西の水妖・鎮魂歌
『真人、真人、未咲はまだかのう?』
「おやじは少し黙っててね」
『ぺええええええ(真人が冷たいい)ぺええええええ(みさきいいいい)』
泣きぬれて、びったんびったんしている大蛇は、元気だった。元気すぎて困る。
生きの良さ半端ないので、放っておいても大丈夫だと確信した。俺の純情と、かーさんの心配返せ。
そう、今の心配事は。
「わらしさま、宇治の橋姫は?」
(神楽鈴の音色にあまり反応しないのです……。通常の妖ならば、きれいに浄化されているはずですが、やはり京の大妖怪。一筋縄ではいきませぬ)
「わらしさまの謡と、十種の神宝、御神刀、富士の雪妖の妖術、とどめのコマだったのにね」
考え込むわらしさまの横顔に見入ってしまった。まつげが長くて、鼻筋なんかすっとしてて、まさに神の造作。ぷっくりとした唇とか、顎の繊細さなんて……ぶるるる、神様、そうだ、神様なんだから、美しいのも艶やかなのも当たり前なんだよ!
はっとした俺の脳裏に浮かんだのは、この間の古文の授業。
あの時先生は何と言っていた?
「わらしさま、そういえば古文の先生が授業中に『宇治の橋姫の伝説なんかはえらく美しく脚色されてるぞ』って言ってた。嫉妬の鬼、丑の刻参りの鬼のモデルなのに、おかしくない?」
俺がそう呟くと、わらしさまはつぶやいた。
(……嫉妬の鬼というイメージこそ、後世の伝奇によるものなのです。もともとは、水難除けの水神として祀られた、いじらしくも愛い姫であったと聞いております)
「うーん、いじらしい姫君と、嫉妬の鬼に共通点が見えないんだけど」
ものすごく対極にあるよね!
(ぬしさま、あの時代は、神代と妖、紙一重、多くの建造物が建立され、八百万の神が生まれた時代にございます。そして人間はもろい生き物でございました。単なる暗闇ですら怨霊の住むところととらえ怯え、神々の力にすがったのです。神々は誰もそれを望んでなどいなかったのに、そうして始まった悪習の一つが人身御供でございました)
「……うん」
(何人の女人が、何人の童が、日乃本の大地に埋められているのか、もうその数は分かりえませぬ……が、その無念はいかばかりか)
「んじゃあ、あのしゃれこうべが黒いのは……」
(おそらくは橋姫ではなく、人身御供の被害者たちの怨念が折り重なって、ああして見えているのではないかと)
「え、じゃあ……」
(黒い鱗のような汚れこそ、浄化しなければならない怨念の塊であるかと存じます)
「……あの汚れって落とせるの?」
真っ黒で黒々してるじゃん。たわしか?たわしでこするのか、しゃれこうべを?
真っ黒に汚れてシュウシュウいってる骨の一本、一本を? 触ったら俺の手のひらまでも溶けそう。
乗り掛かった舟だから、やるけど。やるけどお!
(あれだけ我らの術を食らったのですから、時間がかかるとは思いますが、そうですね、まよひがへでも、骨を運び入れて……)
『―――ではわれが浄化の手伝いをしようぞ』
「へ?」
渋い男の声が厳かに響いたかと思ったとたん、どんっと幾重もの水が大地を割いて吹きあがった。
何本もの水がもつれ合い絡まって、一つの水流を生み出す。
水の帯はまるで生き物のように、闘い崩れた地面を撫で、ぐるりと渦を巻いて天へ昇り、流線を描いて大地に飛び込み、また天を駆け上っていく。その姿はまるで。
「水竜……」
(なんと素晴らしい御力でございましょう)
俺の傍らに立つわらしさまも、びっくりしたような声を上げていた。
親父、すげえつえー。
呆然と力の本流を見ている俺に、わらしさまが寄り添い囁いてくれた。
(失念しておりました、ぬしさま。餅は餅屋と申しますのに、わたくしも年を取ってしまいましたわ。橋姫はもともと水の守護神にございますれば、水神の穢れは水神で祓えばよろしいのですわ…………(わたくしちゃんと笑っておりますかしら? 気分は血まみれですけど。ええ、見えない刃に胸を貫かれ吹き飛んで倒れ伏しております(←幻想)と……年だなどと口にしてしまうなんて……も、耄碌……いいえいいええ!))
