第21話:燃える闘志の斬首魔兎
ライトは迷子になっていた。
一人で港町へ行く許可を貰った数日後のことだった。
小船に乗って、海に出たところまでは良かったのだが⋯⋯。
「どう見ても、あそこにある港って、最寄りの町とは違うよなぁ⋯⋯」
ようやく見えてきた陸地には、建物がまばらに建ち並んでいる。
白い防壁が目印の港町バーバラとは明らかに景色が違っていた。
周囲の地形も、ゴツゴツとした岩山ばかりで、全体的に赤黒い。
どうやら海図を読み間違えて、別の島へと流れ着いてしまったらしい。
ライトは困り顔になった。
進路を修正しようにも、自分の居場所がわからない。
何時の方向に舵を切ったらいいのか、なんて魔界の世界地図すらも把握していないライトには無理だ。
「⋯⋯とりあえず、あの漁村っぽいとこに行ってみるか。
言葉はたぶん通じるだろうし、白い町がある方角を聞いてから、改めて海に出直そう」
ライトは操縦マニュアルを見ながら、船の速度を落としていく。
ホタルから借りたこの船は、魔力で動く魔法船だ。
ライトにはエンジン機構の仕組みはまるでわかっていないが⋯⋯。
操縦席にぶら下がっている魔除けの御守りは、てるてる坊主みたいで可愛い。
この程度の認識であっても、きちんと船は進むのだから、魔道具というものはとても偉大だ。
ライトは舵を傾けて、木製の港から少し外れた場所へと船を向かわせる。
「桟橋は他の船の邪魔になったらマズいから避けて⋯⋯。それから、えっと⋯⋯レバーだっけ、スイッチだっけ⋯⋯?」
ライトは片手でマニュアルを捲り、停船の操作方法を探す。
目的の記述を探している間にも、船は陸地へと近づいていく。
ようやく手順を突き止めた頃には、船底が浅瀬に乗り上げていた。
ドゴン!と船体が大きく揺れる。警報らしき音がビービー鳴り始め、ライトはマニュアルから顔を上げた。
「あれ⋯⋯? ホタルさんと練習した時は、こんな変な音、鳴らなかったのに⋯⋯」
ライトは首を傾げながら、マニュアル通りにエンジンを切る。
警報は止まったが、船底が傷だらけになったことにはライトは気づいてすらいない。
ライトは不思議に思いながらも、上陸の準備に取りかかる。
周囲の危険を察知する偵察術で安全確認を行いながら、冒険道具が詰まったリュックを背負う。
この辺りには魔獣の気配はないようだ。目視できる範囲にも、洗濯板のような形の岩くらいしか浅瀬の中には見当たらない。
ライトは甲板から島に降りた。
借り物の船は、魔法の収納箱の中に吸い込ませ、腰のポーチへと押し込む。
「よし。それじゃあ、あの村に──」
ライトが漁村を振り返った瞬間、大地を駆けてくる音がした。
ダンッ!と力強く蹴る足音。
冒険者としての直感が働き、反射的にライトは腰の短剣を抜く。
紫色の炎を纏ったバケモノが一直線に突っ込んできた。
受け止めるには大き過ぎる。人間と同じくらいのサイズ。
「くっ⋯⋯!」
ライトは右側に跳んで、突進攻撃を避けた。
怪物が咆哮を上げながら、ライトの居た場所に着地する。
怪物は硬い岩礁に足裏をめり込ませ、突進の勢いを打ち消しながら振り返る。
「ゥアザオルォォオオ!」
「な⋯⋯! なんだ、コイツ⋯⋯」
ライトは短剣を構えながら、魔力解析の術を起動した。
外見は、全身が炎に覆われていて、正確な形が判別しづらい。
縦長で、おおよそ人型に見えるが、それにしては頭部が異常だ。
火柱が二本、クワガタのツノのように生えている。
「この魔力属性、やっぱりおかしい⋯⋯! 変異種だ⋯⋯!」
ライトの背筋を冷や汗が流れる。
確認できた魔力配列はウサギに似た外見の魔獣、ヴォーパルバニー。
鋭い牙で獲物の喉を噛み千切ることから、『首狩りウサギ』の異名を持つ。危険な魔物だ。
ウサギなのに肉食で、草を食むように簡単に人の命を摘み取る。
ライトからすれば、戦いづらくて嫌な相手。
冒険者として探検隊を組んでいる時でも出会いたくないのに、そいつがライトの目の前にいる。
