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50.主よ、みもとに近づかん

——わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。人が友のために自分の命を捨てる、これより大きな愛はありません——


「だれ?セリエ……いや違う、何だかこう、もっと、もっと大きな……」

魂に響く風のようなささやき、脳裏に投影される意識の集合体はゆるやかに羽ばたきながら問いかける者を自らのいる階上へと誘います。それは見た事もないような夢幻の輝きに満ちて愛を歌い、放射された無数の福音を一度に受け止めたマオは一瞬気が遠くなって、その場に膝をついてしまいました。

「あっ!真桜、大丈夫?」

「……何が……セリエに何が起こってるんだ……胸が……胸が燃えるような……このあたたかさは、セリエのだけど……今までより……何倍も強い……」

「真桜、見て!屋上……明るいよ、何の光だろう……」

「光……あれは一体……」

見上げた吹き抜けの遥か上方、普通、こんな夜なら闇に閉ざされてよくわからないはずの切り取られた四角い空が、今はゆらゆらと揺れながら輝く光によってくっきりとその出口を露にしています。はしゃぐように、靡く草原のように天駆ける閃きの波紋は暗い非常階段を白いカーテンのような揺らいだ光で照らして、まるで天へと至る回廊のように二人を包み込んでいるのでした。

「これは……どこかで見た光……そうだ……あの氷の底で……母さんに会えたときに……」

「立てる?真桜、気をつけてね、さっきより足下が見えるようにはなったけど……」

「……だとしたら……セリエ……登るみちは……行って……行ってしまうのか?……」

マオは膝に手をついて渾身の力で立ち上がりました。そうだった……もう……ずっと前のような気がするけど……あの日……ここから翔ぼうとしたとき……小さな君はぼろぼろになってあの上まで登って来て、俺に優しい歌を届けてくれたっけ……今度は……今度は俺の番だ……だから……待ってて……わななく膝を拳で叩いて踏みしめ、マオは再び階段を登り始めます。まだうまく動かない両足、よろめきながら、つまずきながらも一歩、また一歩……頭上に確かに感じる気配、心に届くその姿は今や大きく背筋をのばして、伸びやかに翻る純白の六翼で偏く冥き影を照らしています。その神々しい姿は今にも天へと羽ばたいて行こうとする天使のようで、漠然と押し寄せる焦燥感がマオをいっそう激しく上へと駆り立てるのでした。

「ハァ……はぁ……くそっ……動け足!……これくらいで……これくらいで音をあげるな……痛ッ!」

「真桜?だ、大丈夫なの?無理しないで!私……もう……もうあんな思いは!」

「ここで……ここで止まっちゃ駄目なんだ……止まっちゃったらもう二度と……二度とセリエに会えなくなる……」

「……会えなくなるって……セリエちゃんは……セリエちゃんはもう……」


——わたしは、そのために来ました。切り取られた心を愛で満たすため……そして、自分を取り戻すために——


「ら……ラファエル様……セリエの……セリエの歌が……いや……この方は……?」

天界で見守るエリシャの心にも、その翔くような音色が高空を渡るオーロラの光と共に届きました。たしかにそれはセリエから聞こえて来ている事は間違いはないのですが、自分の知る彼女の歌とはあまりにもかけ離れたその荘厳な響きに、思わず我を忘れて聞き入ってしまいました……何だろう、このあたたかさは……?

「久しぶりですね、あなたの歌声を聴くのは……もう耳にする事はないかと思っていました……我が、親愛なる友よ……」

「……とも……って?……じゃあセリエ……いいえ、あの方はまさか……ラファエル様!」

今や天界からでもはっきりとわかる程に熾えあがる輝き。金色の髪から伸びる翼を遥かに長くたなびかせてその聖域の中に息づく者は、未だに自分の胸に刺さったままの長鎌の柄にそっと手を添えて、向かい合った醜い髑髏のような姿を曝すサリエルに静かに微笑みかけました。

