紫と白
第七話 紫と白
搬入口の鉄扉を押し開けたとき、最初に届いたのは風の匂いだった。
埃と、遠くの雨と、錆びた鉄。ターミナルの地下にはない、剥き出しの空気。肺が一瞬つまり、それから深く吸い込んだ。身体が外の空気を覚えている。四話の図書館以来だ。
〇五三〇。まだ暗い。
雲の向こうに光源がないわけではないが、廃墟の谷間には届かない。灰色のぬるい闇の中に、セキの部隊が影になって立っていた。六人。三つの中継点に二人ずつ。全員が短銃を腰に提げ、外套のフードを被っている。
セキがこちらを見た。顎を引いた。それだけで充分だった。
リオが搬入口の内側に立っている。ここから先には来ない。指揮はターミナルの通信室から。
通信機が右耳に嵌まっている。スミスが昨夜調整した旧式の片耳型。電池は二時間。
「周波数合わせ。聞こえるか」
「聞こえる」
「中継点Aにセキ第一班が到着。Bは五分後。Cは十分後。おまえは〇六〇〇に旧化学工場に入れ。それまで中継点Aの裏で待機」
エアラは搬入口を出た。鉄扉の向こうでリオの義眼が赤く光っている。何か言いかけて、口を閉じた。昨夜の「帰って来い」の続きが、まだ喉に残っているような顔だった。
振り返らず走り出した。
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中継点Aは旧駐車場の地下入口だった。コンクリートの庇が張り出し、その裏にセキの部下が二人、膝をついて銃を構えている。
腕時計の秒針が動いている。リオが持たせた旧式のアナログ。液晶は電波を出す。
〇五四二。
待っている間、腕のプロテクターに指を滑らせた。スミスが削り出した鉄板。革の裏張り。留め具が三つ。手首を回すと、金属が肌に冷たい。
胸の欠片が脈打っている。空洞の縁が、北東の方角に向かって引かれている。昨日までより強い。近い。
セキの部下の一人が手を挙げた。五本指。五分前。
〇五五五。エアラは庇の下から出た。
廃墟の通りを北東へ走る。両脇にビルの残骸。鉄骨が肋骨のように突き出し、窓の枠だけが空を切り取っている。足元のアスファルトが割れて、灰色の草が膝まで伸びていた。
中継点B。旧バス停の屋根の下に二人の影。通過する。
中継点C。倒壊した歩道橋の根元。二人。
〇六〇〇。
旧化学工場の輪郭が見えた。
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工場は、思ったより大きかった。
正面の壁は半分崩れているが、鉄骨の骨格が残っている。天井が高い。十五メートルはある。内部に太い柱が等間隔で並び、柱と柱の間に配管の残骸がぶら下がっている。床はコンクリートだが、ところどころ割れて地面が露出し、そこから雑草が突き出していた。
匂いが違う。ターミナルの機械油ではなく、酸っぱい化学物質の残滓。鼻の奥が痺れる。千五百年経ってもなお残る、何かの薬品の記憶。
正面から入った。足音が天井に跳ね返り、広い空間をぐるりと回って戻ってくる。自分の足音だけが、工場の中を満たしている。
「工場内部に入った。視界良好。敵影なし」
「了解。中継点三か所、全班配置完了。通信残量一時間四十八分」
柱の陰を縫うように奥へ進んだ。天井から差し込む光が、柱の間に斜めの線を引いている。埃が光の中を漂う。静かだ。あまりにも静かで、自分の呼吸と心臓の音が分離して聞こえる。
工場の中央部に出た。柱のない開けた空間。かつて大型の装置があったらしい。床にボルトの穴が等間隔に並び、その周囲に油の染みが広がっている。
ここだ。ここで待つ。
胸の欠片が熱い。空洞が収縮と膨張を繰り返している。鼓動より速い。近づいている。向こうも、近づいている。
三分が過ぎた。
五分。
七分——
匂いが変わった。酸っぱい化学物質の残滓の上に、花のような甘さが被さった。この工場にあるはずのない匂い。
天井を見上げた。
崩落した屋根の穴から、紫色の光が差し込んでいた。
「——久しいな」
声は上から降ってきた。低く、滑らかで、抑揚がない。感情を剥がされた声。
崩れた天井の縁に、女が立っていた。褐色の肌。長い黒髪。紫の瞳が、十五メートルの高さからエアラを見下ろしている。
「リオ、接敵」
「確認した。刃を抜くな。まず距離を計れ」
女が天井から飛び降りた。落下——ではなく、滑るように降りてきた。重力に逆らっているわけではない。紫の光が足元に薄く広がり、着地の衝撃を殺している。
十メートルの距離に立った。
「見つけた」
