7-8
大きな地震が街を襲ったのは、それからほどなくしてだった。
前兆だ。この地震はくじらの身じろぎ。
イケニエを求め、長い長い眠りから、あらぶるカミが目覚める合図。
この段階になって、街はまだまだ平常運行だった。
人々は昼になればくじらの脂を燃やして火をおこし、保存用にいぶしたくじらの肉を水を入れた鍋に放り込む。
多少の野草や山菜、それとわずかに『牛』の肉を調理し、食事をしている。
炊事の煙のもとでは街の人たちはなごやかに談笑をする――くじらの身じろぎによる揺れはそうして話しているうちにも断続的に起こっているけれど、人々はこの揺れがじきにおさまるし、甚大な被害をもたらさないものだと知っているのだ。
知っている、というか――思いこんでいる。
人々はくじらと奴隷とイケニエの街に、また同じように明日が来ると信じていた。
だって、なにも聞かされていないから。
くじら討伐決行は近かった。
もうじきくじらが目覚めて、姉さんがイケニエに捧げられる。
そのあとで、じゃない。その時に、俺たちはくじらへ戦いを仕掛ける手はずとなっていた。
「街の人たちを、どうにか説得したかったでありますな」
まるまるしたくじらを見上げながら、テューネは言った。
それは綺麗な理想だった。夢のような話だった。
『お前たちの生活を壊したいんだ。手伝ってくれるか?』
そう言われて協力してくれる人がいると、俺は想像ができなかった。
しかも動機が『くじらを見てつらい記憶がよぎる人もいるのだとわかってほしいから、くじらを殺す』だ。
もちろん『イケニエを求めるペースが増えていて、このままだと戦乙女の供給がおいつかず、くじらの牙が民衆に向かう』だとかいう理由はある。その理由だって真実だろう。
けれど――
「『いつか来る危機』じゃ人は動かねーよ。『今、危ない』以外で人が『今』を捨てるわけがねーと俺は思ってる。生活の変化とか安定の放棄とか、めんどうでつらいことは、なるべく未来の誰かに丸投げしてーと思うモンだ。『安定』は本当に宝だぜ。こいつを捨てさせるなら、家に火を放つぐらいのことしねーとな」
「……アレクサンダー、君は、ずいぶん皮肉げに『人』を語るのでありますな」
くじらから視線を下げて横へ首を向ければ、テューネが俺のほうを見ていた。
困ったようなハの字の太眉。真っ黒い目。黒く長い髪。
背は俺より少し高いぐらいの――間違いなく、まだ『子供』と言えるような彼女が、まっすぐに俺を見て、
「皮肉げだけれど、君は正しいと感じるのであります」
「……皮肉げ、かねえ? 俺は基本的に人のことが好きなんだよな。人は優しい。他者を思いやれる。すげー可能性がある。熱意をもって目的に進むことができる」
「……」
「そんでもって、安定が大好きで、強欲で、自分の心と生活の安定のためなら、多少の都合の悪いことからは目を逸らす」
「……それでも、好きだと?」
「ああ」
「君の視点は、おおよそ『人』ではないように感じるのであります。外側から見ているような」
「出自が異世界人だから――ってのは関係ないかな。これは俺の特性だ。生まれつきの傍観者気質で、生まれた時から苦労ばっかりしてきた。……チートスキルがもし本人の性質を受けて発生するなら、俺の死なない力はきっと、『死なない』っていう力じゃねーんだろうな」
「?」
「いや。……まあとにかく、火付け役はまかせろ。これからイケニエをさらって、くじらにケンカをふっかける。あんたらは、街の人の避難を優先してくれ」
「……街の人を説得できれば、余裕をもって避難させられたのでありますが」
「まだそんなこと言ってるの?」
「いえ。自分の力不足で申し訳ないことをすると」
「そうだな。あんたのわがままで、街の人全員の命を振り回すんだ」
「……」
「胸を張れよ。街の連中も、あんたに賛成しなかった戦乙女も――いや、賛成した戦乙女さえもが、あんたの独断専行を責めるだろう。あんたは火あぶりにされたり縛り首にされたりするかもしれない。なんせ、生活を乱し街を壊す罪は重すぎる」
「……はい」
「でも、やりたいんだろ?」
