Episode 1 霧のロンドン、
Episode 1 霧のロンドン、
ロンドンの霧は、まるで世界の終わりを告げるように濃かった。
街灯の光はぼんやりと滲み、
石畳の上に落ちる影は揺れ、
その中心に──
シャーロック・ホームズは倒れていた。瓦礫の破片が散らばる廃工場跡。
その中央で、ホームズは血に濡れたコートをまとい、
静かに息をしていた。
「ホームズ!しっかりしろ!」
駆け寄るワトソンの声が震えている。
ホームズは薄く笑った。
(ワトソン……君はいつも騒がしいな……)
胸の奥に、冷たい痛みが広がる。
モリアーティとの死闘は、
彼の肉体を限界まで追い詰めていた。
「君と歩んだ日々は……実に愉快だった……」
その言葉を最後に、
ホームズの視界は白く染まった。
白い光の中で、
ホームズは“声”を聞いた。
──お前の推理は、まだ終わっていない。
(誰だ……?)
──新たな肉体を与える。
再び、事件を追え。光が弾けた。
目覚めたら、世界が低い、鼻を刺すような、濃密な匂い。
草、土、鉄、そして……肉の匂い。(なんだ、この情報量は……?)
目を開けると、視界が低い。
手を動かそうとすると──
「……手が、ない?」
いや、ある。
だがそれは、短くて丸い“前足”。(……これは……まさか……犬の体ではないか?)
慌てて周囲を見回すと、
ステンレスの壁、檻、他の犬たちの鳴き声。
どう見ても、動物保護センターだ。鏡に映った自分は──
耳の垂れた、ビーグルの子犬。
(……紳士としての尊厳が……)しかし次の瞬間、
鼻腔をくすぐる甘い香りが漂ってきた。ドーナツだ。
(……なんだこの魅惑的な香りは……!)
理性が吹き飛び、
ホームズは檻に鼻を押しつけた。
「今日の新入りはどんな子かな〜?」
軽やかな声とともに現れたのは、
ポニーテールを揺らす。
女性刑事──
ハート・ハナコ刑事。
彼女はドーナツを片手に、
ホームズの檻の前でしゃがみ込んだ。
「わぁ……この子、目が賢い……!」
ホームズは姿勢を正し、
知性を示そうとした。
が──
ドーナツの香りに負けて飛びつく。
「きゃっ!?……もう、可愛いんだから!」
(可愛い……?私は紳士だぞ……!)
ハートはクスッと笑うと、自分が持っていたドーナツの箱に目を落とした。
「あ、ごめんね。これは犬用じゃないの。ほら、見て」
彼女が見せたのは、イギリス風のデザインが施された紅茶とドーナツの専門店
『シャーロック・ドーナツ』の箱だった。
そこには、お馴染みのインバネスコートを着て、パイプをくわえた名探偵のイラストが大きく描かれている。
(……む? その顔は……!)
ホームズは目を見張った。
まさに生前の自分をモデルにした、薄汚い商業用のイラストではないか。
不快感から、思わずそのイラストに向かって低く「ウー」と唸り声をあげる。
「あら? その紳士の絵が気になるの?」
ハートは不思議そうに箱と子犬を見比べ、手をポンと叩いた。
「そうだ! あなた、なんだかその探偵さんみたいに気難しくてカッコいい顔してる!
よし、決めた。あなたの名前は──『ホームズ』!」
(な……ッ!? 私の正体を見破ったのか!?)
驚愕するホームズを他所に、ハートは満面の笑みで言った。
「だって、そのドーナツ箱のイラストにそっくりなんだもん。食いしん坊のホームズくん!」
(……ただの偶然か。しかし、犬のポチだのジョンだの呼ばれるよりはマシだな……)
ハートは笑いながら言った。
「よし、今日からあなたは私の相棒、ホームズ!」
こうして、ホームズは、女性刑事ハートに引き取られた。
その日の夜。
近所で宝石泥棒事件が発生した。ハートは新聞を広げながら言った。
「犯人はきっと……恋人にフラれた腹いせね!」
(なぜだ……?)
ホームズは新聞の“靴の広告”に目を留めた。
犯人の靴跡と一致している。
彼は広告部分を噛みちぎり、
よだれでベタベタにしてハートに差し出した。
「え?……ステーキ食べたいの?」(なぜステーキになる……?)
しかしハートは言った。
「よし、ステーキハウスに行くわよ、ホームズ!」
(……もういい。行こう)
ステーキハウスに着くと──
偶然、犯人が潜伏していた。
「なんでここが……!?」
ハートは胸を張って言った。
「私の相棒が導いてくれたのよ!」
ホームズはため息をついた。
(……結果オーライだ)
帰り道。
ハートはホームズを抱き上げた。
「ホームズ……あなた、ただの犬じゃないよね。
これからも一緒に事件を追ってくれる?」
ホームズは夜空を見上げた。
そこには、屋根の上に佇む白猫の影。その匂いを嗅いだ瞬間、
背筋が震えた。
(……この匂い……まさか……奴も転生しているのか?)
物語は、ここから始まる。




