52.転送陣
2021.7.16 イシュタルの呼び方を修正しました。
ミラの目の前を歩くのは、中背のグレイの髪、壮年の理知的な容貌の男性。静かな表情でミラ達を目的地まで案内しているのは、魔術局の長たるビアンキだ。
(この人が……)
ミラはそっと、その相貌を斜め後ろから仰ぎ見た。
イシュタルの言によると、親子ほど年の差のあるこの落ち着いた男性が、少年である彼に関係を迫ったのだと言う。その抑えきれない情欲を納めるために、イシュタルはビアンキの生殖機能を停止させた……らしい。
二重の意味で、彼女の胸は信じられ無い気持ちでいっぱいだった。
先ずこの魔術局の長である立派な男性の、その男性機能が失われていると言うこと。
それから目の前を歩く穏やかな相貌の気品漂う紳士が、可憐な美少女の顔をしたこの少年に、その威厳を金繰り捨てて迫った……などと言う世迷い事について。
正確に言えばイシュタルは『少年』とは言えないかもしれない。
そう、果たして精霊に性別はあるのだろうか? あるとしたら……キュイにも性別があったのだろうか。……などと、ついでに益体も無い事を考えてしまう。
「どうぞ、こちらです」
ビアンキがミラ達を招き入れたのは、白い空間だった。
ここは、魔術局のある塔のどこかにある、窓のない六つの白い壁に囲まれた部屋だ。その重要性から、一部の者しかその正確な位置を把握していないのだと言う。
部屋の大きさは、ちょうどミラが通っている女学院の教室くらいだろうか。壁に囲まれた白いツルリとした床は正六角形に縁どられており、その中心に複雑な魔法陣が刻まれている。
「イシュタル、他に必要なものはないか? 何でも用意するから言いなさい」
イシュタルに向けられたビアンキの目じりが、途端に柔和に緩む。
「十分だよ、ビアンキ。有難う」
成人前の少年の容貌をしたイシュタルが簡素な礼を言うと、魔術局では一番偉い人間の筈の、大人であるビアンキが―――ブワワと頬を染めた。
ミラは思わず、スッと目を背ける。
見てはいけないものを、見てしまったような気がしたからだ。
「殿下も、よろしいでしょうか?」
「ああ」
そもそも尋ねる順序も、おかしいと思う。
王族に尋ねる前に、王族に従っている国家魔術師の少年の意向を尋ねるなんて……とミラは思った。
この様子を見れば、ひょっとしてビアンキはイシュタルの素性を知っているのではないか、という疑念が湧くが、エドガーやイシュタルによると、その心配はないらしい。ただ、魔力の大きさや魔法を扱う技術を最優先する国家魔術師は、元々上下関係に疎い者が多いようだ。国家魔術師に変り者が多い、という噂を図らずも今、ミラは体感している所である。
この白い部屋の床に描かれているのは、転送陣である。
転送魔術は高位の魔術師にしか扱えない、難しい魔法陣を必要とする。そして更に、魔力の消費が大きい。
魔術局には、魔力をたくさん貯める事が出来る魔力庫があるそうだ。そこには容量の大きい魔石が保管されており、国家魔術師達が随時魔力を充填しているらしい。この蓄積した魔力を使って、転送陣を作動させるのだそうだ。
イクス国の要所には魔術局の支部が配置されており、転送陣はそれぞれの支部内に設置されている。有事の際はこれを使って、王都から軍隊や魔術師を派遣する事になっているらしい。これは一般には知らされない機密事項であり、今回初めてミラは転送陣の存在を知った。
ミラとイシュタル、それからエドガーの三人は、これからミュリエル妃の祖国へ向かう事になっている。
まず王都から国境近くの領地に転移陣を使い移動し、国境にある関所を通り隣国に入国する。街道を抜け、その先にあるミュリエル妃の祖国、そしてイシュタルの故郷であるユリハルシアを目指すのだ。国内の移動については転送陣を使う事で、大幅に日程を圧縮することができる。この案件に出来る限り早く対応するための特別措置だ。軍人でも、国家魔術師でも王族でもないミラは、本来転送陣を使用することの出来ないのだ。
今回はお忍びの為、エドガーの身分を隠して入国する。しかし身分証も出国証明も、勿論イクス国が発行した本物だ。万が一にでも露見する心配はない。念のため、ミラとイシュタルにも同様に、別名の証明書が付与されている。
現在国交を持っている隣国セスト共和国は、水面下で虎視眈々と国境への侵攻を狙う油断できない相手だった。このためかつて牽制の目的でミュリエル妃は、セスト共和国の背後に位置するユリハルシアから同盟の証として、イクス国王フェリクスに嫁いで来たのである。
こうして今回王子や彼に近しい者が入国すると知らせるのは得策ではない、と判断されたのだった。
ここで一旦時を巻き戻し、何故ミラ達が魔術局に来るに至ったのかを振り返ることとする―――
ミラとマルメロ伯爵に説得されたイシュタルは、二人と一緒にカルロ国王に謁見した。イシュタルのエネルギーが尽きかけている、という事実を伝えるためだ。
