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49.さようならセリエ

「まお……にー……ちゃん……」

 がっくりと膝をついて、力を失ったセリエの身体は弓のように仰け反りました。蒼い夜空から淡くとどく光に照らされたその顔に生気はなく、瞬きを忘れた瞳の輝きは乾いた空気に晒されて次第に鈍く風化してゆきました。うすぼんやりと滲んだ月の輪郭を霞んでゆく意識の中で見つめながら、セリエは今一度その心を開いて、この世界に飛び交う全ての光のコトバたちに語りかけました。

「……わすれない……たくさんのおもいで……セリエのたからもの……アリガト……いまから……いまからみんなのところへいくからね……」

冷えきった刃の硬質な表面をその切り口に感じながら、でもセリエの表情は安らぎに満ちていました。いままで数えきれないほどのおしゃべりを交わして来た光のコトバ達。今、自分がそのひとつになろうとするとき、セリエの心はまるで神さまに抱かれているようなあたたかさと安心感でいっぱいになるのでした。解き放った心の枷を通り過ぎてゆく無数の輝きの軌跡のはしゃぐ声に誘われるように、どこまでも透明で澄み切った世界へと身をゆだねるセリエ、その消えかかった琴線をどこからか、懐かしい旋律が優しく震わせました。


——いつかきいた かぜのなかで おもいだす てとてつないで——


「……うたが……うたがきこえる……ママ?……」


——セリエ、かわいい子……いつも、いつも見守っていましたよ——

「……ママ……そばにいてくれたんだね……セリエ……すごーくがんばったんだよ……」

——ええ、あなたはやっぱりママの自慢の子、セリエのがんばり、しっかり見せてもらいましたよ——

「……ウン……でも……でも天使にはなれなかったんだ……エへ、やっぱりセリエじゃだめみたい」


——そんなことないよ!セリエはいつもマオくんの為に一生懸命に……うん、自分の事なんか顧みもせずにただひたすらに尽くしてた……私なんかより、ずーっと天使だよ!——

「エリシャ……うん……けどね……やっぱりダメなんだ……まおにーちゃんのこえ、きこえないんだ……」


——心配するな、こんなにも強く想ってるんだ。その気持ち、きっとあいつに届くって——

「風神さま……でもセリエがしっかりしてたら……りっぱな天使さんだったら……」


——なに言ってんだよ!チビだって、おおきな羽根や輪がなくったって、セリエは誰よりもあたたかくて、誰よりも慈愛にあふれたとびきりの天使なんだ。みんな、みんなそう思ってるんだから——

「アナエルくん……ほんと?……そうだったら……いいな……」


今まさに拡散していこうとしているセリエの意識へ、たくさんの光のコトバたちの祝福が送られます。そのコトバのひとつひとつは煌めく星となって心を照らして、やがてひとつにつながってまわり始めました。セリエはあかあかとゆらめく灯りの輪に静かに微笑みかけると、そっとその輝きを手にとりました。

「エへ……天使のわだ……うれしい……みんな……アリガト……セリエ……いま……とっても……しあわ……せ……」

胸にあたたかいみんなの気持ちを抱いて、セリエはゆっくりと瞳を閉じました。こぼれ出る小さな吐息……その消え行く呼吸とともに、愛らしい微笑みは過去へと向かう時の中へと失われてゆきました。いっぱいのコトバは今、めくるめく白光の闇の中へ……冷たくその場にに残された、月明かりに幻のように照らされたセリエのもの言わぬ身体を、夜風が悲しい音色を奏でながら撫ですぎてゆきました。


——セリエ?

——セリエ!

