祈りの届かぬ夜
思考より先に、体が動いたーー。
地面を蹴り、咄嗟に横に飛んだ。
次の瞬間、
さっきまで立っていた場所を刃が通り過ぎた。
大きな音と共に地面がえぐれ、刃が突き刺さる。
速い......。
見えてからじゃ間に合わん。
蜘蛛.......?
いや、ちゃう。あんな見た目やない。
それにしても、デカすぎる。
とにかく、二人の家から遠ざけんと!
私は距離を取るために、後退した。
そいつはゆっくりと屋根の上から地面に降り、
重さを感じさせない動きで、
静かにこちらへ歩いてくる。
音がしないーー。
脚が、地面に触れているはずなのに、
聞こえるはずの足音が、一切ない。
巨体を支える複数の鋭利な脚。
その尖った脚は、歩みに重さを感じさせない。
二撃目ーー。
私は体をひねり、かろうじてかわした。
肩口を、風が掠める。
遅れて、焼けるような痛み。
くそ、斬れてる......。
浅い。
まだ動ける。
呼吸を整えようとした次の瞬間、
そいつが突然跳ねた。
ーー上や!
私は反射的に転がる。
さっきまでいた場所に、刃が突き立った。
間髪入れず、
そいつは即座にこちらへ振り向いた。
あかん。
全部見えてる。
私は立ち上がり、走った。
外の様子の異様さに気づき、
何人かの村人が扉を開け、家から飛び出した。
「な、何してるんや!出てきたらあかん!」
私の言葉に、一人の女性が大声で答えた。
「狼煙を上げないと!兵に知らせを!」
「あかん!私が村から出す!」
村人たちはババアの言葉に耳を向けず、
急いで準備に取り掛かった。
その瞬間。
そいつが、止まった。
刃のような脚が、中途半端な位置で静止する。
ゆっくりと、その頭が動く。
一人。
また一人。
外に出てきた村人たちへと、視線が流れる。
頼む、誰も動くな......。
時間が、引き延ばされたみたいに、
ゆっくりと過ぎる。
そしてーー
そいつの目が、またもババアへ向けられた。
そいつは、私だけを狙っている。
胸の奥が、静かに冷える。
なぜかは、わからない。
だが、
他ではない。
私だ。
そいつの脚が、わずかに沈む。
私は歯を食いしばり、滑り込んだ。
逃げるんじゃない。
内へーー。
刃の軌道の、内側へ滑り込む。
直後。
さっきまでいた場所を、刃が貫いた。
地面が裂ける。
私は腰からナイフを素早く引き抜き、
そいつの柔らかい皮膚へと突き刺した。
そいつの脚が急激に縮み、鳴き声のような摩擦音が響く。
次の瞬間、そいつが跳ねた。
私から距離を取るようにして、
別の場所へと跳んだ。
......やば!
ナイフが、抜けていない。
跳ねた勢いで、手から離れた。
距離は開いた。
だが、終わっていない。
そいつは動きを止めない。
刺さったナイフごと、
ゆっくりと体勢を立て直している。
だが、
効いてる......。
やっぱりそうや。
あいつは多分、異獣ーー。
でも、ただ“デカなっただけ”や。
あいつ自身は、異獣やなかったらそんな強ない。
魔法は使われへん。
ならーー。
取り返す。
私は地面を蹴った。
まっすぐじゃない。
弧を描くように、回り込む。
視線をずらす。
読ませない。
そいつの脚が、わずかに揺れる。
私は一瞬だけ速度を落とした。
そのまま、逆へ踏み込む。
刃の軌道を、外す。
すぐ横を脚が通り過ぎた。
今や!
私は低く潜り込み、
刺さったナイフへと手を伸ばす。
届く......!
