朝
一 朝
親父がパタパタと棒を振っている。その音が何かの羽虫のように僕の耳には聞こえる。僕は寝ぼけ眼でそちらを見る。親父は黒い棒を横にパタパタ、パタパタ・・・と振っている。その音は羽虫のよう・・・。そう夏の畳の上を飛ぶ虫のような・・・。
パタパタパタパタ・・・。
親父の振っている棒は「ボディーブレード」と言って、ちょっと前に流行ったものだ。親父は四年前にそれを通販で買って、それは買って以来、押入れの奥にしまわれていた。それを今更になって、親父は出してきて、パタパタと横に振っている。汗を掻いて。親父は「これで健康になるんだ」と言っていた。「これで、俺はムキムキになるんだ」と笑って言っていた。あれから一ヶ月経ったが、親父がムキムキになる気配はない。それでも、一ヶ月もその棒を毎朝、ああやって振り続けているというのだから、ミーハーの親父にとっては記録物の大快挙だろう。・・・親父は、僕にはよくわからないプロポリスだのアガリクスだのの高い健康食品を買って食べては、それをすぐやめる、なんて事も過去には繰り返していた。親父は、もうその食品名すら、忘れているだろう。これで何度目だ・・・。僕はそういう思いで親父を見ていたよ。まあ、別にいいんだけどね。
僕は親父に軽く目礼をしてから、キッチンのテーブルについた。そして、母さんが出してくれたコーヒーをすする。・・・でも、その前に、僕はそこに牛乳を足す。僕は牛乳が多いのが好きなんだ。・・・だから、マックなんかだと、いつもクリームを二つ頼むんだ。知ってた?。頼めば、もらえるんだよ。あれは。君の地域ではどうだか、知らないけどさ。
「今日はどうするの?」
と、母さんが僕に聞いてきた。・・・いつもの事だ。僕は少し考えて、「二枚」と言う。トーストが「二枚」の略だ。母さんはトーストを二枚、トースターに入れて焼いてくれる。さて、それは丁度良い加減で焼けるだろう。そして、二枚揃って、僕の前に出てきて、そして、僕はそれにバターを塗るだろう。マーガリンではなく、少し高めのバターを。近所のスーパーで安売りしてたもんだから、つい買ってきちゃったわよ、と母さんが言って冷蔵庫に入れたバターを。僕はそのバターを塗って、今からトースト二枚を食べるだろう。
焼けるまで、あと二分。
「章一、あなた、明日、球技大会だっけ?」
と、母さんが聞く。「うん、そうだよ」と僕は答える。それは何気ない会話。・・・何気ない会話だ。
「でも、野球なんかできたっけ?」
と、母さんは僕の弁当の仕上げをしながら言う。僕はその弁当の中身をあえて見ないようにする。それは昼休みに、弁当箱を開けた時の楽しみにしておきたいからだ。・・・ちなみに、僕の弁当箱は保温できる魔法瓶型の弁当箱である。だから、ご飯もおかずも昼休みでもほかほかである。素晴らしい。これは五千いくらでAmazonで買ったのだ。僕が見つけて、親父にポチッてもらった。そうだ、親父のクレジットカードが火を吹いた。・・・全く、親父のクレジットカードがこれほど役に立ったのは、その時一回限りだったよ。・・・全く、そうだった。おかげで僕は・・・・・・いや、やめよう。
「違うよ。母さん」
と、僕は答える。その時、妹の佐知が「おはよ~」と言いながら、パジャマ姿のまま階段を降りてくるのが見える。寝ぼすけさんだな。あいつは。寝ぼけすけさんだな。本当に、あいつは。本当に、さ。
「今年は野球じゃないよ。・・・去年、野球やったら、飛んできたボールが当たって三組の子が怪我したから、それでもう野球はしないんだって。今年はさ、バレーだよ。バレー。」
「あら、そうだっけ」
と、言いながら、母さんは僕に綺麗に焦げ目のついたトーストを二枚差し出してくれた。ちなみに、そのトーストを乗せている皿は、ヤマザキ食パンのパン祭りでもらえる皿で、もうここ十年くらい使い続けているやつだ。そして、このトーストを焼いたトースターも、アマゾンで買ってものだ。このトーストは買って、一週間後に千円も値下がりしててね。アマゾンでさ。その時は、思わず、母さんに報告したものだよ。「母さん、あの買ったトースター。もう、千円も値下がりしてるよ」って。そしたら、母さんは「ええ~」ってね。驚いてたよ。主婦だから、そういうのにうるさいんだね。今思えば、そういう事って言わなきゃ良かったって思う。『知らぬが仏』ってやつだよ。・・・昔、テストで出たね。小学生の時に「知らぬが○」って穴あきで。僕はその時は答えられなかったな。ほんとに。全く、賢くなったもんだよ。僕も。ほんとに、ね。
「おはよ~。今日、木いちごのジャムある?」
・・・と世界寝ぼすけ代表の佐知がテーブルに座りながら言う。母さんはちょっと驚いた様子で、
「え、ないわよ。昨日のでなくなったって言ったじゃない?」
と言う。母さんは僕の弁当箱を僕の鞄に入れているところだ。
「え~。どうして?・・・次のは?、次の・・・」
と、佐知はごねてみせる。その仕草を可愛らしいと思っているのだろうか・・・。その時に、汗を吹いた親父がこちらにやってきて
「章一、そこの新聞取ってくれ」
と言う。僕はトーストくわえたまま、新聞を親父に渡す。・・・親父は「じゃあ、父さんもう出るよ。佐知も章一も、しっかり勉強してくるように」と、模範的な親父よろしく僕らに言って、部屋を出て行く。母さんが「いってらっしゃい」と言い、そして佐知が「ぃってらっしゃぃ」と小声で言う。僕も「いってら」ぐらい言う。それぐらいに。短く。
親父が出て行くと、部屋の空気が変わる。少し、身軽になった気持ち。まあ、父親ってそういうもんだよね・・・。しかたないんだろうな。佐知はまだ、ジャムの事をごねている。僕は佐知に向かって
「おい、佐知。そんな事より、急げよ。遅刻するよ。今日、当番じゃなかったのか。何か、昨日言ってたろ」
と、これもまた模範的な、イケメンの兄のような発言を僕はした。・・・全く、僕はなかなかに「イケてる」兄だよ。実は中学の時に、クラスの格好いい男子の八位に選ばれた事があってね。八位だよ。八位・・・。まあ、大した成績じゃないけど。そのランク付けはでも、あとでえらい問題になったな。勝手にランク付けするなんて、ひどいとかなんとかそんな話で。本当にね、大変だったんだよ。あの時はね。
「えーーーそうだっけ?。・・・あ!。そうだ!」
と、佐知は急に飛び跳ねるような動作をする。・・・ほら、言わんこっちゃない。
「お母さん、私、今朝早く出ないといけないんだって。ごめん、朝ごはんいらないから」
「えー。ちゃんと食べないと・・・」
そんな母さんの言葉をかき消すように、妹は急いで階段を上り自分の部屋に戻る。佐知はこれから、仮装大賞のように早着替えをするのだろう。僕はそんな急ぎの妹を横目に見ながら、次の事を足早に考えてみる。つまり、あの佐知は朝飯を飛ばしたとしても、いつもの薄いメイクと髪を整える事だけは絶対に忘れないだろう。間違いなく。・・・最近、色気づきやがって。全く。・・・兄としては嬉しい限りだよ。本当に。・・・・・いや、多分。




