カエルのぬいぐるみだった。
「何で、カエル?」
「いやあ、可愛かったから、つい。誠太ちゃんにも似合うかなあって思って」
「思ってねえだろ」
「ごめんなさい。嘘つきました。本当は、すぐに準備できなくて、妹からもらってきました」
「まあ、でも、いいよ。ありがとう。ベッドのそばにでも置いておくよ」
「さすが誠太ちゃん、優しい!」
亮祐は僕に親指を立ててくる。僕は「やれやれ」とため息を吐きながら、カエルのぬいぐるみをリュックの中にしまった。
「遠野くん」
永井が両手を背中の後ろに隠しながら、にこにこと笑っていた。
「次は、私からの誕生日プレゼントです! はい、遠野くん。誕生日おめでとう」
永井は、ギフト用の小さな紙袋を僕に手渡した。「ありがとう」と受け取ると、中でちゃりん、という金属が鳴る音が聞こえた。
何だろう? 不思議に思って、期待に胸が高まって、ドキドキとしていると、永井が頬を紅潮させながら「早く開けてみて」と、僕を促した。
「よしっ。じゃあ、開けるね」
「うん!」
永井は嬉しそうに、楽しそうに、満面の笑顔で頷く。僕のことを想って誕生日プレゼントを探してきてくれたのだろう。そう思うと、永井がとてつもなく可愛く、愛おしい存在として僕の目の前に現れてくる。
そっと紙袋の口を開けて、片目を閉じて中を覗いてみた。輪っかになった紐のようなものが見える。それを指でつまんで取り出す。
桜の花びらの形をしたストラップだった。桜の花びらは金属でできていて、桜色が永井のヘアピンと同じ色に光っていた。花びらをひっくり返すと、裏は無地の銀色になっている。輪っかの部分は黒色で、輪っかと桜をつなぐ部分には、金属の棒みたいなものが取り付けてあった。
目の前でぷわぷわと揺れる小さくて可愛らしい桜の花びらは、まるで永井みたいに見えた。
「永井、ありがとう。ケータイにつけて、いつでも肌身離さず持ってるよ」
「うん」
「こんなに可愛いストラップ、どこで買ったの?」
「えへへ、秘密」
「えー。いいじゃん、教えてよ」
「だって、もし教えたら、なくしたときにすぐに買いに行っちゃうかもしれないもん。だから、ちゃんとなくさないようにしてね」
永井はいたずらっぽく笑って、片目をつむってウィンクをした。
「なくすわけないじゃないか。だって、永井からのプレゼントなんだから」
もしかしたら、あの日取った桜の花びらのお返しだったりするのかな。もしそうだとするなら、本当に、考えることが可愛らしいな、と思って、さっきから、可愛いばかり言っているような気もして、僕は一人で苦笑した。
僕は永井からもらったストラップの紐を、ケータイの上側面の穴に通した。一枚の桜が、僕の目の前で散るでもなく咲くでもなく、光っている。
永井と目を見交わして、笑った。永井の桜色のヘアピンも、きらりと光った。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
本日の文芸部の活動を終えて、永井は帰り支度をしながらみんなに声をかけた。夕方の五時を過ぎていたが、外はまだ明るかった。
「はるちゃん。今日は俺と今野、まだ部室でやらないといけないことあるから、誠太ちゃんといっしょに先に帰っててよ」
亮祐が、いつになく落ち着いた声で言った。だから、その言葉はどこか台本を読むみたいになってしまっていたのだけど。
「何、亮祐。僕たちに内緒で何かするつもりなの?」
僕は意地悪な笑みを亮祐に向ける。
「いいから、先に帰ってなって! な?」
「亮祐が何をするつもりなのか教えてくれたら、帰ろうかなあ」
「遠野くん」
制服の袖を引っ張れた。振り返ると、これ以上何も言わない方がいいよ、と永井は黙って小さく首を横に振った。
「永井?」
首を傾げると、永井は、今度はぎこちなく笑って頷いた。黙って窓の外を見つめていた美紀に目をやって、僕の耳元で教えてくれた。
「今野さんも亮祐くんも、今日は私と遠野くんを二人きりにしてあげようって思ってるんだと思うよ。せっかくの遠野くんの誕生日なんだから」
あ、そういうことか――。ちょっと考えれば分かりそうなことなのに、つくづく、自分の勘の悪さに、自分で決まりが悪くなる。僕のこの辺の性格が、美紀に「バカ」と言われてしまう所以なのだろうな。
僕たちの話が聞こえていたのか、亮祐は「そういうこと」とウィンクして笑った。
「さあ、帰った、帰った。二人で楽しんできなさい」
そう言いながら、僕と永井を部室の外に押しやって、「バイバーイ。また明日」と白い歯を見せた。
「う、うん。また明日」
僕と永井は、開け放したドアの廊下側から亮祐に手を振った。そして、「じゃあね、美紀。また明日の朝、迎えに行くから」と窓枠に肘をかけて春の景色を眺めていた美紀にも声をかけた。僕の言葉のあとを追うように、永井も「今野さん、またね」と小さく手を振った。
「うん、また」
美紀は顔だけ僕たちに向けて、小さく手を振った。