遠目にも水を従えて、涼やかな青の着流し。
頬や首筋に時折あらわれる青い蛇の鱗を、日の光に煌めかせ、渦を巻いてごんごんと音を出す、水の流れに目を細めて、すらりと立つ男。
……さっきまで縄で戒められて、びったんびったん暴れていたのに。
とーさんが、俺の目線に気付いたのか、俺を見て、にっこりとほほ笑んだ。
※※※
≪ああ、あああああ、やっと、やっと……解放、された……≫
柔らかな女の人の声が、した。
水の勢いが弱まると、地面の切れ目から細い木のような腕が伸び、やせ細った骨が俺たちの前に姿を表した。
水浸しのしゃれこうべに張り付いた、ざんばらの黒髪。細身の鬼が身を起こす。
おうおうと慄くような声を上げ、差し込んでくる日の光に手を伸ばす。
着物は古びて、辛うじて身体を隠しているだけだ。
ぽっかりとあいた眼窩の奥に、菜の花のような柔らかい光が灯ってなければ、死人に違いないと誰もが納得するだろう、干からびた死体だ。
その生きているはずのない死体が、日の光を浴びて実に嬉しそうにぐっと腕を伸ばした。
ぱき、ぱきり、と黒くよどんだ汚れが、額から頬から首筋から、身動くたびにはがれて落ちる。
腕をぎこちなく動かせば、二の腕を覆っていた黒い鱗のような瘡蓋がはがれていき、真珠のような輝きの肌が現れた。
一歩を踏み出せば、脚にまとわりついていた黒い鱗のような瘡蓋もはがれて落ちる。
日の光に顔を向け、浴びるように陽光を受け止めれば。
はらはらと黒い汚れが落ちていき、真珠の輝きの肌が現れ―――ぽっかり空いていたしゃれこうべの鼻には肉が戻り、黒々とした眼窩には、閉じられた瞼が。瞼を彩るまつげだって、眉毛だってある。
むき出しの歯並びが丸見えだった口元は、つつましやかな肉付きの唇で隠れている。柔らかな桃色の頬の奥にはおそらく溶け落ちていたはずの舌だって再生されているのだろう。
まるで、泥から掘り起こされ、水洗いしたばかりの骨に、生前を模して肉付けをしていったような変化だった。
「あ、やば!」
慌ててパーカーを脱いで、骨だった人に差し出すが、一向に動く気配がない。
急速に再生されていく肉付きに、あわてて差し出したパーカーを肩にかぶせて、ほっとする。
閉じられていた瞼が、震えながら開かれると黒々とした瞳が、意思を持って輝いた。
そのまなざしは真っすぐに、着流しの美丈夫を見つめていた。
さっきまでの、ほの暗い執着は消えていた。
どこまでも澄み切った、眼差しだった。
≪ありがとう存じます。賀茂の……ようやく、本来の姿を取り戻せました。そしてふかく、お詫び申し上げます。狂骨に狂わされたとはいえ、とても迷惑をかけてしまいました≫
『橋姫の。おなじ京を守る水神同士、迷惑などとは思っておらん。じゃが、おぬし、われに懸想しておったのか? それなら気付かぬうちに傷つけておったやもしれぬ。悪かったのう』
水の匂いに満ちた不思議な空間で黒髪の美女と着流しの美男が顔を見合わせ、お互いに言葉を交わしはじめた。
涼やかな男の言葉に、長い黒髪のたおやかな美女は淡く微笑んだ。
≪寂しさに付け入られてしまったのです。わたくしの背の君は春の盛りを前に根の国へと渡ってしまいましたゆえ、連日戻り橋のたもとで泣いておりましたから……≫
俯いて、悲しそうにつぶやく橋姫の姿に胸を打たれる。
恋人をなくしたところを、狂骨に付け入られたのか。
≪暖かな太陽のような人でした。わたくしのような女に会うために毎日毎日、橋のたもとへ参ってくれて……≫
『ああ、よく二人で宇治川の河川敷を歩いておったな。われも覚えているぞ。そうか、あの男、逝ったのか……102の若さで、根の国へか、それはずいぶんと早い……』
―――いや、それ大往生!
