追う者の影
第五話 追う者の影
欠片を持ち帰った翌日から、身体が変わった。
最初に気づいたのは朝だった。目が覚めた瞬間、天井のケーブルの一本一本が見えた。暗い地下なのに、輪郭が鮮明だ。視力が上がっている。
次に気づいたのは、音だった。ターミナルの生活音が、層になって聞こえる。手前の足音、奥の会話、さらに遠くの配管の水流。それぞれが重ならずに分離して届く。
リオが朝食——乾燥肉と水——を持ってきたとき、エアラは既に起きて座っていた。
「早いな」
「身体が軽い」
リオの義眼が赤く動いた。スキャンしている。
「……エネルギー値が昨日の一・四倍。空洞の容積が七パーセント縮小。欠片の吸収が進んでいる」
「感覚でも分かる。胸の穴が小さくなった」
「ああ。だが——」リオが乾燥肉を噛みちぎりながら言った。「お前のエネルギーが上がれば、マザーのセンサーに引っかかりやすくなる。地上に出るリスクが増した」
力が戻るほど、敵に見つかりやすくなる。力と隠密性がトレードオフ。
「それでも、残りの欠片を回収しないと」
「分かっている。急かすなと言っている」
リオの声に苛立ちはない。事実を確認しているだけだ。だがカップを置く手つきが荒い。義眼の光も、昨日より早く動いている。彼なりの緊張の示し方だった。
乾燥肉を噛んだ。硬い。味は薄い。だがエアラの身体はそれを求めていた。噛むたびに、顎の筋肉が温まる。生きている実感が、歯の振動から伝わってくる。
*
アーカイブの部屋で、回収した欠片の分析結果を聞いた。
「興味深い」アーカイブは棚から古い端末を引き出し、画面に数値を並べた。「コアの波長と同一だが、構造が違う。コアは均質な結晶構造を持つ。だが、お前が持ち帰ったものは——生体に近い。細胞のような構造が、結晶の中に組み込まれている」
「生体」
「魂、と呼ぶべきかもしれない。コアのエネルギーに、個人の情報が刻まれたもの。記憶の断片が含まれていたのは、そのためだろう」
エアラは自分の胸に手を当てた。あの飛行の記憶。空を飛ぶ自分。名前の一部。
「残りの欠片がどこにあるか、特定できるか」
アーカイブの義眼が光った。
「塔の周辺に、同じ波長の反応が複数ある。最低でも三箇所。ただし——ひとつ、気になることがある」
「何だ」
「反応のうちひとつが、動いている」
沈黙が部屋に落ちた。
「コアの欠片は結晶だ。自分では動かない。動いているということは——誰かが持っている」
エアラの背筋を、冷たいものが降りた。
夢の中の四つの影。赤い髪。褐色の肌。黒い巨体。青い髪。
あの四人が、自分の魂の欠片を奪ったのだとしたら。そしてそのうちの一人が、この世界に来ているのだとしたら。
「動いている反応の位置は」
アーカイブが地図の一点を指した。青白い義眼の光が、地図の上に細い線を引く。点が移動した軌跡だ。不規則に見えて、ひとつの方角を指している。
「塔の北東、約二キロ。旧工業地区。そして——移動の軌跡が、真っ直ぐターミナルに向かっている」
*
その報告を聞いたリオが、即座にセキを呼んだ。
セキは歪門の前に立ったまま、短く報告を聞いた。表情は変わらない。だが腰の短銃に手が伸び、安全装置を確認する動きだけが、状況の重さを示していた。
「歪門を閉じるか」
「閉じたら出入りができなくなる。偵察隊が三組、地上に出ている」
リオとセキの間で、数秒の沈黙があった。二人の目だけが動いている。言葉にしない会話。長い付き合いだけが作れる、暗号のような間合い。
「二時間後に全員帰還予定だ。それまで警戒態勢を上げる。帰還を確認したら歪門を閉鎖」
セキが頷いた。それだけで十分だった。
エアラはリオの隣に立っていた。自分が原因だ。自分の欠片を追って、何かがターミナルに近づいている。
