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第47話:さよなら、私の愛した魔法(レイ)

世界が黒い泥に飲み込まれようとする、その極限の淵で。

 一ノ瀬蓮の姿を象っていた「水の賢者・葵」の術式が、音を立てて剥がれ落ちていく。紺色のマントは霧散し、長い髪は短く切り揃えられた黒髪へと戻る。

 そこに立っていたのは、伝説の賢者などではない。

 ただ、泣き出しそうな顔をした、どこにでもいる一人の少年だった。


「嫌だ……。嫌だよ、レイ。……どうして、いつも君が犠牲にならなきゃいけないんだ。僕が、僕が代わりになる。僕の魂をあそこに叩き込めばいいだろ!?」

 蓮は叫んだ。膝をつき、石畳を拳で叩き、子供のように泣き喚く。

 最強と謳われた彼が、これほどまでに無様に、これほどまでに必死に、運命を拒絶したのは初めてだった。背後で膨張を続ける「黒い絶望」が、蓮の影を長く、暗く引き伸ばす。

『蓮。……泣かないで。……私を、見て』

 レイは、冷たくなり始めた蓮の手を、自身の白銀に輝く両手でそっと包み込んだ。彼女の身体は、既に封印の「鍵」としての役割を果たすべく、淡い光の粒子へと変わり始めている。

『……覚えている? あの雨の日。……薄暗い公園で、私を見つけてくれたこと』

「忘れるわけないだろ……。君が……君があの日、僕の前に現れたから、僕の世界は変わったんだ」

『私もよ。……貴方のあの、呆れるほど真っ直ぐで不器用な優しさが、私に心を与えてくれたの。……楽しかったわね。貴方と一緒に食べたモンブランも……それから、あの和菓子屋さんで食べた羊羹も。……人間が作るものは、あんなに甘くて、温かいものだって、貴方に教わったのよ』

 レイは慈しむような瞳で、これまでの他愛のない日々をなぞるように語る。

『学園祭も、楽しかった。……貴方と一緒に屋台を回って、たくさんの人と笑って。……ただの精霊だった私を、貴方は「一人の女の子」として扱ってくれた。……一ノ瀬蓮という男の子の隣にいた時間は、私の悠久の時の中で、一番輝いていたわ』

 蓮の頬を、熱い涙が伝い落ちる。

 脳裏に蘇るのは、戦いの日々ではない。

 雨の日の冷たさ。放課後の夕日。二人で分け合ったお菓子の味。授業中に小声で交わした、どうでもいい会話。

 それら全てが、今、掌から零れ落ちようとしていた。

「……僕も。……僕もだよ、レイ。……平穏な日常が欲しかった。魔法なんて、賢者なんて、どうでもよかった。……でも、君が隣にいてくれる日々は、僕にとって何物にも代えがたい……本当の幸せだったんだ!」

 蓮は号泣した。声を上げ、魂を削り出すように泣いた。

 そんな彼の頭を、レイは優しく、母親のように、あるいは恋人のように抱きしめる。

『……ありがとう、蓮。私を救ってくれて。……私に、愛を教えてくれて。……本当に、楽しかった。……これ以上ないくらい、私は幸せだったわ』

 レイの身体が、さらに強く、純白の光を放ち始める。別れの時間が、無慈悲に訪れようとしていた。彼女は蓮の耳元で、そっと囁いた。その声は、春の風のように優しく、透明だった。


『泣かないで、蓮。……貴方は、普通の男の子に戻るだけよ』


「レイ……っ!!」

『……お別れの時間ね。……あとは、任せたわよ。……私の、愛した……蓮』

 彼女の微笑みが、光の中に溶けていく。

 蓮の腕の中にあった温もりは、一瞬にして千の光の粒子となり、空中で凝縮されていった。

 

 それは、この世の何よりも美しく、何よりも悲しい輝きを放つ、銀色の「鍵」。

 蓮は、溢れる涙を拭うことさえせず、その鍵を震える手で掴んだ。

 指先から伝わってくるのは、彼女の最後の温もりと、世界を救ってほしいという、気高い願い。

「……ああ。……分かったよ、レイ。……僕は、君の願いを、果たす」


 蓮は立ち上がった。

 目の前には、世界を飲み込もうとする漆黒の絶望。

 蓮は、銀色の鍵を天高く掲げた。

 彼の中に残された、最後の一滴の魔力を。

 そして、この世界に満ちている、全ての魔法の根源を。

 一つの術式へと収束させる。

 それは、古の書物にも記されていない。一ノ瀬蓮という、魔法を愛し、魔法に愛され、そして魔法によって最愛の人を失う少年だけが辿り着いた、真の終焉の術式。

 蓮は、震える声で、しかしはっきりと、その名を紡いだ。

「――最後だ。……全ての魔法きみに、さよならを」

 蓮の瞳が、銀色の輝きを帯びる。

 彼の全身から、これまで積み上げてきた全ての経験、記憶、力が、鍵へと吸い込まれていく。

「ロスト・マジック――展開。……『レイ』」

 それは、全てを「ゼロ」に還す、無に等しい純白の光。

 そして、彼の愛した少女の名を冠した、奇跡の封印。

 銀色の鍵から放たれた光の輪が、膨張する黒い魔素を包み込み、一瞬にして、次元の彼方へと吸い込んでいった。

 

 爆音も、風もなかった。

 ただ、絶対的なまでの「浄化」の光が東京を、日本を、そして世界を駆け抜けた。

 空を埋め尽くしていた不気味な魔法陣が、雪のように解けて消えていく。

 人々の身体の中に流れていた魔力の回路が、静かにその活動を止め、ただの「血」へと戻っていく。

 

 蓮の手にあった銀色の鍵は、役割を終えたかのように、砂となって風に舞った。

 それと同時に、蓮の視界から「魔素の色」が消えた。

 空は赤紫から、ただの夜の闇へ。

 瓦礫は魔法の残滓を失い、ただの瓦礫へ。

 一ノ瀬蓮は、虚空を掴もうとした手を、ゆっくりと下ろした。

 頬を撫でる風は冷たく、けれどどこか清々しかった。

 もう、魔力の拍動は聞こえない。精霊の囁きも、魔法の輝きも、ここにはない。

 あるのは、ただ静かに明けようとする、灰色の空だけだった。



 この日、世界から魔法が消えた。

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