一日目
出発の朝、カーテン越しに差し込む陽光に気がついて目を覚ました。珍しくスマホのアラームに頼らない、いつもと違う爽快な目覚めだった。
ベッドで大きく伸びをして立ち上がる。洗面台へ向かい、蛇口をひねって冷水で顔を引き締めた。着替え、携帯用品の準備を整える。身なりは問題なし。次は部屋の確認だ。火の元に気を配り、照明やコンセントのスイッチをオフにする。窓の施錠もしっかり確かめた。支度をすべて終え、いざ出陣である。
玄関のドアを開ける感覚は、会社へ向かう毎朝のそれとはまるで違っていた。肩の荷が少しだけ下りたような感覚。歩き慣れた道を進みながら、どこか名残惜しさすら覚える。
駅の改札を抜け、エスカレーターを下り、定刻通りにやってきた電車に乗り込んだ。電車に揺られて、のらりくらり。揺ら揺らと、本来の自分らしく生きている実感が湧いてくる。
ふと車窓から目を転じると、常滑の海が一面に広がっていた。鮮やかな「蒼」の世界。この水平線の彼方へ飛翔しても、道はまた繋がっている。旅立ちの先には、必ず帰路があるのだ。当たり前のことかもしれないが、(どこへ行こうと、最後は同じ場所へ無事に帰ってこられる)と、自分に言い聞かせるように心の中で祈願した。
そうして、中部国際空港へと到着した。
空港の片隅で、私は感じたことを忘れないようスマホのメモ帳を開いた。
『ぼくのマレーシア旅行記』――そう、タイトルを打ち込み、私の冒険が始まった。
◇
お昼頃。空港内はやけに混雑していた。日本人だけでなく外国人の観光客で溢れ返っている。ぼんやりと周囲を眺めていたその時、スマホの通知が突然、心の臓を跳ねさせるように鳴った。
『チェックインを済ませましたか?』
画面に表示された文字を見て、私はハッとした。瞬時に激しい焦りが襲ってくる。乗り継ぎ地であるフィリピン・マニラの渡航登録『eTravel』の記入をすっかり忘れていたのだ。
急いで検索サイトに『eTravel』と打ち込む。画面は英語表記だが、和訳すれば内容自体は問題ない。本当の問題は、ここからだった。
事前に作成していたアカウントのパスワードでログインできないのだ。(そんな馬鹿なことが……)と冷や汗が流れる。混雑のせいか回線も混み合っており、画面を更新するだけでもかなりの時間を要した。フライトまではまだ時間があるが、気持ちばかりが焦る。
自動ログインに設定していたはずなのに、パスワードを選択してもキャンセルされてしまう。そして痛恨のミス――控えを取っていなかったのだ。思いつく限りのパスワードを連想し、確率の高さそうなものに絞り込んで打ち込んでいく。
一つ目が弾かれ、二つ目が弾かれ、画面が更新のたびに真っ白になる。頭の中も同様に真っ白になっていった。
雑踏のなか、ノイズ混じりの頭で最後の望みを託して入力したパスワード――それが、見事にヒットした。危機一髪だった。初日で旅が終わり、高額なキャンセル料が発生する事態を覚悟しかけていただけに、一気に全身の力が抜けた。
この日記も、あのパスワードが当たらなければ存在しなかっただろう。それほどまでに重大な局面だった。自ら首を絞めていたとはいえ、なぜ自動保存のパスワードが変わっていたのかは謎のままだ。恐ろしい。自分の落ち度か、保存時のエラーか、はたまた自動パスワード生成で上書きされてしまったのか……。
何はともあれ、パスワードが合致して心底安堵した。無事にオンラインチェックインを完了。マレーシアの渡航カード作成よりも遥かに骨が折れる作業だった。
今日、私は日本を旅立ち、フィリピン経由でマレーシアへと向かう。初めての一人旅だ。マレーシアには日本のような四季がなく、代わりに雨季と乾季がある。年中湿度が高い国だそうだ。しかし、「ビル内は空調が効きすぎて寒い」という記事も目にした。それが本当かどうかは、現地に着いてみないとわからない。
そろそろ搭乗の時間だ。ロビーのコンセントにスマホを繋ぎ、充電しながら待つ。どうしても落ち着かない。一人旅の緊張と不安。けれどそれ以上に、見たことのない景色に出会える楽しみで心が沸き立っていた。
搭乗券を確認しながら、予約していた指定席「34F」を探す。見つけた座席の通路側には、現地の方らしき人が座っていた。日本人らしく軽く会釈をし、奥の窓側席へと腰を下ろす。
座席に深々と身体を預け、これからの旅路に思いを巡らせる。
航空機の駆動音、エンジンの重低音が私の鼓動をさらにヒートアップさせていく。気持ちと共に、いざフライアウェイ。離陸したのは飛行機だけではない。私の心もまた、空の上へと舞い上がっていた。