あーでも賀茂川の水神って言ったら、軽く千年紀? なら早いと思うか、なっとく!
≪狂骨にまどわされていたわたくしには、賀茂や、あなたの姿が背の君に見えておりました≫
『なんと、むごい幻覚をみせたものだな狂骨め、もう一度念を入れて浄化しておくか?』
しゃれこうべが出土したあたりを、男が顎で指し示す。
そんな男に、女はフルフルと首を振った。
≪取るに足りない幻覚にございますれば、それに惑わされたわたくしが弱かっただけにございます。力足らずを恥じるばかり。……とはいえ、わたくしにとっては幸せな時間でございました。もちろん、賀茂には悪いことをしてしまいましたが≫
グリングリンに縛られて、あーっな感じの危ない遊びに見えてたけどね!
水神をエロい縛り方で翻弄していた水妖のどこが弱かったというのさ、もー。
すまなそうに謝る女と、それを受け流す男。
オトナだな。オトナ!
『……なんじゃ、これでは未咲の雄姿が見れそうにない』
憮然とした表情で呟いた親父に、家に帰ったらかーさんにチクってやろうと思った。しないけど!
両親の修羅場なんて見たくねーし、聞きたくねー。しかも縛られてびちびちしてんのが親父だもんな、世も末だ。令和になったばっかりなのに。
すると女が真っすぐなまなざしで男を見た。
≪賀茂や、賀茂。人の一生は短いもの……。今回の償いとして、これより百年先まで、京の陣営が司る水の守護をわたくしが担いましょうぞ。この宇治の橋姫にお任せあれ≫
力強く微笑んで、橋姫がそういえば、賀茂川の水神は目を細めた。
『京の水の守護をぬし一人に任せられるわけはないであろう。それぞれがそれぞれの領分をしっかりと治めればよいのだ。水には水の、火には火の、木には木の、大地には大地の守護職が居る』
言い切った男に、女はなおも言葉を重ねた。
≪人の命ははかなきものよ。あっという間に衰え朽ちる。賀茂の妹も駆け抜けるように消えてしまうぞ≫
『わかっておる。われは未咲と約束をしたんじゃ』
≪約束?≫
『橋姫の、ぬしとて願ったことがあろう―――せをはやみ いわにせかるる たきがわの』
≪われてもすえに あわんとぞおもう―――≫
『……そうじゃ。われと未咲は必ずや、来世でも結ばれると約束しておる。この世を生きて来世でも、必ず出会うと約束しておる』
≪賀茂は百年の恋路を重ねていくおつもりか≫
呆然と呟いた橋姫に。
賀茂川の水神は、何物にも恐れぬようなさまでうなずいた。
『われは水。姿かたちを変えて連綿と、この世と次の世を結ぶもの。何度でも生まれ変わる。そのたびに未咲を必ず見つけて縛るつもりじゃ』
あ、親父、ピュアなストーカーで軟禁野郎だった(血反吐)
しかし100年かあ……。かーさんこのあと百年生きろって、無理じゃない? いくら人生百年といってもねえ、と思っていたら、男が目を細め嬉しそうに呟いた。
『そうは言っても橋姫の。とてもありがたい申し出だ。この先百年あれば、未咲を見送った後、真人とその子孫まで、そばで見守れるなあ。まあ、ずっと東の地に居座るつもりはないが、たまの逢瀬なら未咲も許してくれるであろう』
えっ、と顔を上げて、親父を見つめた。
かーさんだけじゃなく、俺と、まだいない俺の子供のことも心配してくれてるのか?