しかも、普通の個体ではなく、二足歩行をしている変異種。最悪としか言いようが無い。
ライトは己の幸運を祈りながら、炎の魔石を取り出した。
「頼む、効いてくれ⋯⋯!」
魔石に魔力を込めて投げる。
普通のヴォーパルバニーなら、炎の魔石が爆発した瞬間の音に反応して逃げ出す。
だが、目の前にいる魔兎は変異種。効き目があるかは、定かではない。
ライトが祈りながら投げた魔石が着弾と同時に破裂する。
ヴォーパルバニーは悲鳴を上げて、動きを止めた。
首を振って戸惑っているが、逃げてはいかない。
「なら、もう一発⋯⋯!」
ライトはもうひとつ、魔石を投げた。
本当は、今すぐにでも、村に向かって走り出したい。逃げてしまいたい。
だが、あの魔物に、背中を向けるのは危険だった。
ライトの使える魔法では、背後からの攻撃を防ぐことは不可能だ。
かといって、真正面から戦って勝てるほど、ライトの戦闘技術は高くない。
ライトは短剣を握り締めたまま、幸運を祈った。
ヴォーパルバニーは、爆発音の残響を振り払うように首を振る。
「ゥア⋯⋯、ザモ⋯⋯ォオ⋯⋯!」
ヤツの全身を覆っていた炎が揺らめき、形を変えた。
人型の両腕に当たる部分から火柱が立ち上り、二振りの刀が現れる。
ライトは完全に獲物として認識されているようだ。
「くっ⋯⋯! そっちがその気なら、ボクだって⋯⋯!」
ライトは奥歯を噛み締める。
偵察者という役割は、戦闘には向いていない。
あくまでも、現状の観察と分析が仕事だ。
だが、冒険に必要な最低限の戦術は父親から叩き込まれた。
「何を使ってでも、生き延びる。命あっての物種だ⋯⋯!」
ライトは腰のポーチに突っ込んでいた収納箱を片手で掴んだ。
この船を貸してくれた彼女には、後で事情を説明しよう。
ライトは収納箱の蓋をスライドして、小船を外に吐き出させる。
魔法の力で小さくされていた船が、ぐんぐん大きくなりながら、ヴォーパルバニーに向かっていった。
さながら、大岩が転がってくるトラップだ。魔物は慌てて踵を返す。
しかし、それでは間に合わず。
飛び出してきた船に轢かれて、魔兎の体は大きく吹き飛び、島の中央にある岩山に、べしゃりと叩きつけられた。
「今のうちに⋯⋯!」
ライトは魔避けの塗料をポーチから取り出して、首に塗りつける。
清涼感のあるハーブの香りはクセが強くて、あまり使いたくないのだが、魔物に喰われるよりマシだ。
緑色のクリームを指で塗り広げ、肌に神の聖紋を描いていく。
籠城できる状態にさえ持っていければ、いずれ仲間が探しに来てくれるはず。
ライトは浄化の神の聖紋を手早く描き上げ、簡易的な庇護の儀式を急ピッチで進めていく。
「神よ、悪しき獣を遠ざけ──」
「ゥォォォオオオ! ワ、ザモノォォオオ!」
「げえっ! もう帰ってきた!」
魔兎の脚が地を蹴り、自身を弾丸として撃ち出すかのように力強く跳んでくる。
後手後手だ。対応策を組み上げる前に崩される。
そもそも、なぜ自分は一人で出掛けようなどと思っていたのか。
ホタルが一緒だったなら、こんな離島に流れ着いてくることも無く、斬首ウサギも簡単にどうにかなっただろうに⋯⋯。
ライトは過去の選択を恨みたくなった。
しかし、今はそんな余所見をしている場合ではない。
「ワザォノォォオオ!」
魔兎が両手の刀を振り上げる。
ライトの目の前に鎮座していた小船を軽々と跳び越えて、ヴォーパルバニーが襲ってくる。
敵の全身を覆っている炎の熱が、ライトの肌を炙る感触。
──逃げられない。
せめてもの抵抗で、ライトは背後に向かって跳んだ。
浅瀬の海水にダイブする。
魔兎は炎が水を浴びるのも構わず追ってくる。
刃がライトの喉元に迫る。その瞬間、
「伏せなァァアア!」
誰かの怒号が辺りに響いた。
巨大な鋼の塊が、ライトの眼前を横切る。
ぶん投げられた巨大なハンマー。
猪が突っ込んできたかのように、勢いよく現れたそれが、魔兎の体を弾き飛ばす。