「あなたの悲しみは、私の悲しみ……あなたの愛は、私の愛なのです……だから……もう、さまよう事はありません」

「き……貴様は……六翼の天使!」

闇の魔にかられ、確かにセリエへと突き立てたはずの長鎌、でも、その刃はセリエの魂を奪う事は出来ませんでした。なぜなら、その時はもう彼女の命は、マルルーを通じてマオへと受け継がれていたから……からっぽの肉体に宿っていたセリエのコトバは今、長い月日の中で通り過ぎていった無数の思念とひとつになって見上げる程の翼の人となり、燦然たる輝きを放っているのでした。その姿は比類ない慈愛と救い、そして時や運命をもその身に委ねられた熾天使……七色の宝輪が地を照らし、潔の翼が天を覆う時、この世界の全ての常識は無意味なものになるのです。サリエルはさすがに畏れをいだいたのか、あわててその者の胸を貫いている自らの長鎌を引き抜こうとしました。しかしどんなに力を込めても食い込んだ刃先は微動だにせず、それどころか、まるで縛り付けられているように手がその柄から離れません。サリエルは取り乱したように大声で喚き散らしました。

「貴様!何者だ!自ら諍いを起こすのか?天界の使徒の分際でッ!」

「ああ……救われるべき魂よ……その憎悪の中に潜む冥よりも深い悲嘆をどうか……どうか我慢しないで下さい……」

「憐れむというのか?この私を……何故そんな、まるで見てきたような事が言えるのだ!私は貴様など知らぬというのに……」


「くらき我よ、今こそ、その行く先を照らしましょう……私たちはサリエル……大いなる祝福を授けし主を讃える熾天使です」

「な……なんだと?……ぐあ……ぐあぁぁぁぁぁ!」


大きな六翼がひとたび無数の羽を散らして、それはあかあかと光輝いて聖者の身を覆いました。近寄りがたい程に純粋で一途な熾天使の炎は手を添えた長鎌をつたってサリエルへと届き、彼をもその燃えさかる燐の火で包み込んでしまいました。虚ろな瞳孔、引き裂かれた黒翼、そして腱や関節がむき出しになった醜い四肢もすべて覆い尽くす断罪の炙……逃れる術もなく、慈愛の白い輝きで焼かれるサリエルは夥しい灰燼を散らして暫く苦しみ悶えていましたが、やがて静かに膝を追って頭を垂れると、六翼の天使の前に跪きました。翼も黒衣も失い、揺らぐ光の乱舞のなかで一人の使徒の姿へと戻った死の天使……荒れ狂う炎が火種を失ったように鎮まって周りがあたたかな光の放射でいっぱいに包まれたとき、忌わしい長鎌はいつしか溶け落ちて消え去り、鏡像と見まがわんばかりに良く似た顔立ちの二人は互いに右手を握りあったまま、再会を果たした兄弟のようにじっと見つめあっているのでした。その者たちの瞳の色はセリエと同じ、澄んだ湖面にも似た深い翠玉色に輝いていました。

「ああ……サリエル様が……サリエル様が二人いる……私……夢を見ているのかしら……」

驚嘆の声をあげるエリシャ、信じられない光景を目の当たりにした彼女は思わず立ち上がって、傍らのラファエルに問いかけました。

「ラファエル様、サリエル様が二人も……あの……あの施しをされているお方はやはり……セリエって……セリエってもしかして、サリエル様だった……?」

「ふふ……さすが潔の天使、あなたの癒しが遥かこんな所にまで届きましたよ。ね、エリシャ、もう何ともないはずです」

「え?……あ……私、どこも痛くない……」

「そう、あの子は……セリエは、彷徨っていたサリエルの魂……彼があの事件以来失っていた光の側……その比類なきあたたかくておおきな愛と優しさがかたちになったものなのです」

「まさか……セ……セリエが熾天使だったなんて……道理でアイツの心、でっかく感じたわけだ……」

ラファエルの言葉に、アナエルも納得したようにその聖光を見つめました。優しく響きわたる歌声のもたらす安らぎに、無邪気にはしゃぐセリエの姿を思い出したアナエルは一抹の寂しさを感じながらも、彼女の成就に安堵の微笑みを浮かべました。今、訪れようとする新しい天使の転生を前に、ラファエルは言葉を続けました。