だが、そいつの目がババアを捉えた。
別の脚が振り下ろされる。
私は急いでナイフを掴んだ。
引き抜くと同時に、
体を横へ投げ出す。
地面が裂ける音。
私は勢いのまま転がり、距離を取った。
村人たちはようやく狼煙を上げ、私に叫んだ。
やっとか......。
「家おってくれ!たのむ!!!」
村人たちへ叫び返し、そいつに目を向けた。
呼吸が荒い。
兵を待っている余裕はない。
ナイフは手の中にある。
でも、これじゃ足りん。
こうなったらーー。
私は息を整えながら、わざと大きく体勢を崩した。
足をもつれさせる。
呼吸を荒くする。
“弱ってるふり“や。
そいつの目が、私を見つめる。
見ている。
測っている。
ならーー乗れ。
私はナイフを、わざと落とした。
乾いた音が、荒野の夜に響く。
一瞬だけ、
そいつの視線が、そこへ落ちる。
今や。
村の中央。
石組み。
深さもある。
落ちれば、終わりや。
私は井戸の方向へ向かった。
全力やない。
追える速度で。
背後から、音はない。
だが、確実に気配はある。
誘導できてる。
私はさらに速度を落とした。
ギリギリで、間に合う距離を残す。
そいつの気配が、迫る。
ーー来る!
私は井戸の縁を蹴り、そのまま横へ飛んだ。
一瞬遅れてそいつの脚が、井戸の縁をえぐる。
だがーー、
止まらない。
勢いが、そのまま前へ流れる。
巨体が、傾く。
脚が空を切る。
支えが、ない。
そいつは井戸の中へ急速に落下した。
着水音が、遅れて響いた。
井戸の中から軋むような音が漏れる。
私は、地面に倒れ込んだまま、
息を吐いた。
終わったか......?
私は立ち上がり、井戸を覗き込んだ。
暗い。深くて何も見えない。
ただ、何も音が聞こえない。
......沈んだか。
私は地面に腰を落とし、座り込んだ。
「おばあちゃん!!!」
エマが、私のもとへ走ってきた。
遅れてアンが包丁を手に、こちらへ歩み寄る。
「よかった、無事やったか。」
私はエマの頭を撫でた。
「無事?......怪我してるじゃない!」
アンは私の肩の血に気づくと、顔をこわばらせた。
「大丈夫や。こんなん慣れてる。」
私はアンに言葉を返し、立ち上がる。
「それより、まだ安全やない。
たぶん、溺れたとは思うけど。」
「あなた......何者なの?」
アンの問いに、私は戸惑った。
言葉に詰まる。
答えられない。
自分でも、何者かわかっていないのだから。
その時だったーー。
井戸の中から、何かが叩きつけられる音。
刃のような脚が、井戸の縁へ突き刺さった。
「きゃあ!」
エマが腰を落とし、叫び声を上げる。
「逃げろ!!!」
私は急いで立ち上がり、井戸の方向へと振り返った。
そいつは井戸から這い出て、
水を撒き散らしながら跳ねるように地面へ落ちた。
なんでや、またやらなあかんのか。
ナイフは遠い。今は逃げることしかできない。
アンは急いでエマの手を掴むと、
家の方向へ走り出した。
「エマ!」
エマは足がもつれ、地面に叩きつけられる。
「伏せろ!!!」
私は叫んだ。
そいつの脚が刈り取るように空を切る。
次の瞬間、別の脚が上から振り下ろされた。
やばい、間に合わん!!!
私は反射的に手を向け、詠唱した。
「スキョルダル(保護せよ)!」
その瞬間、
そいつの刃が勢いよく弾かれた。
えっ......?