ライトはハンマーが飛んできた方向へと顔を向けた。
漁村のほうから、人影がこちらへ走ってくる。
「おい、アンタ! 大丈夫かい!」
そう言いながら駆けつけたのは、立派な体躯の女戦士だった。
ライトより頭ふたつ分以上は背が高く、日に焼けた褐色の肌が彼女を精悍に見せている。
ポニーテールにされた赤毛が、太陽のようにエネルギッシュだ。
鍛え上げられた筋肉は、軍馬のような逞しさと美しさを両立させており、思わず息を呑んでしまう。
女戦士はライトに駆け寄り、手を差し出す。
「ここは危険だ! 着いておいで!」
「わ、わかった⋯⋯!」
ライトは彼女の手を取って、立ち上がる。
女戦士が走り出した。
ライトも足を踏み出すが、彼女はそれより遥かに速い。
例えるならば、大人と子供ほどの差だ。
大人と子供が手を繋いだまま、どちらも全力で走ってしまうと、どうなるか。
子供は脚が遅いため、大人に腕をひっぱられ、フォームが崩れて転倒する。
ライトも女戦士の足に着いていけずに、あっさり転んだ。
「ああっ! ごめんよ! 痛かったかいっ?」
女戦士がライトの前に膝をついて、心配そうに顔を覗き込んでくる。
ライトが返事をしようとした瞬間に、魔兎の咆哮が響き渡った。
女戦士の表情が引き締まる。
「ちょいとゴメンよ!」
彼女は有無を言わせぬ様子でライトの体を担ぎ上げた。
まるでミンクの毛皮を首に巻きつけるかのように、横向きにしたライトの体が女戦士の肩に乗せられる。
いわゆるファイヤーマンズ・キャリーと呼ばれる体勢だが、ライトにはそんな専門用語はわからない。
女戦士に素早く担ぎ上げられて、その腕力に驚いているだけだ。
女戦士はライトを落とさないようにしっかりと手で押さえたまま、村へ向かって走り始める。
それから、ほんの数秒後には、ライトは漁村の真ん中にいた。
魔兎の気配は、近づいてこない。魔除けの結界があるのだろう。
ライトは安堵の息を吐き、周囲の景色へ目を向けた。
のどかな村だ。女戦士と同じくらいに大きな体の村人が、魚を捌いて干している。
家は木製で、衣服はシンプルな単色染め。街灯なども無く、魔道具があまり普及していないように思えた。
女戦士がライトを降ろし、ニカッと笑った。
「ここまで来れば、もう安心だ!
この村は『宝丘の民』の縄張りだからね!」
「⋯⋯ホウキュー?」
ライトは首を傾げた。
知らない言葉だ。ライトは魔界の地理には疎い。
女戦士が会話のために、しゃがんでライトと目線を合わせる。
彼女は声は大きいが、発音は子供に話すかのように柔らかだ。人間を小動物だと思っているかのような声の掛け方。
「人間族の言葉で言うんなら、トロルってやつの一種だよ。ほら、アンタらの聖書でバケモノ扱いされてる⋯⋯」
「⋯⋯ああ! 天界神話全集の真ん中らへんに出てくるヤツか。いたな、そう言えば、そんな種族」
トロルと言われて、ライトはようやくピンと来た。
トロル族は、自然と共に生きる魔族だ。
ライトの知っている神話では、大地の恵みを独占しようとする振る舞いが原因で、人間界から追い出された、と語られている。
ライトが父から聞いたバージョンの話では、トロル族の持つ宝剣を人間たちが奪い取るために、山に火を放ち、追い出したのだ、とも言われていた。
もしも、それが事実なら、人間族のライトに対して、フレンドリーな態度になるのはおかしいような気もするが⋯⋯。
何百年も昔のことだから、どこかの時代で確執は解消されたのだろうか。
それとも父が、小難しい話を最後までライトに聞かせるために、面白おかしく脚色していただけだったのか。
ライトは興味深そうに女戦士を観察した。
「吟遊詩人は『山ほど大きな』と唄うけど、本物はこんなに小さいんだな」
「悪魔たちが人間を真似して、小さく化けようとするからね。
アタシらもヤツらを踏み潰さないよう、体を縮めてやってるんだよ。
⋯⋯ところで、アンタ。どこから来たんだい?