——セリエちゃん……


「……あ……熱い……これは……」

深い意識の底から不意に飛び込んで来た滾り。でもその炎は失意と慟哭に満ちていました。虚ろな肉体に渦巻き始める生々しい感情、その嵐は愛するものを失ったことへの深い悲しみで荒れ狂い、今にも身体という殻を突き破って外へと暴れ出てゆきそうな勢いです。脳裏にフラッシュバックする光景、浮かんでは消えてゆく残像の中に自分の生きた時間の欠片を見つけた眠れる魂は、まどろみの首をもたげてその横顔へと語りかけました。

「これは……あの子は……そうだ……なんて言ったか……うん……とても……たいせつなもの……」

——セリエが……セリエがいなくなってしまう!……早く……早く行ってあげないと!——

「……セリエ……ああ、あの天使の子か……いなくなる?……な……なんだ?……こ……この子は……セリエ?」

物憂げな鼓動がひときわ高まり、無意識は暗闇に描き出されたセリエの、がくんと折れ曲がった身動きひとつしない身体を見て激しい憤りを感じました。これは……何で……何でセリエがあいつに……

——セリエは私を……そして貴様を守る為に——

「その声……お前!どうして、どうして俺のところへ来てんだよ!早くセリエに戻れ!ああ……あんなに深々と胸を……」

——それは出来ない……セリエは、貴様の命の火になるように私に命じられた……だから……だから貴様は早く目を覚ませ!——

「何だって……じゃあ……じゃあセリエは今……セリエッ!」

魂がその身体の中を飛びまわる光のコトバを識別した時、、マオは思わず声を上げました。とたんに開ける視界、明るい天井と覗き込むように見ている眩しいシルエット、耳鳴りのように満ちてくる音の波……まだ眠っている鼓膜を叩き起こすような声で打ち鳴らされるその声は、徐々に彼の本来の居場所を指し示します。ぽろぽろとほほに落ちるあたたかい輝き、それが涙だと気づいたとき、マオはその声の主の名を小さな声で呼びました。

「さ……皐月……なのか……俺は……」

「……真桜!……よかった……」

それ以上はもう言葉にならなくて、たまらず胸へとすがりつくサツキ、聞こえてくる鼓動は確かなあたたかさを持って触れたほほへと伝わって来ます。医師たちの安堵を伴った報告と指示の声、表示を始めた心電図の波形は力強く命の旋律を刻んで、それを見たサツキはこれが夢じゃない事をマオに確かめるのでした。

「真桜……私が見えるよね……幽霊なんかじゃないよね……」

「……声が……皐月の声がずっとしてた……冷たい闇の中で……だから俺は、俺でいられた……」

「きっと……きっと、お母さんが助けてくれたんだね……あと、おじいちゃんも……」

「ああ……それから、セリエの魂をずっと守っていたあいつ……!?そうだ!セリエ!セリエが!!」

マオは覚醒の直前に意識の深い所に映し出された光景を思い出してがばっと上体を起こしました。繋がれていた線や管が何本か弾けるようにはずれて、傍らの医師はあわててマオの肩を押さえました。

「おい君!まだまだ絶対安静だ!起きちゃいかん」

「離せ!セリエが……俺の代わりにセリエが……ち……畜生ォ……」

押さえつけられた手を払いのけようと腕を掴んで、でもまだ完全に目覚めきっていない身体は思うように力が入りません。悔しそうに涙を浮かべて、それでもまだ肩を震わせて拘束から逃れようともがくマオ、その姿を見たサツキは何か思い当たったのか、医師との間に割って入ってマオの言葉の続きを尋ねました。

「真桜!セリエちゃんがどうしたの?まだ学校にいるんじゃないの?」

「……あいつ、自分の命を投げ出しやがった……俺の……俺の為に……」

「自分の命って……じゃあ……じゃあセリエちゃんは!?」

今一度力を込めて、ベッドから立ち上がったマオ。ゆらり倒れそうなその身体を、サツキはしっかり支えました。

「どこにいるの?セリエちゃん。私が真桜の足になるよ!」

「君!やめろ!まだ動いちゃ危険だ!」

「このビルの屋上に……頼む、俺をそこまで連れてってくれ……」

「わかったわ!」

「すぐにベッドに戻りなさい!覚醒したとはいえまだ精密検査が終わっていないんだ。いつ意識を喪失してもおかしくない。無茶だ」

知らせを聞いて飛んで来た主治医の制止の声に顔を上げたマオは、その心配そうな表情に少し躊躇しました。けど今、この胸にあたたかく脈打つかけがえのない贈り物……命の鼓動……身を犠牲にして未来を託してくれたセリエの自分への想い……その痛々しいまでの愛おしさに、マオはとてもじっとしてはいられないのでした。セリエにもう一度……たとえその魂が失われていたとしても、もう一度その髪を撫でてあげたい……抱きしめてあげたい……マオは決意したように口元をきっと噛み締め、軽くお辞儀をして主治医に言いました。