「……はい」
「だったら胸を張れ。あんたの行為は今、この街の秩序をかんがみれば間違いなく『悪』だ。人道とか道義とか、そういうものを見ても絶対に『悪』だ」
「……」
「だからこそ、迷いながら『悪』をやるな。『悪』が迷ったら、ないがしろにする『正義』に申し訳ねーだろうが」
「君は変なものの考えかたをするのでありますな」
「まあ、『悪』として糾弾されるのがつらかったら、全部の責任、俺にかぶせてもいいぜ。俺は『悪』に慣れてるし、それに」
「……それに?」
「あんたがもし、くじら討伐を考えてなくても、俺はきっと勝手にやったから」
剣を抜く。
半ばから折れた剣。俺の『目』で見ても間違いなく破壊済みオブジェクト――
しかしそれは力をこめることによって、青白い、非実体の刃を伸ばす。
ちょうどその時、街を襲う揺れがひときわ強くなった。
ずずずずずずず……と小刻みでしかし大きな揺れは、街のすべてを等しく揺らす。
人々もさすがにまずいと思って火を消したのか、そこらじゅうでのぼっていた炊事の煙は途切れ始めた。
そんなおり、街の一角で悲鳴があがる。
視線を向ければ黒煙がたちのぼっていた。
どこかで家でも燃えたのだろう。くじらの起こす震動に慣れた人々にも、間違いはあるらしい。
「アレクサンダー、偶然にも火事が起きたので戦乙女が避難誘導を始めましたよ。いやあ、くじら討伐に先んじて避難する理由ができて、よかったですねぇ」
ちょうどいいタイミングだなーと思いながら背後からかけられた声を聞く。
シロだ。こいつは人をびっくりさせない登場ができないらしい。
視線をめぐらせれば、他にも仲間の姿が見えた。
低い木造の長屋の屋根の上にはサロモンがいて、碧い瞳でくじらを見つめ、実体ではない『本気の弓』を引き絞っている。
そのそばにはイーリィもいて、彼女は俺と目が合うとうなずいた。
あいつが協力的なのは、あいつが『今来ている脅威』だけでなく『いずれ来る危機』に応じて行動を起こせる人種だからだろう。
そもそも『一人を犠牲にそのほか全員が助かる』という構造が嫌いなのだろう。
捨てられた『一人』というのは、カグヤや、イーリィ自身を想像させるから。
正面に視線を戻せば、ダヴィッドがくじらの表皮をペタペタ触りながら「おう、始めねェのか?」と俺に聞いてきた。
あいつノリがドラゴン退治の時と一緒なんだけど、サイズ差とか気にならないんだろうか。
あの位置だと、気まぐれにくじらが転がったら、つぶれるぞ。
俺はくじらの向こうにのぼる昼の日をながめながら、ウーばあさんのことを考えた。
街の外にすでに避難中のあのばあさんは、今ごろなにをしているだろうか。たぶんすっごいヒマしてると思う。カグヤといっしょに遊んでてほしい。
考えていると、くじらが、みじろぎをやめて、ピタリと動きを止めた。
そして――『口』を開く。
地表付近に、くじらの球形の体をぐるりとなぞるように、切れ目が入る。
そこから球体の上半分が持ち上がり――
がぱり、と闇よりも暗い、口内がのぞいた。
そうして強風と――雨? が降り注ぐ。
いや、雨ではない。
それは、くじらが頭頂部から吹き上げた潮だ。
「アレクサンダー」
すぐ隣に姉さんが現われる。
彼女はくじらの口内を指して言う。
「姉さんは、どうしたらいい? あそこに飛び込むか? それとも、ほかにやることがあるか?」
……まったくもって、度肝を抜かれる。
姉さんは普通にそんな質問をしたのだ。『別に飛び込んでもいい』という調子で――ここでみんなのためにイケニエになるならそれはそれで、みたいに、俺に聞いてきたのだ。
どうやら俺は、『姉さんの命のために』だなんて軟弱で正当性のある理由では戦えないらしい。
あくまでこれは、俺の自由。
くじらをなんだかぶっ倒したいという、俺の意思で始めなければならない戦いのようだ。
だから俺は、俺の願いを告げよう。
「隣で戦ってくれ」
「わかった」
剣をかかげ、刃を伸ばす。
長く長く、空を衝くほどに長く。
そして――
あくびをするくじらに向けて、一気に振り下ろした。