「私が出る」
リオが振り向いた。
「出てどうする」
「相手が私を追っているなら、私がターミナルから離れれば、ここは安全だ」
「馬鹿を言うな」
リオの声が、初めて感情を帯びた。苛立ちではない。もっと鋭い何か。
「お前一人で出て、何ができる。刃の持続時間は三分。相手が何者かも分からない。自殺行為だ」
「でも——」
「でもじゃない」リオが一歩近づいた。義眼の赤い光がエアラの目を射る。「お前を拾ったのは俺だ。俺が判断する」
セキが口を挟んだ。
「リオ。偵察用の監視ドローンを一機、鹵獲してある。そいつで北東方向を確認できる」
リオの肩から力が抜けた。
「やれ」
*
鹵獲ドローンの映像は、スミスの作業場のモニターに映し出された。
画質は悪い。マザーの通信網から切り離して独立稼働させているため、処理能力が落ちている。だが輪郭は追える。
旧工業地区の映像が流れた。崩れた工場。錆びた鉄塔。剥き出しの配管。
その中を、何かが歩いていた。
人の形をしている。だが歩き方が異常だった。ゆっくりとした足取り。一歩ごとに、周囲の空気が歪んでいるように見える。熱波のように、輪郭が揺れる。
スミスが画面に顔を近づけた。
「……何だ、あれ」
エアラの喉が乾いた。
画面の中の人物が、顔を上げた。
カメラに向かって——正確には、カメラを通してこちらを見るように。
褐色の肌。紫の瞳。長い黒髪が風になびいている。口元が動いた。何か言っている。音声は拾えない。だが、唇の動きは読めた。
——見つけた。
エアラの全身に鳥肌が立った。
知っている。あの顔を知っている。夢の中の四つの影のひとつ。
褐色の女。
あの日、自分を殺そうとした四人のうちのひとり。
画面の中で、女が片手を上げた。掌から紫色の光が溢れた。次の瞬間、ドローンの映像がノイズに呑まれた。
砂嵐。そして、真っ黒。
「ドローンが落ちた」スミスが画面を叩いた。「一撃だ。あの距離から」
リオがエアラを見た。
「知っているのか。あれが何か」
エアラの声が震えた。唇が勝手に動く。
「敵だ」
記憶がない。名前も知らない。でも身体が覚えている。あの紫の光を見た瞬間、心臓が縮み上がり、足が後ずさりした。逃げろ、と全身が叫んでいる。
「あれは——私を殺そうとした者のひとり」
沈黙が作業場を満たした。金属の匂いが、いつもより濃く感じた。
リオが口を開いた。
「殺そうとした、ということは——お前の記憶の一部か」
「夢で見た。四人いた。あの女はそのうちのひとり」
「残り三人は」
「分からない。でも——あの女が来ているなら、他も来るかもしれない」
リオが拳を握った。金属の指が軋む音がした。義眼の赤い光が、エアラの顔の上で止まっている。
スミスが壊れた画面から顔を上げた。
「相手の戦力が未知数だ。ターミナルの戦闘部隊は二十名。武装は旧式。あの紫の光が魔法のたぐいなら、俺たちの火力で止められるか怪しい」
「止める必要はない」エアラが言った。声の震えが、途中から別のものに変わっていた。「あの女が持っているのは、私の欠片だ。奪い返す」
リオがエアラを見た。長い沈黙の後、短く息を吐いた。
「……作戦がいる」
「ああ」
「勝てる保証はない」
「ない」
リオの義眼が、一度だけ強く光った。
「——それでもやるんだな」
エアラは頷いた。
胸の欠片が温かい。空洞の縁が疼く。足りないものが、あの女の掌の中にある。
名前の続き。記憶の続き。自分自身の続き。
取り戻さなければ、戻れない。
どこへ戻るのかも、まだ分からない。
でも——戻らなければならない。
それだけが、空洞の底に残った、たったひとつの確信だった。
ターミナルの灯りが、微かに揺れた。
北東の空の下で、紫の光がゆっくりと近づいている。