カルロ国王は驚き、何とかイシュタルの寿命を延ばせないかと尋ねた。すると、手立てはないと無気力に突っぱねると思われたイシュタルが、こう言ったのだった。
『祖国ユリハルシアに戻り、精霊の森に行けば寿命を延ばす事が出来る』と。
カルロ国王はイシュタルに護衛(と言いつつ監視役)を付ける事を提案した。尚且つ隣国を通過する際危険を伴うため、ミラはイクス国に(おそらく人質として)留まるように提案される。
キュイが心配なミラはイシュタルと離れがたく思っていたが、複雑な状況に考えが纏まらない。加えて王都と領地以外出た事のない箱入りであるから、その提案を受け入れるべきかと覚悟していた―――が。
しかし、イシュタルがこれを突っぱねる。
この旅にはミラが必要である、そして自分はミラの傍を離れる訳にはいかないと主張したのだ。その上自分の身とミラの身は守れるため、護衛は必要ないとまで言いだした。そもそもミュリエルの血縁ではない人間を伴い森に近づくことは、禁忌であるとも言う。
これにはカルロ国王も慌てたが、マルメロ伯爵も異を唱えた。
イシュタル一人だけの護りでは、不慮の事故に対応しきれるか不安であるし、何より未婚の令嬢と少年を二人きりで旅をさせるなんて以ての外だった。
……実のところイシュタルは長い時間を生きている精霊で、人間同様に性別を考える必要はないかもしれない。が、彼は世間的には男性として周知されている。ミラの外聞を考えれば、誰かに見とがめられれば十分不名誉な噂を立てられかねない。
そこでエドガーが、この旅に随行する事になった。エドガー自ら、志願したのだ。彼は護衛としても、自らの身を護る技量も十分であるし、何よりミュリエルの直系の孫の一人である。
マルメロ伯爵はこれも渋ったが、万が一エドガー王子がミラに無体な真似を働こうとするならばイシュタルは容赦しないだろう、という国王の言で頷かざるを得なかった。勿論エドガーは、そんな真似は絶対しない! と誓ったが、これまでの素行が素行だけに、周囲はすんなりそれを信じる訳には行かなかったのである。
イシュタルも、国王の代替え案にしぶしぶ頷いた。長く人間として生活する中で、未婚の令嬢の体裁について、一定の理解はあるらしい。
ミラはエドガーが帯同すると聞いて、ホッと胸をなでおろした。
人間の常識に疎いイシュタルと、世間知らずで箱入りの自分の二人旅は非常に不安であったからだ。
お忍びであちらこちら出入りしている放蕩で知られているエドガーであるが、そもそもそれは世の中を知っていて、コミュニケーション能力が高くなければ出来ないことだろうと思われた。少年の頃から所属している軍の訓練や遠征では何度も野宿も経験していると言うし、王子として外交で隣国に出入りした事もあるようだ。つまり、彼は圧倒的に旅慣れている。
父親であるマルメロ伯爵のように、エドガーに不埒な真似をされないか、という事は割と心配していない。今の彼は恋の魔法でミラの意に沿わない事は出来ない状態だし、それが旅の途中で解けたとしても、魔法が解けた後のエドガーは自分を歯牙にも掛けないだろうと考えているからだ。
加えてこれまでずっと接してきた印象では、基本的にエドガーは紳士で、嫌がる女性を無理矢理……と言うことはしないような気がした。それにカルロ国王の言う通り、最終的には何者からもイシュタルが自分を護ってくれると信じてもいる。
ただエドガーと連れ立って進むとなると、見知った相手と顔を合わせて身分がバレないか、ということが唯一心配事である。エドガーによると、王子として外交をしている時はごく限られた上層部の人間としか顔を合わせておらず、尚且つぴっちりと正装した姿でしか人前に出ていない。だから簡易な旅装で身バレする危険はほとんどない、との事だった。
翌日には旅装を整え、三人は転送陣ある魔術局にやってきた。
魔術局本部は、王宮の中にある一際高い塔のような建物だった。ここに入るには機密事項を護る為に、塔に入る前にいくつかの障壁を潜らなければならないらしい。何種類かのキーとして承認魔法を事前に受ける必要があるが、それらの手続きは全てイシュタルがしてくれた。この塔の創立時から関わるイシュタルにとっては、ここは自分の庭のようなものであるらしい。
そこでは魔術局長であるビアンキ自ら、三人を転送陣へ案内してくれたのだった。これが本来の担当なのか、はたまたイシュタルに対する特別扱いなのかは分からないが……そのあたりは敢えて突っ込まないようにするミラであった。
「では転送陣の上に、お上がりください。本来なら、私もご一緒したい所ですが……」
「ビアンキ、何かあったら知らせるから」
イシュタルがそう言うと、ビアンキは再び頬を染めて頷いた。
「……承知した。必要な事があれば、すぐ対応するので知らせるように」
