第二章 この世界⑤
南棟の三階にある文芸部の部室のドアを開けると、常盤くんはまず僕に詫びた。
「すみません。いきなり投げ飛ばしたりして。お怪我はありませんでしたか?」
「大丈夫。これでも昔は野球をやってたからね。体は鍛えられているんだ」
机に座りながら、僕は答える。興奮は大分収まっていた。落ち着いた様子の僕を見て常盤くんも安心したのか、ほっとした表情になった。そして、ドアの横の壁によりかかって腕を組んでいた美紀に声をかけた。
「今野くんは、まだ怒っているのですか?」
「常盤、あんた、何を考えているの? 私たちを、どうしようとしているんだ」
美紀は目を瞑ったまま、怒りを露にした声を出した。
「私は、どうこうするつもりは全くありませんよ。これは、私の仕事でもありますから」
「はあ? だから、昨日から意味が分からないって言ってるんだよ。もしかして、 私と誠太を『この世界』に連れて来たのは、常盤なの?」
美紀は閉じた目をすっと開いて、常盤くんをにらみつけた。美紀の鋭い目つきにも、常盤くんは全く動じない。
「それは、断じて違います。私にそんなことできるわけがありません」
「じゃあ、常盤は何を考えているんだよ! 説明しろよ!」
「美紀」
僕は、声で美紀をいなした。美紀は、僕を見てぷいっと顔を背け、口を閉じた。
美紀はもったいぶった口調を続ける常盤くんに苛立っていたのだと思う。昨日から色々なことがあった。頭と心の整理もできていないだろう。それは僕も同じであった。そして、考えて行き着いた結論がタイムスリップなのだから、余計に頭は混乱してしまう。感情のコントロールも、難しくなる。
「それで、話したいことって、なに?」
僕が話を促すと、常盤くんは静かに話し始めた。
「もうお気づきになっているのかもしれませんが。遠野さんと今野くんは、タイムスリップをして『この世界』へやってきました」
部室が、しんっと静まり返る。太陽が雲に隠れてしまったのか、窓から差し込んでいた光が、すっと暗くなる。雨が降るのかもしれない。
やっぱり――という思いよりも、本当なのか、という思いの方が強かった。信じられない、というわけではなかったが、改めてはっきりと言われると、どうにも混乱してしまう。タイムスリップという言葉は、僕たちの日常からはあまりにも遠く離れすぎていた。
「タイムスリップというよりも、私たちは『タイムループ』と呼んでいるのですが。遠野さんたちは、一年後の、つまり二〇一四年の六月から、『この世界』、つまり二〇一三年の、六月二十四日に『タイムループ』をしてきた、ということになります」
静かに静かに常盤くんは続ける。当たり前のことを話すように、教科書の文章を読み上げるように、淡々と続ける。
「だから、当然、時田さんはまだ何もしていません。彼に殴りかかるのは、筋違いです。同じように、永井くんに抱きつくということも、です。遠野さんも今野くんも、一年前の世界に来ているわけですから」
それとさらに同じように、美幸さんもいる、ということだろうし、新入生はいないということにもなるのだろう。
「……どうして、常盤がそんなこと知ってんのよ」
美紀が、困惑に滲んだ表情を浮かべた。常盤くんは、にこりと微笑んだ。寂しそうな笑顔でもあった。
「私も、『タイムループ』をして『この世界』へ来たからです」