出た。
自分でも魔法を出そうとしたつもりはない。
いや、出せるはずもないーー。
そんなことは最初から分かっていた。
ここは蒼晶の範囲外。
私には、魔晶石も、無いーー。
ーーー
「サチコ、魔法は使うな。」
ヴァリエスが真剣な目で、私を見た。
「わかってるよ。
そもそも魔晶石も持ってないんやから、
使えんて。」
私は軽く肩をすくめる。
だが、ヴァリエスは表情を崩さなかった。
「それと、ドワーフについてだが。」
「“ブロガル”やろ。
その人以外には、正体は隠さなあかん。」
ヴァリエスは頷くと、ナイフを取り出した。
「なんや?これ。」
「持っておくといい。あくまで護身用だ。」
ヴァリエスは私の帯にナイフを差し込んだ。
「何もないよりはマシだろうからな。」
「ありがとう。なんの役に立つんかわからんけど。」
私の返しに、ヴァリエスは少し口元を緩めた。
「安心しろ、レンドフェル北には魔獣はいない。」
「やったら尚更、いらんくない?」
「......まさか、
魔獣のためにナイフを渡したと思ってるのか?」
ヴァリエスは眉を上げ、呆れた顔で私を見つめた。
「なんやその顔!......まあ一応持っとくわ。」
私はナイフをしっかりと帯に差し直した。
「サチコ。」
「ん?」
「状況は未知だ。」
「わかってるよ、そんなん。」
「絶対に魔法は使うなーー。」
その言葉だけが、
妙に重く残った。
ーーー
「ロガル(燃えよ)!」
私は続け様に、火の魔法をそいつへと放った。
巨体に炎がまとわりつき、
脚を縮ませながら摩擦音が鳴り響く。
「アンさん!エマを連れて走れ!」
アンは地面に尻をつき、
恐怖で立ち上がれないでいる。
......速攻で仕留めんと。
「ヴィンドラ(裂けよ)!」
厄介な脚を切断すべく、魔法を放った。
刃のように分厚い脚は、
魔法をものもともしない。
これじゃ無理か。
続け様に別の脚が勢いよく何度も振り下ろされる。
即座にシールドを張り、
攻撃が当たらないように私はあえて二人に近寄った。
背後からエマとアンの悲鳴が聞こえる。
火をまとったまま、
そいつは何度も攻撃を放ってくる。
衝撃が、連続で叩きつけられる。
腕が痺れる。
シールド越しでも、重い。
......しゃあない。
一か八かや、成功してくれ!
私は隙を見てシールドを解除し、
両手の拳を一気に握りしめた。
「スプレンガル(爆ぜよ)!」
詠唱の後、
そいつの身体の内部から火が膨らみ、歪む。
頼む、最小限で......!
私は急いでシールドを張り直した。
次の瞬間、
大きな音と共に弾け、消し飛んだ。
井戸が壊れ、砕けた破片がいくつも飛び散る。
やがて、
すべてが静まった。
そいつはもう、形を保っていない。
消し炭になった残骸は風に流れ、
夜の荒野へと静かに消え去った。
終わった、か。
私はその場に立ち尽くしたまま、
自分の手を見つめた。
なんでや、なんで魔法が使えた。
......複数の馬の蹄音が聞こえる。
ノルスト兵や。
来るんが遅すぎる。
私は振り返って、腰を落とした。
「ごめん、二人とも。怖い思いさせたな。」
エマが、飛びつくように私に抱きついた。
「エマちゃん。」
小さな身体が、震えている。
「おばあちゃん......ありがとう。」
エマは涙で目を腫らしながら、私の顔を見つめた。
「怖かったよな、怪我してへんか?」
私はエマの頭を撫でた。
エマは小さく首を振った。
「エマ。」
アンが顔を白くしながら、振り絞るような声で娘に声をかけた。
「アンさん、大丈夫?」
アンは私の問いに答えず、唇を何度も震わせた。
「動くな!!!」
突然の怒号。
気配が、一気に増える。
気づけば、
周囲をノルスト兵が取り囲んでいた。
剣先が、一斉にこちらへ向けられる。
......くそ、さすがに見られてたか。
「おばあちゃん......?」
エマが、怖がった様子で私を見つめる。
私の服を、小さな手が強く掴む。
「大丈夫や。」
できるだけ、いつも通りの声で言う。
私はゆっくりと両手を上げた。
「ごめんね、おばあちゃんもう行くわ。」
「エマ!!!」
アンの声が、鋭く響いた。
包丁を握りしめ、こちらへ向ける。
「そいつから離れなさい!!!」
私は、動かなかった。
アンの目が、こちらを射抜く。
アンから初めて向けられた、憎しみの表情。
憎悪に染まったその顔は、まるで人が違った。
その手にある包丁。
さっきまで、
“私を助けるために”握られていたものだ。
それが今、
まっすぐ私へと向けられている。
言葉が、出てこない。
「エマ!こっちに来なさい!!」
アンが叫ぶ。
エマは、私に抱きついたまま、
私とアンを、交互に見た。
「......ママ?」
声が、震えている。
「ママの言う通りや。」
できるだけ、いつも通りに声を出した。
「行きなさい。」
エマの手が、ゆっくりと離れる。
その温もりが、消えた。
「両手を後ろに回せ!」
ノルスト兵が怒号と共に私を押し倒す。
背中に、重く固い膝が落ちる。
腕を引かれ、土に顔が押しつけられる。
冷たい土の上で、
エマのぬくもりだけが残った。