「こんなの……セリエの無茶に比べたらかわいいもんですよ……心配しないで、俺は大丈夫です……だから……命の恩人に会いに行かせてください……お別れを……まだ言ってないから……」

「……真桜……」

そう言って医師達の間を通り抜けると、マオはサツキに肩を抱えてもらいながら非常階段の方へと歩いてゆきました。お別れって……この上にセリエちゃんがいるの?命を投げ出したって言ってた、それって……歯を食いしばって、動かない身体を必死に階上へと持ち上げようとするマオの目には、さっきから大粒の涙があふれています。その表情からセリエの運命を悟ったサツキに波のように押し寄せてくる悲しみの感情……そんな……セリエちゃん、真桜を助けるために……神様……残酷だよ……こんな事って……ねえ……でも……でも私よりも、真桜の方が何倍も辛いよね……何倍も悲しいんだよね……

「真桜……しっかり」

ほほを濡らす涙を右手で拭って、サツキはマオの肩をぐっと持ち上げました。


「セリエ?……どうしたの?ねえ……声が聞こえなくなっちゃったよ……」

ベッドに伏していながらも下界のセリエの身を案じていたエリシャの心に届いていた声が、ぷっつりと途切れました。精一杯マオを助けようと奔走していたセリエの心の動きを、光のコトバをとおして応援していたエリシャですが、その気配が完全に消え去ってしまったという事実にエリシャは胸騒ぎを覚えるのでした。傍らで下界を俯瞰していたラファエルもどうやらそれを感じ取ったようで、静かに目を閉じて吐息を漏らしました。

「ラファエル様……セリエに……セリエに何かあったのでしょうか……さっきまであんなに元気だったあの子の声が聞こえなくなってしまいました……」

「ええ……セリエは今、無事にその役目を終えました……」

「役目……って、どういうことでしょうか……」

怪訝そうな顔でラファエルの横顔を見つめるエリシャ、その前に慌てふためいた様子のアナエルが息も絶えだえに現れました。

「はぁ……サリエルの奴、とうとうセリエを……セリエをその手にかけやがった……」

「い……今、何て……」

「……長鎌で胸を貫かれてた……あいつは……セリエはもう……からっぽだった……」

「そ、そんな……ラファエル様!」

アナエルとエリシャの訴えるような眼差し、その焼け付くような情念を感じているのでしょうか、ラファエルはただ静かに手を合わせて、まるで罪を一身に背負った主へと贈られた賛美を思わせるような敬虔な祈りをセリエへと捧げています。何を……今さら何をしてるの?……お祈りしたってセリエはもう……熾天使なんだもの、セリエの身に何が起きていたかくらい知っていたはず……なのに!今まで一度も手を差し伸べる事なく、ただ高い所から事の趨勢を見ていただけのようなラファエルの態度にエリシャはもう我慢できなくて、思わず声を荒立てて言いました。

「ラファエル様……どうして……どうしてセリエを助けてあげなかったのですか!ラファエル様ならあんな……あんな地に堕ちた死の天使からセリエを助け出す事ぐらい……」

「そうだよ!その時は僕も……僕も手伝わせてもらったのに……それで罰を課せられたとしても、甘んじて受ける覚悟くらいある!」

長い髪を風に靡かせて、いつ終わる事もない礼拝を続けるラファエルに浴びせられる二人のむきだしの感情に満ちた言葉、でも、それは思うように行かない事の責任を転嫁しようとしているということ、ラファエルは二人の昂った感情をいさめるように静かに口を開きました。