柔らかく微笑む、優し気な横顔に、俺はじわじわと顔に熱が集まるのを感じた。
バカみたいだ。俺には親父なんかいない、かーさんだけなんだって思ってたのにさ。だから、かーさんを助けて生きていくんだってずっと思ってた。
でも、親父の本心を聞けば、離れられない仕事があって(むやみに動けば天変地異)
それでもできる限り俺に会いに来てくれたみたいだし(ホラーか、真夏のお化け屋敷枠)
ちょっとなよってて、かーさん好きすぎなところが難点だけど(粘着系ストーカー性有の蛇系妖←文字にするとヤバすぎ)
ちょっとすると大蛇に変わったり、泣いて暴れてびちびちするけど、それってかーさんが大好きだって言ってるわけで。死ぬまでじゃなくて、来世の人生まで予約済みってのが怖えけどさあ、それがあやかしとの付き合い方なわけで。
あやかしと人の境目ってなんだろう。
そんなことを考えていた俺の背中に、そっと手が添えられた。
はっと顔を上げるとわらしさまの優しい目線に合って、いつの間にか、入っていた力がふっと抜けた。
俺の気持ちに寄り添って、心の動きにこうして合わせてくれて、やさしい微笑を向けてくれる。
彼女も、その立場は違っても、親父と同じあやかしだ。
わらしさまは……俺と百年とは言わないけれど、一緒に同じ時を刻んでいってくれるのかな。
少しだけ、心細くなった俺を、俺は臆病者とは言えない。
※※※
それから俺たちはいったん京都の水の陣を抜け出した。俺にはなじみのまよひがでも、親父と橋姫はきょろきょろと窺っている。
(あとで先の神社へはお礼参りに参りますが、今は皆様気力を振り絞りましたゆえ、まよひがにて、お休みくださいませ。湯の準備もしてございます。さあ、どうぞ)
わらしさまの声に合わせたように、まよひがの襖が手前から奥へ向けて順々に開いていった。
『……ほう。これが東のまよひがか』
「とーさん、男風呂はこっちだから」
『真人真人、一緒に入ろうぞ!』
きゃぴっと大蛇が誘ってきた。
「だが断る『真人おお』うるさいよ、時雨」
しばらくの間、どんよりとした雨雲を背負った大蛇の姿が、まよひがの玄関で見られたそうだ。
ざっと洗ってさっぱりしたので親父と交代。髪をふきふき広間に戻ると、女性陣はそろってお湯を頂いたのか、みんなにこにこ笑顔だ。
わらしさまはと探すと、案の定、厨で采配を振るっていた。小豆洗いと河童に枕返しのいつもの面々がくるくると働いている。
「わらしさま、何か手伝うよ」
(ぬしさま、ありがとう存じます)
「これ運ぼうか? それとも何か刻む?」
(こちらを運んでいただければ、ありがたく)
差し出された木の盆を片手でひょいと持ち上げた。
人数分の焼き皿に乗っているのはこんがりと焼けた……。
「お、鮎じゃん」
(ご尊父様が、宇治川の上流の香り苔のみエサとして育つ若鮎を差し入れてくださいまして。炭火で炙った極上物です)
「ふーん。うまそうだね」
焼き鮎に期待しながら、わらしさまのお盆に乗った味噌田楽を見下ろす。
わらしさまのサイズは元に戻っていた。
(大きな賀茂茄子は食べやすく田楽にいたしました。ぬしさまは賀茂茄子と牛肉とトマトとチーズでグラタン風にいたしましょうか?)