二人の遣り取りに軽くツッコミを入れたい衝動に駆られる。が魔術局のトップなんて、本来ミラが目通りするのも難しい地位の人間だ。この場はグッと堪えて、詳しい二人の関係性については、旅の途中で改めてイシュタルに尋ねようと自分を宥める。
男性機能を奪われたと言うビアンキは、ひょっとしてその事を酷く恨んでいるのではないか、と彼女は心配していたのだ。だがまるで秘宝の玉を愛でるように―――イシュタルに対して、ビアンキはウットリとした視線を向けている。ミラの目には、彼がまるでボールを投げてくれるのを待つ忠犬のように、何か言いつけてくれないかとイシュタルの周りをウロウロしているように見えたのだった。
エドガーの方はこの二人の遣り取りに慣れているのか、特にそれに言及する事もなくサッサと魔法陣の中に入る。勿論その際、ミラを優しくエスコートする事も忘れない。まだイシュタルの掛けた恋の魔法は……十分有効であるようだ。
荷物を持ち、三人で魔法陣の真ん中に立つ。
ビアンキが魔法陣を発動させる呪文を暗誦しようと手を上げた所で、扉の戸を強く叩く音がした。
「ビアンキ局長、火急の案件です! 開けてください!!」
ビアンキは一旦手を下ろしたが、その声の主に気づき眉を潜めた。改めて手を上げ、扉の向こうを無視して暗誦を始めようとする。
「局長! イシュタルに合わせて下さい! でないと、この扉を破壊します!!」
先ほどまで穏やかな態度を崩さなかったビアンキが、明らかに不快気に息を吐いた。
しかし次の瞬間スッと居住まいを正すと、こちらを向いて胸に手を当て慇懃に頭を下げる。
「彼女に扉を破壊する事なぞ不可能です。が、攻撃に対して防御魔法を発動すると……いくばくか魔力庫の魔力をロスする事になります。まずは、説得して追い払います。不愉快な物をお見せするかもしれませんが、少々お待ちください」
ビアンキが扉を開けると、国家魔術師の黒いローブを羽織った女性が飛び込んできた。その階級がかなり上である証拠に、裾や肩に銀糸の文様が施されている。
「なんの用だ。早急に言え、そして疾く去れ」
「イシュタル!」
こちらに駆け寄ろうとした女性の肩を、ビアンキが抑える。
一見ほっそりして見えるのに、片手で抑えられた彼女の体はピクリとも動かなくなった。もしかすると、腕力ではなく魔力で制御しているのかもしれない。
「どこへ、行くつもりなの?」
「キワノ、お前には関係ない。エドガー王子に関わる機密案件だ」
イシュタルではなく、ビアンキがそう答えた。本当はイシュタルがミラを伴う旅にエドガーが護衛としてついて行くのだが、ひょっとするとビアンキはそのように説明を受けているのかもしれない。どちらにしろ、カルロ国王としては公にしたくない案件に違いない。そしてイシュタルの出立自体、本来はキワノに知らされていない事だったのだろう。
漆黒のサラリとした長髪を振り乱し、女性はキッと上司のビアンキを睨みつける。
「貴方の体はまだ、万全ではないでしょう?」
イシュタルに加護の力を取り戻す手伝いをしていると言うキワノは、確か魔術局長の補佐官である筈だ。ミラはマルメロ伯爵からそう聞いた。なのに睨みあったりして……今の遣り取りでは、まるで局長のビアンキとイシュタルを取り合っているかのように見える。
これは……三角関係……?
なんて、この場に似つかわしくないであろう言葉がミラの頭に浮かぶ。
「イシュタル、せめて万全になってから、出立してちょうだい。そうでなければ……私を連れて行って! きっと、貴方の力になるわ」
「心配ない。大丈夫だ」
イシュタルは素っ気なく、首を振る。
ビアンキがその意を得たり、と大きく頷いた。
「必要ない、と本人が言っているだろう。それにイシュタルに助けが必要であれば、私が随行する」
キワノは再びビアンキを睨みつける。かと思うと、今度は何故かミラに照準合わせて来た。
「そうだわ……そこに連れている侍女! 陣を出て、私と代わりなさい! イシュタル、彼女の代わりに私が付いていきます。大して魔力も持たない人間なんて、必要ないでしょう?」
「じ……侍女?」
ミラの目が、点になった。
「私以上に……イシュタルの事を分かっている人間はいないわ。さぁ!」
そりゃあ、姉のセイラに比べれば……伯爵令嬢としての気品とか美しさとか、だいぶん目減りしていると思う。それはミラだってわかっている。
けれどもミラだって、半分平民とは言え、生まれた時から伯爵令嬢をやってきたのだ。だから身分を偽るための簡素な旅装を纏っていても、滲み出てしまう洗練された身のこなしとか、抑えきれない高貴さとか―――そういうものがあるだろう。隣国の街道を進む時に、バレてしまわないだろうか?……なんて、余計な心配をしていたのだ。
うん、どうやら心配いらないらしい。
ミラはまるっきり、身分を隠した高貴な二人に付き従う侍女に擬態できているようだ。
得意の擬態魔術を使う必要も、ないらしい……。