「主はサリエルの造反をたいそう嘆かれて……でも彼を戒めたり、罰そうとはしませんでした。私は彼を失う事など考えられなくて、何日も何日も祈り続けました。主よ、どうかサリエルの罪をお許しください。そして、再びその御もとへとお遣わしください……昼と夜が幾百か巡ったころでしょうか、天使になるために私のもとへ訪れた子達の中に彼女はいました。まだ幼いながらも強い光を心に秘めた不思議な天小使……生まれてすぐに召された無垢な人の身体に彷徨っていたサリエルの清らかな魂を封じ込んだその子の名前は、セリエといいました」


——そうか……だからあのチビは、セリエと同じ姿かたちをしていたのだな——

「ええ……私たちが心から幸せを願った少女……その記憶があの子をセリエとして生み出したのです。私たちの愛と救いの具現として……」

——では、私も彼女に会いにいく事にしよう……さあ、連れて行ってくれ——


跪いたサリエルは微笑みを浮かべて呟くようにそう言うと、かたく握った細い手を自らの口元にそっと引き寄せて目を閉じました。その安らかで優しい面持ちは向かい合って立つ熾天使にも劣らない程の慈愛にあふれ、翼さえあればかくやと思う程のつつましくて厳粛な佇まいを見せています。天空に届くほどに賛美が謳われ、煌めきたる福音の虹に包まれたサリエルは今一度唱和して理をおさめ、差し伸べられたその手に口づけました。

——聖なるかな、聖なるかな、聖なるであることは、主の元に来ることができる——

身体から魂が解き放たれ、たくさんの小さな輝きとなったサリエルはその肉体の支配を逃れて、弾けるように四散しました。夜空に尾を引いて駆ける無数の光のコトバはやがて満ちてゆくあたたかさに引き寄せられるように熾天使のもとへと集まって来て、もとよりその身を包んでいた白い時空の中にひとつ、またひとつと溶け込んでゆきました。今こそ、魂が満たされるとき——大きくひろげたその手が全ての光たちを抱きしめた時、二つの魂は再び巡り会って至高の輝きを放ちはじめました。

「おお、サリエル……この日が来るのをどれだけ待っていたことでしょう」

舞い散る羽根が雪のように一面に降り注ぐ真のサリエルの祝福は偏く世界に愛の旋律を届け、天も地も喜びの歌を謳いはじめます。無数に重なり唱される和音の響きの中で、あどけない表情のサリエルはそっと目を開けて天を仰ぎ、自分を見守ってくれていた恩人の眼差しに応えました。

「……ありがとう、ラファエル……世話をかけたようですね……」

「さあ、こちらへいらっしゃい、主のみもとへと……聖サリエルの再来、さぞ喜ばれることでしょう」

「……ラファエル、わかりました……ですが、今少し……ほんの一時だけ、待って頂けないでしょうか……」


「これで……はぁはぁ……これで最後だ……くぅッ」

 重い足を引きずり、息も絶え絶えにようやくたどり着いたビルの屋上、乱れる息で気が遠くなりそうな身体に吹き抜ける風の冷たさは、目の前で眩く放射されるあたたかい輝きに包まれた途端、嘘のように全く感じなくなりました。暗い屋上を白く浮かび上がらせる程に発せられる不思議な光が何なのか理解できずに、ただ肩で息をしながら呆然と立ちつくしたマオは、その中に微かに映る翼を拡げる天使のシルエットを見つけて驚きと歓喜の声を漏らしました。

「せ……セリエッ!」

——マオさま?——

白く淡い光に包まれているとはいえ、透き通ってゆくその神々しい姿は徐々に夜空へと溶けていっているように見えて、マオは息も整えないままつんのめりそうな足取りでその影のたもとへと走り込みました。