添乗員からコーヒーを受け取り、じっくりと味わう。窓の外を覗くと、巨大な積乱雲が見えた。青い空に、乗客たちの期待や想いが募っていく。この旅が良い出会いと出来事に恵まれるよう、心の中で願った。
機内には日本人の姿が少なく、フィリピンの方々が多い。
機内での時間は暇なものだ。オフラインで観られるようにダウンロードしておいた映画やアニメ鑑賞をして過ごすことにする。
マニラに到着するまでに『機動戦士ガンダム』を数話観終わった。……それにしても、ランバ・ラルが自爆するシーンは「漢の中の漢」だと思う。海外に向かう機内でガンダムの感想に耽っている自分に、思わず苦笑してしまう。
◇
マニラ・ニノイ・アキノ国際空港に到着。
ここで再び不安が押し寄せてきた。完全なるアウェイ。周りに日本人は一人もいない。緊張感が跳ね上がる。だが、「どうにかなる」という予感もあった。行き先までのアプローチも導線も、すべてネットで事前調査済みだ。頭の中の知識と、目の前の視覚がリンクしていく。
入国審査へ向かうと、担当の女性官が言葉もなくじっとこちらを睨みつけてきた。十数秒ほど入念にパスポートを確認された後、無言で通される。最後にもう一度顔を見られ、また睨まれた。普通に怖い。税関は申告するものもないので素通りした。
続いて、ターミナル1へ移動するために無料のシャトルバス乗り場へ向かう。万能な通訳アプリを駆使し、現地の人に片言の英語でトランジット先のターミナルについて尋ねてみた。無愛想な返事と共に促され、言われるがままバスに乗り込む。
バスの中では、フィリピン言葉と欧米訛りの英語が飛び交い、賑やかな不協和音を奏でていた。路面がガタガタで、走るたびに身体が浮き上がる。完全に酔わせにきている乗り物だ。道順が合っているか不安になり、近くのフィリピン人に尋ねてみるも、お互い片言の英語で何を言っているか噛み合わない。ここで職場の人に教えてもらった通訳アプリを投入。多少の誤訳はあるもののご愛嬌、実に便利な時代だ。
……しかし、ここで私は壮大な勘違いを犯すことになる。
ターミナル1に行きたいはずなのに、到着したのは「ターミナル2」だった。「一体どういうことだってばよ……」状態になり、大テンパりする俺氏。
焦りつつも(とりあえず空港内に入ろう)と建物へ向かうと、警備員に「ヘイ!」と制止された。見上げると、ドアの上には『NO ENTRY』の文字。ここからは入れないらしい。「ソーリー」と言って退散し、別の入り口を探すが、どこもかしこも『NO ENTRY』ばかり。どうなってんねん。
焦りが最高潮に達し、胃がキリキリと痛み出す。あのバスを案内してくれた無愛想な男の顔が浮かぶ。(やられた、騙された!)
(しかし後から冷静に思い返すと、もう一台シャトルバスが止まっていたことに気づいたため、単なる自分の乗り間違いだったのかもしれない。信じるか信じないかは、あなた次第です……。某番組風。)
途方に暮れながらも、乗り継ぎまではまだ時間がある。だが、ターミナル1までの距離はおよそ2キロ。私は決断し、全力で走り出した。
フィリピン・マニラの街を、乗り継ぎのために大疾走する一人の日本人。周囲から見れば、相当におかしな奴だったと思う。
走っている途中、野良猫を見つけた。野良犬もいた。噛まれたら狂犬病で終わりだと思いつつも、あまりの可愛さに寄り道したくなる。まさに生殺し状態。後ろ髪を引かれながら、その場を後にした。
◇
Googleマップのおかげで、なんとか目的地のターミナル1にたどり着いた。
ここでも言葉の壁にぶつかりかけたが、標識や案内表示の文字を注意深く読み、感覚に従って進むことで、無事に目的の場所へ行き着くことができた。
マニラからマレーシア・クアラルンプールへの乗り継ぎ便(AK585便)。しばらくの待ち時間が発生した。ふと電子掲示板を見ると、搭乗券に記載されたゲート番号と違う場所が表示されている。いつの間に変わったんだ……。
初日からトラブルの連続で、目がしょぼしょぼしてくる。ここでスマホでも盗まれたら本当に終わりだ。注意を怠らないように気を引き締める。
AK585、クアラルンプール行き。
旅にトラブルは憑き物。肩の荷が降りたと思ったが、そうも言ってられなかった。
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