わざわざこの島に来たってことは、どっかの悪魔のおつかいなんだろ?」
女戦士がそう尋ねる。
ライトは首を横に振った。
「ボクはただの迷子だよ。港町へ行くつもりだったんだけど、方角を間違えてしまったんだ」
「あれま。そりゃあ大変だねぇ。それにタイミングも悪い。
この島は今、あのヴォーパルバニーが暴れてて、船の燃料になるオイルワームが採れないんだよ」
女戦士が気の毒そうな顔で言う。
ライトは、そういえば燃料の問題があったな、と彼女の言葉でようやく気づいた。
小船に積んであった燃料は、片道ぶんだ。
帰りは港町で補給してから出港する予定だった。
この島に辿り着くというアクシデントで浪費してしまった分の燃料はきちんと補給しておかなければ、町まで持たない。
「⋯⋯けど今は、この村じゃ燃料が手に入らないのか」
あの魔兎のせいで燃料補給が出来ないとなると、家に帰ることが出来ない。
船自体も、村の外に置きっぱなしだ。
敵がいない隙を見計らって回収してこなければならない。
そのために掛かる時間と手間を計算し、ライトは苦い顔になった。
「⋯⋯さすがに、ホタルさんが探しに来るほうが先かなぁ」
なんとも、面白くない話だ。
意気揚々と出掛けてきたのに、救助待ちになるなんて。
ライトは溜め息を吐いた。
冒険にアクシデントは付き物だったが、こんな不幸に見舞われるなら、妖精の一匹でも見たい。
いや、むしろ、妖精さんと出会えるのなら、迷子になったことだってプラスだ。
ライトはそう考えた。
ライトは妖精が大好きである。隙あらば妖精を探したがる。
ライトにとって、妖精の価値はプライスレス。何よりも尊い。
ライトは女戦士を見つめて、口を開く。
「この島に、妖精が出る場所はあるか?」
「妖精? それなら、西の坑道でよく見掛けたが⋯⋯」
「西だな。ありがとう。それじゃ、さよなら」
ライトは女戦士に別れを告げて、歩き始めた。
手に持ったままだった短剣を鞘に戻して、足早に道を進んでいく。
本人は西を目指しているつもりだが、当然ながらコンパスも標識も確認していないため、向かう方角はデタラメだ。
女戦士が慌ててライトに手を伸ばし、肩を掴んで呼び止める。
「待ちなよ、アンタ! 西の坑道は、さっきのウサギの根城なんだ!
一人で行ったら、首を刎ねられちまうよ!」
「でも、妖精さんがいるんだろ? だったら、行くよ」
「意固地なヤツだねぇ!
しょうがない、アタシも一緒に連れていきな! 護衛代は安くしとくよ!」
女戦士が自信ありげに胸を張る。
ライトは怪訝そうな顔で彼女を見た。
「魔物が棲み着いてるって情報は本当か?
要らない護衛の押し売りだったら、ボクにも考えがあるぞ」
「本当だよ! それにあの燃えてるウサギだけじゃなく、普通のヴォーパルバニーも山ほどいるんだ!
そんなに小さい剣一本でどうにかなるような場所じゃないよ!」
女戦士は真剣に言う。
この顔で嘘だとはとても思えない。
それに、彼女はあの魔兎からライトの命を助けてくれた。
護衛費をふんだくろうと企んでいるのだとしても、既にタダ働きをしているに等しい。
助けてもらったお礼も兼ねて、彼女の護衛サービスを利用するのも悪くないだろう。
ライトはじっと彼女を見つめる。
⋯⋯冒険者としての直感は、問題ないと告げている。
もしも彼女が、出先で身ぐるみを剥いでくるような蛮族だったら、嫌な予感がしている筈だが、それも無い。
信頼しても良さそうだ。
ライトは女戦士を雇うことにした。
「代金はどれくらいになる?」
「そうさねぇ⋯⋯、今回は一日あたり500魔貨ってことにしておくよ。
半日も掛けずに帰ってくるなら、いくらか割引してもいい」
「よし。交渉成立だ。早く妖精を探しに──っ、くしゅん!」
ライトの体がくしゃみする。
ライトはすっかり忘れていたが、魔兎の攻撃を避けるために浅瀬へ飛び込んで、びしょ濡れになっていたのだった。
現状を思い出すと同時に寒気が強まって、急激に具合が悪くなってくる。
女戦士がライトの顔を覗き込み、心配そうに口を開いた。
「おいおい、唇が真っ青じゃないか!