「はあ……はぁ……君は……君は、セリエ……なんだね……よかった……無事なんだ……」

——マオさま……会いたかった——

しなやかに翼に風を孕んで、サリエルはマオの目の前へと降りてきました。そこだけ春の柔らかい風が吹いているような心地よいゆらぎ、熾天使は長い衣をその波にたおやかにゆだねながら優しい微笑みを浮かべています。見つめる瞳にセリエの、あの純真な光を見いだしたマオは嬉しさで胸がいっぱいになってしまって、おおきく羽ばたく崇高な姿に笑顔で語りかけました。

「セリエ……ほんとに……ほんとによかったな……こんな立派な天使になれて……」

——マオさま、みんなあなたのお陰です。なんてお礼を申し上げたらよいか——

「はは、こっちこそ……」

——マオさま——

「……」

——マオさま?——

とうとう、夢にまで見た天使に……それも最上位の熾天使へと姿を変えたセリエ、その目も眩むばかりの姿にマオは自分の事のように嬉しくて仕方ありません。でも、嬉しいはずなのにこみ上げてくる涙……なぜ?そう、俺は知ってるから……セリエが天使になれた時、それは、俺の目の前から彼女が消えてしまう時なのだから……こうしている間にもぼやけてゆく愛おしい眼差しの輪郭……マオはあふれ出る涙を拭きもせず、消えゆく瞳に叫びました。

「セリエ!行くな……消えないでくれ!頼む……俺の……俺のそばにずっといてくれ!」

——マオさま……私も……私もそうしたい……けれど——

俯くサリエル、その横顔は機嫌を損ねて、寂し気に拗ねたセリエが見せる仕草にそっくりで、マオはたまらなくなってその場にしゃがみ込むと、拳を何度も足下のコンクリート床に叩きつけました。

「畜生!何で……何で一緒にいられないんだ!どうして見えなくなっちまうんだ!……俺だって……俺だって天使の血筋だって言ってたじゃないか……それなのに……これじゃ……これじゃ何の意味もないじゃないか!」

瞳を曇らせ、思いのたけを曝け出して叫ぶマオを、サリエルも涙を浮かべて見つめ返しました。完全にふたつの魂がうちとけるまでの僅かな時……姿はおろか、声も届かなくなるその前に、サリエルはマオに最後の想いを届けようと悲しみに言葉を震わせながら語りかけました。

——マオさま……あなたは、私を救ってくださった……その神聖な業は、希有なる崇高な慈悲の志があればこそ……その魂に敬意を表して、あなたの希望をひとつだけかなえさせてください……さあ、私の姿が消える前に——

「そんなの……そんなの決まってるじゃないか!……俺はお前に……お前にずっとそばにいて欲しいんだ……ずっと……」

——マオさま……それは……それは言わないで……私だって……ああ……もう……もう時がありません——

「セリエ!行くなぁーーーー!」

感極まってかすれた声、瞼に甦ってくる数えきれない程のセリエの横顔……一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に夢を追いかけた……持ちきれない程のたくさんの思い出に綴られた、キラキラと宝石のように心を彩ってきた日々が終わってしまうという現実を、マオはどうしても受け入れる事ができません。こんな……こんな辛い思いをするならいっそ……マオは地に突いた拳をぐっと握りしめると、透き通ったそのシルエットに叫びました。

「わかった……セリエ……それじゃ、ひとつだけ頼みがある……お前を……お前を忘れさせてくれ!……」

——マオさま……そんな——

「……ごめん……でも……でも俺、お前と別れるなんてとても出来ない!……お前がいない明日なんか……だから……だからセリエ、この世界から……みんなの記憶からお前の……お前の存在を消してくれ!」

「ま……真桜?そこまで……そこまでしなくても!」

「……お笑いだよな……こんなチビとの別れに駄々こねちまうなんて……はは……やっぱり俺はダメな男だ……なぁ?皐月……」

「そんな……そんなこと気にしないで!真桜……たとえ、ずっと心の中にセリエちゃんがいたって……その想いをいつまでも抱いていたって、私は……私はそんな優しい真桜が好き!」

