エピソード1:人間が万物の霊長だと思っていた時期が、俺にもありました。
人間は偉大だ。
空調完備のコンクリートジャングルを作り上げ、遠く離れた地球の裏側と一瞬で通信し、果ては宇宙にまで飛び出していく。食物連鎖の頂点にして、万物の霊長。それが人間である。
もちろん、かくいう俺、佐藤健太(さとうけんた・20歳・フリーター)もその偉大なる種族の一員だ。
たとえ住んでいるのが家賃三万円の隙間風吹き荒れる四畳半ボロアパートであろうと、今日の夕食が特売のカップ麺であろうと、俺が万物の霊長であるという事実に揺るぎはない。
「よし、三分経ったな」
お湯を注いで待つこと三分。至福の時間を味わおうと割り箸を割った、その時だった。
カサッ……。
背後で、あの『黒い悪魔』が動く音がした。
俺はゆっくりと振り返る。
部屋の隅、ホコリの溜まったテレビ台の横に、テカテカと黒光りするアイツ——ゴキブリがいた。長い触角を揺らし、こちらの様子を伺っている。
「……出たな、下等生物め」
俺はカップ麺をそっと置き、傍らにあった丸めた週刊誌を手に取った。
万物の霊長たる俺の部屋に、無断で侵入するとは何事か。圧倒的な力の差というものを教えてやる。
じりじりと距離を詰め、渾身の一撃を振り下ろそうとした瞬間——。
『カァァァーーーッ!!』
「うわあっ!?」
突然、開け放たれた窓のすぐ外から、鼓膜をつんざくようなカラスの巨大な鳴き声が響いた。
驚いて体勢を崩した俺は、週刊誌を空振りし、盛大に床に転倒する。
「いっっっつ……! なんだよ急に!」
抗議をしようと窓の外を睨みつけると、ベランダの手すりに一羽の大きなカラスが止まっていた。カラスは俺を一瞥すると、くちばしにくわえていた『何かキラキラ光る小さな石』をポロリと落とし、そのままバサバサと飛び去ってしまった。
「……なんだこれ?」
俺は床から這い上がり、ベランダに落ちたその石を拾い上げた。
ビー玉くらいの大きさで、オパールのようによくわからない七色の光を放っている。人工物なのか、自然の石なのかもわからない。
なんとなく指で強くこすってみた。
その瞬間。
『——ピィィィィィン!!』
「!!?」
脳内に直接、金属を弾いたような強烈なノイズが響いた。
視界がぐにゃりと歪み、強烈な吐き気が襲ってくる。立っていられなくなり、俺はその場に崩れ落ちた。
薄れゆく意識の中で、俺は確かに聞いたのだ。
『……あー、あー。テスター起動。まったく、大事な通信端末を落とすとは不覚だ。そこの愚かなサルが触っていなければいいが』
……ん? 誰かの声? 若い女の声だ。
『ねえねえ! 空のお嬢様! その端末、そこのサルに当たって死んじゃったみたいだよ! これ、アタシが食べていい!? ねえ、食べていい!?』
……こっちは、なんだかやたらとテンションの高い子供みたいな声。
『馬鹿を言うな地下の薄汚い虫。我々の被造物を勝手に捕食することは条約で禁じられているはずだ。それにしても、進化したとはいえ本当に脆い生き物だな、人間というのは』
……サル? 虫? 被造物?
頭の奥でガンガンと鳴り響く痛みの中、俺はゆっくりと目を開けた。
部屋には俺以外、誰もいない。
ただ、ベランダの手すりに先ほどの『カラス』が戻ってきており、部屋の隅には先ほどの『ゴキブリ』が触角を揺らしているだけだ。
『おい、そこのサル。……いや、人間。聞こえているか?』
『わーい! サルが起きたー!』
カラスのくちばしが動き、ゴキブリの触角が揺れる。
そして、俺の脳内にはっきりと「日本語」として、高圧的な女の声と、元気な少女の声が響いていた。
「…………は?」
人間が万物の霊長だと思っていた時期が、俺にもあった。
俺の平穏な四畳半生活は、この日を境に完全に崩壊することになる。