とりあえず、アタシの家に来な! 出掛けるにしても、温まってからだよ!」
「えぇ⋯⋯やだ⋯⋯妖精さん⋯⋯」
「だーめ! ほら、こんなに震えてるんだから、ワガママ言ってるんじゃないよ!」
女戦士がライトの体を抱き上げて、のっしのっしと歩き始める。
ライトは逃げようと暴れたが、トロルの腕力には敵わない。
あっという間に、ライトは女戦士の自宅へと連れていかれてしまう。
ライトは溜息を吐いた。今は彼女に従っておくしか無いようだ。
女戦士はライトを自宅のリビングに降ろすと、慌ただしい足取りで別の部屋へと向かっていった。
ライトはその場に座り込んで、リュックを降ろす。
室内は静かで、薄暗い。窓の戸板は閉まっているが、隙間から微かに光が差していた。
壁際の棚には、奇妙形の置物が幾つも並んでいる。
村の工芸品なのか、それとも何かの魔道具なのかは、ライトには判別がつかない。
床には、獣の毛皮がラグとして床に敷いてあった。
色合いからして、ヴォーパルバニーの毛皮だろう。
数匹分を縫い合わせて、トロル族の巨体にも丁度いいサイズにしてあった。
この島の地表は、ゴツゴツとした岩が多くて木が生えているようには見えなかったが、家の造りはログハウスだ。
どこから木材を調達しているのだろう。
魔力が豊富で、魔法が使い放題になっている魔界では、丸太の輸入も簡単なのか?
ライトは疑問に思ったが、妖精さんに関わるような話じゃないし、どうでもいいな、と思考を打ち切った。
バタバタと女戦士が走ってくる音が聞こえる。
彼女の手には大判のタオルが握られていた。
「ほら、タオルだよ! 体を拭きな!」
「うわっ、くっさ! 何これ、変なハーブみたいなニオイがする!」
「臭いとは何だい! ただの柔軟剤の香りだよ!」
女戦士が強引にタオルでライトの体を包んだ。
魔除けのハーブを更に薬臭くしたような、嗅いでいるだけで苦味を感じる香りがライトの鼻を直撃する。
これが柔軟剤? 嘘だろ。トロル族の文化は人間とこんなに違うのか。
ライトは頭を抱えたくなった。
女戦士はワシワシと犬でも乾かすかのようにタオルを動かす。
そのたびに、苦い薬の臭いが舞った。
「あー! やめろ! 乾いた服くらい持ってるから!
ボク、冒険者だから! 着替えはある!」
「おや、そうだったのかい?
だったら、早く着替えるんだね。アタシは温かいお茶でも淹れてくるからさ!」
女戦士がライトの体を拭く手を止めた。
「着替えたら髪を拭くんだよ!」と言い残して、彼女がリビングから出ていく。
ライトは薬臭いタオルを体からひっぺがして投げ捨てた。
他人の私物を手荒に扱うものではない、と注意してくれる人物は、今はライトの隣にいない。
ライトは冒険道具が詰め込まれているリュックから予備の服を取り出して着替える。
先程まで着ていた服と全く同じデザインに見えるが、こちらは浮遊都市で買ったアラクネ工房の服だ。
濡れた服から解放されて、ライトはゆっくりと息を吐く。
まだ少し寒いが、家の中なら風に当たることもなく、徐々に体温が戻るだろう。
「⋯⋯ホタルさん、今頃なにをしてるかな」
ライトはポツリと呟いた。
薄暗いトロルの家の中、一人になると、今朝のことを思い出す。
今日の朝食の時間。ホタルはどこにも居なかった。
昨日の夜から、彼女は遠くへ出掛けている。
知り合いに魔物退治を依頼されたとかで、家を留守にしていた。
ホタルの居ない家は、静かだ。今のこの場所と同じように、面白味がまるで無い。
だから、ライトは一人で港町まで行こうと思ったのだ。
それが「寂しさ」ゆえの行動だったということまでは、ライトにはまだ、自覚できていなかった。
「魔物退治が長引いてなければ良いけれど⋯⋯」
ライトは膝を抱えながら、想いを馳せる。
リュックの中で眠っていた微精霊のプラムが、何かを感じ取ったかのように目を覚まして、ふよふよとライトのそばへ飛んできた。
「なんだ? 腹が減ったのか?」
ライトはプラムの前に指を差し出して、止まり木にしてやる。
プラムのために持ってきた魔石の小瓶はリュックの中だ。
微精霊は、自分と同じ属性の魔力しか食べない。冒険先では、魔力を染み込ませた小石からエネルギーを補給する。
ライトはプラムの食料となる魔石を取り出し、ついでに自分の昼食も手に取った。
堅焼きの棒状ビスケット。冒険食の定番だ。
故郷で教わったレシピを元に、ライトが焼いた手作りの一品。
『私がいなくても、ごはんはちゃんと食べるんだよ』
ホタルが出掛ける前に言っていた言葉がライトの頭に浮かぶ。
「ホタルさんも、ちゃんとごはんを食べないとダメなんですからね⋯⋯」
ライトは一人で呟きながら、味気ないビスケットをかじった。