僕と永井は、二人で学校を出た。春休みで、学校の周りを歩いている人も、ほとんどいない。だから、というわけではなかったけど、まるで世界には僕と永井しかいないように感じられた。もちろん、二人きりで帰る、なんて初めてで緊張していたから、周りなんて全然見えなくて、そういう気持ちになっていただけだと思うが。
学校から徒歩十分ほどのところに、巡り川の流れに沿った遊歩道が作られている。遊歩道の右手には巡り川が流れ、左手には桜が一列に並んでいる桜並木がある。もう桜の盛りはとっくに過ぎて、花びらは少しずつ、アスファルトの上に散り始めている。
「改めてだけど、誕生日プレゼント、ありがとう。すごく嬉しかったよ」
「いえいえ。ほら、私、桜が好きだから。遠野くんも好きになってくれたら嬉しいなって、思っただけだよ」
「でも、本当に可愛いし、綺麗だし……何か、お守りみたいだなって、思ったんだ」
僕は制服のポケットからケータイを取り出して、桜のストラップを顔の前に掲げた。
「じゃあ、お守りにしよっ。何のお守りがいいかなあ」
「来年は受験だから、合格祈願、とか?」
「桜だもんね、合格祈願ってぴったりかも。でも、もっと他のにしようよ!」
「え? うん、そうだね。じゃあ、どうしよう?」
「うーんとねえ。これからも、いっしょにいられますように、っていうのはどう? 次の春も、またいっしょに桜を見られますようにって」
永井は、僕を下から覗き込んで、幸せそうに笑った。次の春も、絶対いっしょにいられるよと伝えてくれているみたいだった。
「そうだね、うん。この桜は、そういうお守りにしよう」
「うん!」
僕はケータイを――お守りをポケットにしまって、立ち止まった。
「どうしたの? 遠野くん」
「ねえ、永井」
永井は、「うん?」という具合に首を傾げて僕を見つめる。
「手、つないでいい?」
僕の言葉に、永井は髪の毛をふわっとさせて、嬉しさいっぱいの満面の笑顔で頷いた。
「うん!」
「じゃ、じゃあ、つなぐよ?」
「うん」
永井の小さな手をとる。永井の体温が、じんわりと手から手へと伝わってくる。最初は冷たく、そして次第に温かくなってくる。永井の手は、ふにふにとして、すごく柔らかかった。僕は、嬉しさと喜びと緊張とで、わけが分からないほど幸せだった。
永井と手をつないで歩いている。
ずっと、大好きだったのだ。「どうして?」と理由を訊かれてもうまく答えられない。「いつの間にか」と答えると、軽く聞こえてしまうけど、だから、理由もないほど大好きだったのだ。好きなことが当たり前なほどに、理由をあてはめる必要もないくらいに、大好きだったのだ。
永井と渡り廊下で出会ったとき、僕はすでに、永井が好きだという感情を知っていた。そんな気さえするのだ。しかし、それは一目惚れとは絶対に違う、久しぶりに好きな人と会ったときのような、好きな気持ちを想起させられたような感情だった。
永井が僕の顔を見上げて「えへへ」と恥ずかしそうに笑った。その表情は、何だか桜を溶かし込んだみたいに柔らかで可愛らしかった。
だから、僕も笑い返す。僕の表情は、永井にどう映るのだろう。かっこよく映ってほしい、なんて都合のいいことは願わない。永井の瞳の中に僕がいるということが、嬉しい。
「ねえ、遠野くん。今度は、私からのお願い、聞いてくれる?」
「もちろん」
「私のこと、遥花って呼んでくれると、嬉しいな」
「え?」
頬に、ぼっと火がついたみたいだった。永井は、やっぱり困っちゃうよね、というふうな苦笑いを浮かべて、
「もし恥ずかしかったら、無理して呼んでくれなくても、いいよ。私がそう呼んでほしいってだけだから。でも、もしも、遠野くんが私のことを、遥花って呼んでくれるのなら、それはすごく嬉しい」
春の風が、巡り川に生えている草たちをさわさわと揺らして、その風は、永井のわたがしのような柔らかな髪も、なびかせる。
僕は大きく深呼吸をして心の準備を整えた。大丈夫、呼べる。緊張しても、呼べる。
「……は、は、は」
「遠野くん?」
「は、はる、はる、か。……遥花」
「なーに?」
「遥花」
「うん」
「遥花!」
「誠太くん」
「え、え?」
「誠太くんが、私のこと、遥花って呼んでくれるなら、私も誠太くんのこと、誠太くんって呼ぶ!」
永井が僕に飛びついて抱きついた。僕も永井を抱きとめて、抱きしめた。
永井の髪の毛から甘い香りが漂ってくる。シャンプーの匂いだろうか、その匂いが、何だか永井の存在を際立たせているようで、それでいて、今すぐにでもどこかに行っちゃうんじゃないかという不安を駆り立てるようでもあった。
「あそこの美容院、来週からオープンするんだよね」
巡川駅のロータリーに着くと、この春に新しくできた美容院を眺めながら、永井が言った。
「いいなあ、私も行ってみたいなあ。あ、そうだ、誠太くんの好きな髪形にしてみようかな! 誠太くん、どんな髪型が好きなの?」
「うーん。そう言われても……。今の永井で充分可愛いと思うけど」
僕は、永井の可憐な黒髪を見ながら言った。肩にかかるくらいの長さも丁度よく永井に似合っているし、髪の毛の一本一本も瑞々しくて綺麗だ。
「もう、そんなこと言ったって、何もでないぞ」
永井はおどけたように頬を膨らませて、笑った。