「いや、我々の争いは……たとえそれが深い怨恨に根ざしたものであっても、もう二度と起こしてはいけないものなのです」

「そんな事言ったって……これじゃセリエが……セリエがかわいそうじゃない!あんなに……あんなに一生懸命に生きてきたのに……」

「確かにサリエルは強大な冥の力を持ってる……だからってこのまま指をくわえて見ているなんて……僕たちが……みんなが力を合わせて立ち向かえば、きっと……」

「きっと……何なのですか?たとえここでサリエルを屠っても、彼の魂から闇が消える事はないのですよ……繰り返される憎しみの連鎖を断ち切らない限りはね……忌み嫌われたその闇は深い絶望と憤りを得て、いつかまた形を伴って現れる事でしょう。その時は今のサリエルとは比べ物にならない位の……そう、ルシェファをも上回る程の闇の冥主となるのです。そうやって行き着く所は虚……命のない、暗く寂しい世界なのです」

「でも!」

まだ納得出来ない面持ちの二人の前で、ラファエルは静かに顔を上げると、両手を拡げて天にかざしました。身体に纏っていた柔らかな翼が解き放たれてゆるやかに広がり、どこからか、無数の光の粉がふりそそいできました。エリシャとアナエルが固唾を飲んで見守る中、それらはやがてラファエルをすっぽりと包み込んで、煌煌と燃え上がりました。

「ラファエル様……な、何を……」

「……熾天使の炎……これが……燃えさかる愛と情熱の証……」


——聖なるかな、聖なるかな、聖なるであることは、主の元に来ることができる——


「……え……こえが……まだ……わたしをよんでるの?……」


——とうとう、あなたの願いがかなうときがやって来たようです……ほんとうに、よかったね——


「……ら……ラファエルさま……」


——耳を澄ましてごらんなさい……ほら、聞こえるでしょう、あなたの願った歌が——


透明になって、もう自分が誰だったのかさえ忘れてしまったセリエに、あのあたたかくて懐かしい、ラファエルの囁きが聞こえてきました。それは崇高で、それでいてとても親しげに記憶を震わせます。びっくりして、きょろきょろし始めた意識はラファエルの気配の向こうに、微かに煌めく小さな星を見つけました。なんだろう……すごくあたたかくて……ふしぎ……とっても……しあわせなきもちになる……

「セリエ!セリエか?大丈夫なのか?」

「このこえ……セリエ?……そう……わたしはセリエだった……あなたは?……」

「待ってて、すぐ、すぐそっちに行くから!」

「……ちかづいてくる……おとこのこ……ま……お?……まお……にーちゃん……」

「セリエ!」

「まおにーちゃん!」

眩い光が通じ合った意識を包み込み、二人の魂は今、ひとつの光のコトバとなって再会しました。今までで一番身近に感じる愛しい声、マオとセリエの間には、もう何の障壁もありません。素直な気持ちとコトバ、二人にはそれだけで十分なのでした。

「まおにーちゃん……いきてるんだね……セリエ、すごくうれしい……マルルー、アリガト……」

「……まだ身体が上手く動かないんだけど……今、そっちへ登っていってる、もう少し……もう少し待っててくれ」

「うん……でも……セリエ、しあわせで、むねがいっぱいになっちゃったの……だから……」

「……セリエ?……待ってくれ!俺は……俺は君にもう一度……」


——まおにーちゃん……まおにーちゃんは、もう、セリエがいなくてもだいじょぶ……ウン……いままでたくさんのポカポカ、ほんとにありがとう……だれよりもあいしてくれたあなたのおもいをだいて、セリエは、いま、天使になります——


一瞬、全てを消し去るような閃光、それを受けて弾け飛ぶ夥しい記憶の鎖、心を繋いでいたはずの輝きは一瞬にして無数の時のカケラとなって飛散して、マオはそれを必死につなぎ止めようと手を伸ばしました。セリエ!どこへ……どこヘ行こうっていうんだ!無軌道に飛翔する光のコトバの群れにまぎれこんでゆく忘れがたい思い出、それを飲み込んだ流れは幾重にも重なる光の輪となって透明なセリエを取り囲みます。重なりあう虹彩が煌めいて七色の放射を放ち、その反射はセリエのまわりに新しい姿を形づくり始めました。翔きをはじめた神々しいまでの聖なる翼……花びらのように広がってゆく潔の翼の真ん中に、マオは淡く輝く人の姿を見るのでした。


「あ……あれは……セリエ……なのか?……」

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