第1話 兄と妹 (その40)
明け方近くに、向井さん、一度目を覚まされました。
そして、私がそこにいることにとても驚かれました。
「どうして帰らなかった?」と訊かれましたが、私は何も言えませんでした。
そうしたら、ただ「ありがとう。迷惑掛けたね。折角、誘ってくれたのに。」とだけおっしゃって。
その後、また、浅い眠りに就かれたようでした。
程なくして、枕元にあった目覚まし時計が鳴ったんです。
時刻は5時丁度を指していました。
慌てて停めようとしまたが、それよりも早く向井さんの手が、時計に届いていました。
そして、身を起こされたのです。
「こんなに早く起きられるのですか?もう少しお休みになられたほうが・・・・。私が起こしますから。」と申し上げたのですが、「起きる」とおっしゃって。
私が居ては駄目だと思って、キッチンの方へ行きました。そして、取り敢えずは・・・とお湯を沸かす準備をしました。
向井さんは、シャワーを浴びておられるようでした。高血圧だと分かっていましたし、昨夜のことがありましたから、私は心配で心配で、バスルームから聞こえる音にずっと気をつけていました。
お湯が沸いたので、珈琲か何かをと辺りを見渡したのですが、きちっと整理整頓されているようで、見る限りにはそうしたものは見当たりません。
様子を見るということも兼ねて、声を掛けてみることにしました。
バスルームの前に立って、「あのう・・・・お湯を沸かしたのですが、お茶がいいですか?それとも珈琲ですか?」と声を掛けました。中でシャワーのお湯が弾け飛ぶ音がします。
「有難う。じゃあ、珈琲を。インスタントだけれど、冷蔵庫の横の収納棚の一番上に入っているから、それを使って。」と大きな声。
私は、ほっとしました。
そしたら、なぜか、泣けていました。
言われた場所からインスタント珈琲と角砂糖を出して、洗い桶の中に見つけたカップで珈琲を入れました。ミルクはいつも入れられていないことを知っていました。
そこに、上気した顔で、大きなガウンを纏われた向井さんが来られました。
私が準備した珈琲をご覧になって、「君のは?」とおっしゃって。
私は「要りませんから」という意味で首を振ったのですが、お構いなしに食器棚から新たなカップを出されて、「今度は、君の分を僕が入れるからね」と手際よく珈琲を入れてくださいました。
私は、本当に不思議な感じだったのです。誰か、他人の為に珈琲を入れる、誰かに、私の為に珈琲を入れてもらう、そんなごく普通のことが、私には随分長い間なかったような気がしました。
これが、生活しているっていう感覚なんだって、思いました。
以前に付き合っていた男とは、ベッドの上での睦み合いはあっても、こうしたこともなく、コンビニやホテルの冷蔵庫にある缶コーヒーや缶ジュースしか手にした記憶がなかったのです。
(つづく)