「……皐月?」

——わかりました……ではマオさま、どうかいつまでもお元気で……主のご加護のあらん事を——

「ああ……お前もな……」


——さよなら……だいスキなまおにーちゃん……セリエはまおにーちゃんのこと、ぜったい……ぜったいわすれないからね!ずっとおぼえているからね!——


「……?……セリエ!……待ってくれセリエ……セリエーーーーー-ーーッ」

冬の星座が密やかに煌めく紺色の夜空に、ひときわ寂し気な呼び声が幾度となく反響しながら吸い込まれて行きます。周囲を明るく浮かび上がらせていた輝きも消え、何もなかったかのように淡い月の光に照らされるビルの屋上……今、夜空へと消えて行ったかけがえのない思い出に向けて、その声は愛しいものの名を何度も呼び続けるのでした。


        *       *       *


——Silent night,Holy night,

  All is calm,All is bright,——

「知ってる?この歌って、ほんとはドイツ語なんだって」

「……へぇ」

まだ暗くなる前から煌びやかな電飾に彩られた街の大通り、立ち並ぶ木々はその枝々に数え切れないほどのオレンジ色の灯を燈し、どこからともなく流れる聖歌に道行く人たちは心なしか浮き立つような気持ちをおぼえながら、華やかな装いの荷物を手に愛しい人のもとへと急ぐのでした。やたら盛り上がった写真部の打ち上げのおかげでようやく家路についたマオとサツキは、薄暗い中に煌々とざわめいている通りの賑わいに誘われるように繁華街のほうへと歩いてゆきました。

「もうサイテー!……せっかく真桜とツーショット撮ってもらおうと思ったのに!」

「ははは、思いっきり全員に乱入されちまったな……でも何だか青春!って感じでいい写真じゃない?俺は好きだな」

「知らないッ!……あーあ、でもさ、私、何であの文化祭のとき、ブランドのドレス着なかったんだろう?あれ着て真桜と写ろうと思って借りて来たのに」

「……」

街頭に灯が入り、店先の明かりが歩道に長い光の絨毯を敷き詰めてゆく夕暮れ、西の空は明日の晴天を約束するかのように真っ赤な夕焼けで今日に別れを告げて、それを見送るマオはまるで宇宙につながっているように透き通った蒼を見上げて、その微かな色彩の変化に心動かされるのでした。

「ちぇっ……いい天気なのは嬉しいんだけどさ……せっかくのイブなんだし、ちょっとくらい雪降ったっていいんじゃない?ねえ、真桜」

「ああ……でも見てよ、この空の色……絵の具じゃ絶対出せない色だよね……キレイだな……」

「あ、そですか、そりゃよござんした」

相変わらず自分の関心事以外には全く興味を示さないマオ、でも今日はクリスマスイブ、このまま家に帰っちゃうなんてモッタイナイ!サツキはポケットに突っ込んだマオの腕をおもむろに掴むと、店頭で小さなアクセを並べている雑貨屋のほうへ向かって引っ張っていきました。

「あたた…何だよ急に」

「ほら、見てみて!可愛いのいっぱいだよ!お揃いもあるし……」

「はァ?何だお前、こんなのが欲しいのか……って高ッ!」

「ねーねー、買おうよー!クリスマスだしぃ」

「いらねーよこんな……あのなあ、勘弁してくれよ、もう子供じゃねえんだからさ……」

「!……真桜のバカ!もういいよ、帰るッ!」

「サツキ?……」

増えてきたすれ違うカップルたちの姿を横目に見ながら、サツキは今来た方向へ踵を返すと、つかつかと早足で歩き始めました。判ってはいたけれど……でも真桜……今日は私だって彼女したい……この聖夜に、真桜との思い出つくりたい……なのに……サツキはまわりの楽しそうな喧騒から逃れるように下を向いて、駅前の坂へとつながる歩道を流れに逆らって歩いてゆきました。程なくたどり着いた赤信号……そこはあの日、マオがサツキを庇って倒れた交差点……なんだか、とても悲しいことがあったような気がする場所だけど、サツキにはどうしてもそれを思い出すことが出来ません。日が落ちたからでしょうか、急に底冷えがしてくるレンガ敷の遊歩道。瞬き始めた星の海を速い雲が行き過ぎ、街路を駆け抜けてゆく寒風が髪をかすめて細い首筋にひときわ強く吹き込んで、サツキは思わず身震いして肩をすぼめました。