ep5のドローン映像で読み取った唇の動き。あのときと同じ二語。だが今度は音がある。声がある。低い振動が腹の底に響く。
「おまえを、探していた」
女の瞳が細くなった。紫の光が虹彩の中で渦を巻いている。
「それを返してもらう」
女の視線が、エアラの胸を射抜いた。空洞の——欠片のある場所を。正確に。見えているのだ。エアラの体内が、この女には透けて見えている。
「返す?」
自分の声が出た。喉が震えているのに、言葉は硬かった。
「これは私のものだ」
「そうだ。おまえのものだ。だから返せと言っている」
意味が噛み合わない。エアラの欠片を奪ったのはこの女のはずだ。なのに「返せ」と言っている。
「リオ、話が——」
「聞こえている。時間を稼げ。会話を続けろ」
「私の名前を知っているのか」
女の口元が、ほんの一瞬だけ歪んだ。笑みとも苦痛ともつかない。
「エアラ。——おまえの名ではない」
胸が痛んだ。物理的に。欠片が振動し、空洞の縁がきしんでいる。
「エアラは私の名前だ。欠片が教えてくれた」
「欠片が教えた名は、器の名だ。おまえ自身の名ではない」
言葉の意味を処理するより先に、身体が反応した。足が半歩下がった。胸の空洞が、女の言葉に呼応するように震えている。否定したいのに、空洞が肯定している。
「おまえは私の——」
女が口を開いた。そして止まった。唇が閉じ、紫の瞳がエアラの目を見据えた。何かを量るような間。
「……いや。今は言うべきではないな」
女の右手が上がった。掌に紫の光が凝縮する。ドローンを一撃で落とした、あの光。
「欠片を渡せ。さもなくば——」
エアラは刃を出した。
考えるより先に、右手が開いて光が溢れた。白い光。掌から刃の形に伸びる。形成に一秒。熱切断の刃。持続時間は六分。
六分で、この女から情報を引き出し、戦闘力を把握し、生きて帰る。
「リオ、戦闘開始。刃展開。カウント頼む」
「了解。カウント開始。六分」
女が動いた。
速い。十メートルの距離が一瞬で詰まった。紫の光が右手に集中し、鞭のようにしなって叩きつけられる。
横に跳んだ。紫の鞭がコンクリートの床を抉った。粉塵が舞う。抉れた跡が赤く焼けている。熱——あの光も熱を持っている。
柱の陰に入った。紫の光が柱を掠めた。コンクリートの表面が溶けて垂れた。
「五分二十秒」
柱から飛び出し、斬りかかった。白い刃を横薙ぎに。女が後退する。紫の光が盾のように掌の前に展開された。白と紫がぶつかった。光が爆ぜて、二人とも弾かれた。
足が床を滑る。膝で止まった。手が痺れている。
——重い。ドローンを落とした火力は伊達ではない。正面からの力比べでは不利だ。
柱を使う。射線を遮り、接近して斬る。紫の鞭は遠距離で強い。近距離なら白い刃が速い。
走った。柱から柱へ。女が紫の光を放つ。一射、二射。柱が砕ける。粉塵が視界を塞ぐ。だが胸の空洞が女の位置を示している。欠片が共鳴する。見えなくても、居場所が分かる。
「四分十秒」
粉塵の中から踏み込んだ。刃を突き出す。女の肩を掠めた。布が裂け、褐色の肌に白い線が走った。浅い。だが当たった。
女が距離を取った。傷口を見もしない。紫の瞳がエアラを射る。
「……強くなった。あの時とは違う」
「あの時?」
「覚えていないのか」
女の声に、初めて色が混じった。怒りではない。もっと深く、重い。
紫の光が膨張した。鞭ではない。女の全身を包む光の鎧。密度が跳ね上がった。空気が軋む音がする。
「三分四十秒」
女が踏み込んだ。速度が上がっている。紫の光が拳に凝縮し、床を蹴る反動で——跳んだ。
エアラの頭上を飛び越え、背後から紫の拳が振り下ろされる。
振り向きざまに刃を立てた。受けた。衝撃が両腕を伝い、肩が悲鳴を上げた。膝が折れかけた。歯を食いしばる。口の中に血の味が広がった。舌を噛んだ。
「二分五十秒」
押し返した。刃を回転させて女の拳を弾く。紫の光が散り、一瞬だけ女の顔が無防備になった。
その目が——潤んでいた。
紫の瞳の中に、何かが揺れている。怒りでも殺意でもない。
エアラの胸で、欠片が叫んだ。
映像が割り込んだ。視界が二重になる。戦闘の最中に——記憶が。
白い部屋。天井の高い、光に満ちた空間。自分が立っている。目の前に褐色の女がいる。紫の瞳。だが今と表情が違う。笑っている。口が動く。声は聞こえない。だが唇が作る形は——
名前だ。自分の名前を呼んでいる。エアラではない、別の名前を。
「二分十秒! 反応が乱れている!」