「どっちも美味しそうだね」
(もちろんどちらもご賞味くださいませ)
ふふふと笑いあいながら皿を運んで、朱塗りのお膳にセットしていく。
(米は越後のコシヒカリを土鍋で、味噌は南会津の目黒麹店の味噌が手に入りましたので、それから京の丹波で手に入れた粒よりの大納言で作った栗羊羹も準備してございます)
「わらしさまの栗羊羹だいすき! 栗がむっちゃでかくて食べ応えあって、あんまり甘ったるくなくて俺にちょうどいいんだ!」
((それはもちろん、好みを吟味しておりますから当たり前なのですよ♪)お茶はもちろん、宇治抹茶を。氷水で煎れてありますので滋味深く甘い口当たりになっております)
「わらしさま、完璧」
感激して震えるくらい、完璧な食卓だ。
「あ、かーさん呼ばなきゃ……仕事終わったかなあ?」
そう呟いた俺に。
≪わたくしにも、背の君との間に、こうして子があれば、かの君が根の国へ渡った悲しみも少しは癒えたでしょうか≫
橋姫さんが袖で顔を隠すようにして、小さくつぶやいた。そうしておけば狂骨に囚われることもなかったかもしれませんねと、自分を笑った。
俺には、彼女の嘆きに答えることはできなかった。
≪わたくしは賀茂がうらやましい。愛する者との間に子を育むことができたのですから。ですが賀茂。こんなにも深い喪失感を覚えても、わたくし、背の君と会わねば良かったとは思えないのです。何度考えても背の君に会えてよかったと思うのです。
出会って、惚れて、忘れようとして、無駄で。人の世に交じって笑って、愛し合って、しあわせで泣いて。失って、躯に取りすがって、みっともなく泣きわめく。川の水どころか周囲にまで水を溢れさせるほど正気を失って、わたくしの領分すら忘れ果て、あげくに愚かにも狂骨に囚われて、それでもなお。賀茂や、賀茂。わたくし、あの方と過ごした時間が間違いだったとは思えない……≫
胸の内に渦巻いていたであろう感情のすべてを、投げ出すように吐露すると、橋姫は己の身体をかき抱いた。
嘆く女を前にして、おろおろするのは俺がこどもだからかな?
オトナの余裕をもってすれば、嘆く女の人を慰めるうまい言葉のひとつも思い浮かぶのかな?
―――――うかばねーよ! ちょっと、助けてよ、オトナの皆さん!
おろおろしながら周りを見れば。
いつの間にか朱塗りの膳の前に堂々と座って、盃で酒を呑んでいた男が、片眉を器用に上げて橋姫を見た。青い着流しの蛇の性持つ、俺の親父。助けてとーさん!と目で頼る。
『うつけが。間違いであるはずなかろう。だが、洪水に見舞われるのはもうこりごりぞ。恋人を思って泣くのを我慢するから、溢れさせるのだ。のう、橋姫の。骨は貰えなんだか?』
良いオトナはあっさりとそんなハードなことを聞いてくる。
ほかに頼りになる人、もといあやかしは居ないのか!
≪普通の人間にはわたくしの姿は見えませぬゆえ。愛し君の骨ではなく、狂骨に囚われるなど、何たる不覚と笑ってくだされ≫
『あっはっはー、ばかねえ、笑わないよっ!』
富士の雪妖・嗚雪は酒が入って気が大きくなったのか、笑わないと言ったそばから大爆笑してる。
ダメじゃねーか……。
『だいたい、あやかしが妖らしく祟ったからって別に悪くないじゃーん! 祟り神・上等!』
ウエーイと杯を高く掲げる始末だ。頭痛い。
「よし、ちょっと待て」
『あ、お酒なくなっちゃった―! わらしちゃーん!』
薄い着物の胸を押し上げる見事な隆起にドギマギする。つややかな長い髪を片手で払いのけると、きれいなガラスのとっくりをぶんぶん振り回した。酒乱か?知ってたけどお!
「嗚雪さんってば!」
『―――じゃあさあ、橋姫ちゃん、あたしと一緒に彼氏の来世を待とう?』
「嗚雪さん?」
≪雪妖の?≫
雪女の言葉に時間が止まったように感じた。
橋姫が顔を上げて嗚雪を見た。
俺はというと柔らかいところに触らないよう気を付けて、空のとっくりを奪っていた。
すると、ふわりと俺の両目が隠される。
そっと手に持っていたガラスのとっくりを回収される。わらしさまだ。わらしさまの着物にいつも焚きしめている香の香りに包まれて、ほっと力を抜いた。
あれ、俺なんで目隠しされてんの?
(乳女もたまにはいいことを言うものですね(乳を隠せこの破廉恥雪女)。嘆く暇があったなら、さっさと用意した神饌をめしあがりなされ、橋姫の。力をつけねば闇にまた付け入られますぞ。これなる雪妖の言う通り、思い人の来世を待つのもあやかしの特権、そうであろう?)
