第1話 兄と妹 (その42)
源次郎は、女の話を聞きながら、庭の片隅にある大きな庭石を見つめていた。
手に持った湯飲みは、両手の中でほぼ体温と同じ温度までぬるいものに変わっている。
夏祭りの夜に見た向井忠明という男の一面と、今、女が話している向井忠明とが不思議なほどしっかりと重なってきている。違和感がない。
美佐子が言っていた夫婦茶碗の件も、これで納得が行く。
「そうなんですよ。そういうことなんですよ。」と、
女の口を借りる形で、向井が話しかけてきているような気になる。
「分かりました。随分と辛い話をさせてしまったようで・・・。」と源次郎が口を開く。
女は、依然として、下を向いたままで「いやいや」をするかのように、首を横に振る。
まだ、話したい、話し足らない、というのだろうか。
源次郎は、手にしていた湯飲みをテーブルに戻して、女の真正面に向いて座りなおす。
そして、「もうひとつだけ、お聞かせ願えますか?」と切り出す。
「どうして、妹だと・・・」
女は、今度は首を縦に振る。
源次郎が何故それに拘るのかを理解したのかもしれない。
「それは、とっさのことです。」と女が話し始める。
昨晩も、7時過ぎにお部屋を訪ねました。あっさりしたものが食べたいとおっしゃっていましたから、お造りを買って行ったんですが、あまり食欲がないとのことで、少ししか食べられませんでした。お疲れのご様子だったので「早い目にお休みください」とだけ言って、私は失礼をさせてもらいました。11時過ぎだったと思います。
夜道だし、交通事故が心配だからと、私が自宅に戻ったら「今、戻りました。おやすみなさい。」というだけの電話をするように言われていました。夜、帰ることになりますから、お邪魔するときは、いつもバイクで来ていましたから。それで、事故を心配されたのだと思います。
昨夜も同じように電話を掛けたんです。「無事に帰りました」って。
ところが、応答がなかったのです。
トイレかも・・・と少し間を空けてまた電話を掛けました。
それでも、電話に出られません。
私は、不吉な予感がしたのです。
そのあと、しつこいぐらいに電話を掛けましたが、結果は同じです。
私は、再度、バイクでここまで来ようかと思いました。
でも、部屋の鍵を持っていませんから、来ても入れない。どうしよう・・・・と悩みました。
結局は、朝まで待ってしまって。
あの時、直ぐに駆けつけて、管理人さんにご無理を言っておれば、助かったかも知れないと思うと・・・・・。
女は、そこで完全に泣き出してしまう。大粒の涙が両頬を滝のように伝う。
「つまりは、妹だとでも言わない限り、あの部屋の鍵を開けてもらえないとお考えになった・・・・。」
と、源次郎が自分なりの推論を言う。
女は、ハンカチで両目を押さえたままで、大きく頷く。
(つづく)