リオの声で現実に戻った。女の紫の光が迫っている。右に跳んだ。間に合わない。紫の光がプロテクターの上から左腕を叩いた。鉄板が歪み、衝撃が骨に響く。腕が落ちかけた。
プロテクターが割れた。スミスの鉄板に亀裂が走り、革の留め具が千切れて床に落ちた。
左腕が使えない。痺れが肘まで広がっている。
刃を右手だけで握り直した。白い光が揺らぐ。片手では出力が安定しない。
「一分三十秒」
退くべきだ。データは取れた。女の戦闘力はエアラを上回っている。近距離の瞬間速度では互角だが、出力と持続力で負けている。紫の光には鎧形態がある。遠距離では鞭。
だが——
「おまえは私の——」
さっき途切れた言葉。あの続きが要る。
エアラは走った。退路ではなく、女に向かって。
「一分!」
刃を大きく振りかぶった。全力の一撃。白い光が膨れ上がり、熱が空気を焼く。
女の紫の鎧が受けた。光と光がぶつかり、閃光が工場を白く染めた。柱の影が一瞬で消え、壁に焼きついた。
ぶつかり合いの中で、二人の距離が消えた。顔が近い。紫の瞳が目の前にある。
「おまえは——何者だ」
エアラの声が、自分のものとは思えない音で出た。
女の紫の瞳が揺れた。唇が開いた。
「——同胞だ」
その一語が、胸の空洞に直接落ちた。
欠片が震えた。空洞が痙攣した。身体中の血が一瞬止まり、それから激しく巡り出した。指先が冷たくなり、耳が遠くなり、視界の端が白く飛んだ。
同胞。
知っている。身体が知っている。あの白い部屋で、この女と並んで立っていた。同じ光を持っていた。紫と——白。
「三十秒! 撤退しろ!」
リオの声が遠い。
女が身を引いた。紫の鎧が消えている。女もまた、消耗している。呼吸が乱れ、額に汗が光っている。
「今日は——ここまでだ」
女が後退した。紫の光が足元に広がり、身体が浮く。
「欠片は必ず回収する。だが——殺しはしない」
その声が震えていた。ほんの微かに。
「次に会うとき、思い出せ。おまえが何を壊したのか」
女が天井の穴から消えた。紫の光の残滓が、埃の中をゆっくりと沈んでいく。甘い匂いが薄れていく。
刃が消えた。六分を待たず、エアラの側から消えた。握力がない。右手が震えている。膝が折れ、コンクリートの床に崩れた。
左腕が痛む。プロテクターの破片が肌に食い込んでいる。息が荒い。心臓が肋骨を叩いている。
「……リオ」
「聞こえている。状態は」
「左腕に損傷。動ける。刃は消耗で解除。——戦闘データ、取れたか」
「全部記録した。戻れ。中継点C経由。セキが迎えに出る」
立ち上がった。三度目の試みで。
工場の中に、紫の光の痕跡が残っている。柱に焼け跡。床の抉れた溝。白と紫がぶつかった場所に、ガラスのように溶けたコンクリートの塊。
同胞、と女は言った。
胸の空洞が、まだ震えている。否定できない。欠片が記憶の断片を吐き出し続けている。白い部屋。紫の光。並んで立つ二つの影。
あの女は敵だ。欠片を奪おうとした。
だが——敵だけが知っている真実がある。「おまえが何を壊したのか」。その問いが、空洞の底に沈んで消えない。
壊した。自分が。何を。
搬入口への道を走りながら、エアラの右手はまだ震えていた。疲労ではない。あの一語が身体に残っている。同胞。その響きが骨の中を反復している。知っていた。ずっと知っていた。ただ、空洞がそれを隠していた。
中継点Cでセキが待っていた。短銃を構えたまま周囲を見張っている。エアラの左腕を見て、眉をひそめた。
「折れてるか」
「分からない。痺れている」
「走れるか」
「走れる」
セキが先行した。振り返らない。だがペースをエアラに合わせている。
中継点B。中継点A。
搬入口が見えた。
鉄扉が開いていた。リオが立っていた。通信室にいるはずのリオが、ここに立っている。義眼の赤い光が、エアラの全身を走査した。
左腕。プロテクターの破損。走り方の歪み。
「……馬鹿が」
声に怒りはなかった。
ターミナルの地下に入った。鉄扉が閉まる。外の空気が遮断され、機械油と埃の匂いが戻ってきた。
壁にもたれた。左腕が、遅れてきた痛みで脈打っている。
リオが隣に立った。
「同胞、と言ったのか。あの女が」
「ああ」
「……意味は分かるか」
「分からない。でも——身体は分かっている」
リオは何も言わなかった。義眼の光だけが、エアラの胸——空洞のある場所を、じっと見つめていた。
エアラは目を閉じた。
瞼の裏に、紫の瞳が残っている。あの白い部屋で笑っていた顔。自分の知らない名前を呼んでいた唇。
——おまえが何を壊したのか。
空洞の底で、答えの欠片が光っている。まだ手が届かない。