≪よろしいのでしょうか≫
『ふん。執着すら、われら水妖にとっては糧よ』
『おー、真人のとーさんさまも言うねえ! まったくもってその通り!さ、のんじゃえのんじゃえ』
(ご尊父様もこう仰っていらっしゃる。京を守る水神が耄碌しては、東の妖も困ってしまいますぞ……)
京を代表する妖怪と、東の地を代表する妖怪たちの酒宴は続いた。
『真人ー、呑んでいるか―』
「俺未成年だから、注がないで。お茶を頂いてるよ」
『くうううう、はやく息子と酒を酌み交わしたい―』
「あーはいはい」
親父に絡まれ、橋姫は泣き上戸で、雪女は酒乱で乳に埋まって、わらしさまに引っぺがされ、時雨がこっそり酒を呑もうとしてコマにたしなめられて。
時折わらしさまの香りに包まれ安心する。
この先もずっと手放してはいけないものだと、知っている。
『ぺええええええ(未咲いいいいい)』
「かーさん、おそいねー」
『ねえねえ、いっそ、未咲のまんしょんでみんなで一緒に暮らそうよー』
そうさ、神代の昔も、AIが進化しまくって、機械に人間が負けそうになってる現代も。
恋する男も女も、人間も妖怪だってみんなみんな。
キラキラしてて、いじらしく、かわいらしい存在なのさ。
だから。
「わらしさま」
と声をかけて真っすぐに見つめると。
(はい、なんでしょうか、ぬしさま)
真っすぐに見つめ返してくれるまなざし。
「親父みたいに千年は無理かもしれないけど、俺もどうやら半分妖怪みたいだし、百年はきっと一緒の時を過ごせるかなと思うんだ。わらしさま、俺と一緒にこれからの時を生きてくれませんか?」
(よ ろ こ ん で)
そういって花のように笑ってくれた、わらしさまの姿を、俺はきっとずっと忘れないと思うんだ。
※※※
「あ、せっかく神様から授かった丹塗りの矢、結局出番なかったね。まよひがの床の間にでも飾ろうか?」
『なにいっ! 丹塗りの矢じゃとおっ! 真人、父によこしなさい。とてもとても大事な神楽舞に必要なのじゃあ!』
「え、う、うん。大事に扱ってくれよ、大切な頂き物なんだから」
懐にしまったまま、出番のなかった丹塗りの矢が、親父の手に渡った。
わらしさまが、少し慌てたように手を伸ばしたが、親父のやつが素早くたもとにしまいこんだ。
「すごく神聖なものだし、どう使うのかわかんないけど、使い終わったら返してくれよ?」
『わかっておるー! それでは、橋姫の! 今宵よりひと月! 京の守りを頼む!』
≪承ってございます。賀茂の、あんまり無茶をさせてはいけませぬよ≫
『あいわかったあ!』
身をひるがえすと、着流しの美丈夫も、大蛇の姿もない。
ちょっとあの酔っ払いはどこに消えた? ときょろきょろしていた俺に、わらしさまがそっと労わるようなまなざしをくれた。
(地下水脈をたどってかーさんさまのところへむかったようですね(寝屋に引きずり込まれて抱きつぶされますなーうらやましいやら、くやしいやら、さーきーをーこーさーれーたー!))
「なんだろ、丹塗りの矢ってそんなにすごい神器だったの? まあ、でもそれなら、橋姫さんに使わなくてよかったね。正気に戻ってくれたし」
(ほほほほ(使わせてたまるものですか。あれを使って男子を孕むのはこのわたくし。ぬしさまのお子を身ごもるのはこの童神なのですからあ!))
にこにこ笑うわらしさまに、ほんわりと微笑み返す。
まさか、にこにこしているわらしさまに、この後、そう遠くない未来、ぬしさまに弟ができますよと告げられるとは、俺もまだわからなかった。
丹塗りの矢とは最強の、一発必中の、子宝の矢である。
未咲いいいいい!
ぎゃーーーーー!
大蛇にまかれてぐるんぐるん。