「うう、さぶっ……」

「……ったく、世話が焼ける奴だぜ。寒いから巻いてきたんだろうが……」

どこからか身を包んでくるあたたかな感触、気がつけば見覚えのあるマフラーが頭の上からくるくるっと首に巻かれて、その柔らかなぬくもりをほほに感じたサツキはびっくりしてその声のほうを振り向きました。

「真桜?……あ……私……これ、どこで?……」

「落としたことくらい気づけよな、人一倍寒がりなくせに……ちゃんと着てなきゃ風邪ひくぞ」

サツキはマフラーを首に巻いてくれたマオの瞳を笑顔で見つめました。えへへ……また背、伸びたみたいね……ごめん……真桜、私ったらつい……コラ!皐月のあわてんぼ!

「うん……アリガト」

「寒くなってきたな」

「真桜、私ね……あ……雪……」

二人の上に不意に訪れた、キラキラと輝きを振りまく天の綿毛……それは暗い空から生まれてきた妖精たちのように奔放に踊りながら、あとからあとからやって来てきらびやかに着飾った街を覆ってゆきます。サツキはぱっと明るい笑顔になると、マオの前で両手を天へと伸ばしてはしゃぎ始めました。

「キャハハ!見て見て雪だよ!うわぁ……どんどん、どんどん降ってくる!真っ白で……まるで天使の羽根みたい!」

マオはサツキの言葉に表情を和らげて、乱舞する雪のひとひらを手にとりました。ふわりおどるその結晶は忘れもしない、あのまるまっこくてほんのりタンポポ色のセリエの羽根を思い起こさせて、マオは優しい微笑を浮かべながらぽつりとつぶやきました。

「ふふ……相変わらずお節介だなぁ……でも、ありがとう、セリエ……」

「え?何か言った?」

「いや……それより滑って転ぶなよ、尻にはマフラーないんだからな」

「んもぉ!」

マオはサツキのふくれた顔にホッとしながら、白く砂糖をまぶしたような夜空を仰ぎました。サツキも……いや、彼女だけじゃなくて、もうこの世界でセリエのことを、そして、あの127号事件の事を覚えている者は誰一人いない……けれど……ひとしきり雪と戯れたサツキはふと見た、誰かと見つめ合っているかのような眼差しで空を見上げているマオがちょっと気になって、真っ白な雪で彩ったショートの髪を揺らしてその隣にやってきました。

「ねえ、さっきから上ばっかり向いて……何見てるの?」

「……ふふ、天使さ」

「えー?真桜もそんなふうに思うんだ……よかった、ちゃっかりクリスマス気分してんじゃん」

「……悪いかよ」

この夜を祝福するかのように舞ってくる雪たちの中に、マオは確かにセリエの姿を見ていました。そう、マオだけは、セリエのことを忘れる事が出来なかったのです。それはセリエのせいなのか、それともマオが天使の血を引いていたからなのか——もう、その事を訪ねる事は出来なくなってしまったけれど、彼女の残してくれた輝きはマオを、そして彼の周りにいる人たちをずっと照らし続けていくことでしょう。マオはそっとサツキの手を取って、降り来る雪の彼方をいつまでも、いつまでも見上げていました。


——おわり——

1年と7ヶ月、慣れないながらも書き綴って来たこのお話も今回で終わりです。ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。色々変な言い回しとか、あるいは誤字脱字などあると思いますが、やんわりとご指南頂ければ今後への糧となる事と思います(あるのか?)このお話に触れた方が少しでも現実を忘れてくれたら、楽しい時間を過ごしていただけたら書き手としてこんなに嬉しい事はありません。またいつか、新しいお話でお会い出来る事を楽しみにしております。それでは皆様、良いクリスマスをお迎えくださいませ。


2009.12.22 さき淳也

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