Episode 59:前編
Episode 59:前編
「北海のエア・トラップ(D-E-N-M-A-R-K)――ポチ君、貨物室からデンマークへ」
名探偵、「貨物」と化す
「大先生、スイスでの合同任務、本当に大成功だったべ! でも、ロンドンヤードの本部から『大至急戻って重要書類の決済をしろ』ってハナコ姉様に緊急連絡が入ったべ。だから帰りは、時間短縮のために飛行機で一気にひとっ飛びするべ!」
チューリッヒ空港の搭乗ゲート前。バーバラが、実家のリンド・ファームへのお土産(シュプリングリの高級マカロン山盛り)を大事そうに抱えながら言った。
「そうなのよ! 飛行機ならロンドンまであっという間よ、ホームズ、ううん、ポチ君!」
ハナコ・ハート刑事は、やる気満々で搭乗手続きを進める。
しかし、ここで英国および国際航空法の厳格なロジック(ルール)が、世界一知的なポケット・ビーグルに襲いかかった。補助犬としての特別許可証がない一般のフライトにおいて、犬は客室ではなく、専用のクレートに入って「受託手荷物(貨物室)」として運ばれるのが大原則なのだ。
(……フ、不条理だ。大英帝国最高の脳細胞を持つこの私が、ハート君のお土産のソーセージや、バーバラ君のマカロンと同じ『貨物』として扱われるなど、名探偵のエレガンスに対する深刻なバグ(エラー)だ……ウップ、いや、船酔いよりはマシか……)
ガチャン。
切ない表情のホームズ(ポチ君)を乗せたクラシックな革張りのトラベル・クレートは、空港のベルトコンベアに乗せられ、非情にも暗い貨物室へと吸い込まれていった。
空の上のハッキングと、狂った到着地
ゴーーーッ……。
高度1万メートルの安定飛行に入った機内。しかし、客室のハート刑事とバーバラの手元にある座席モニターのフライトマップが、突如として不気味な赤色に変色し、激しく明滅を始めた。
ピピピピピ……ッ!!!
「ハナコ姉様、大先生のいる貨物室の環境管理ログと、この飛行機の自動操縦システムに、白猫の電脳ワームが直撃したべ! 飛行ルートがロンドンのヒースロー空港じゃなくて、北海を越えて北東へノーリミッツにネジ曲げられてるべ!」
バーバラがノートを広げ、素直な知性で驚愕のデータを弾き出した。
(ふむ。機内の貨物室の暗闇の中、私の鋭い嗅覚と気圧の変化で、すでに機体がロンドンとは逆の方角へ旋回したことを察知している。白猫め、私が貨物室で物理的に身動きが取れない隙を狙って、ヤードの重要データを積んだこの機体ごと、別の国へ強制着陸させる算段だな)
ホームズは暗いクレートの中で、機内サービスのドッグトイとして入れられていたアルファベットブロックを、前足の感触だけで素直に7つ並び替えた。
[ D - E - N - M - A - R - K ]
「ハナコ姉様、ポチ君の通信タグから暗号ブロックが届いたべ! 『D-E-N-M-A-R-K』……ロンドンじゃなくて、デンマークだべ!」
バーバラが叫ぶ。
「なんですって!? 帰る場所を間違えるなんて、白猫のハッキングはいつもノーリミッツに大ボケね! でも……デンマークってことは、あの時の……!」
ハナコ刑事の脳裏に、かつてロンドンで出会った、あの気品あふれるグレート・デーンの「デンマーク紳士」の穏やかな笑顔がよぎった。
コペンハーゲン着陸、そして再会
キィィィィーッ!!!
激しい衝撃と共に、飛行機が緊急着陸したのは、ロンドンではなくデンマークのコペンハーゲン国際空港の極秘滑走路だった。
貨物室のハッチが開き、クレートから飛び出したホームズ(ポチ君)と、客室から駆け下りてきたハート刑事、バーバラ。
異国の冷たい風が吹くロータリーの向こう、ハザードランプを点滅させる最高級ロイヤル・リムジンの前で、仕立ての良いコートの襟を正し、静かにパイプをくゆらせている巨大で優雅な影があった。
「――おや。ロンドンへお帰りのはずが、ずいぶんと遠い北欧の空まで流されてこられましたね、ヤードの皆さん。そして……愛しき名探偵、ポチ君」
そこに佇んでいたのは、デンマーク王室の外交ネットワークを裏で束ねる、あのデンマーク紳士その人であった!
白猫が仕掛けた空の密室パズルは、北欧の地でさらなる巨大な国際電脳戦へと発展していく!




