51.イシュタルの思い
マルメロ伯爵は遠い目をしているミラの隣で、一つ咳払いをする。
「ところでイシュタル、 やはり陛下に君からお知らせするのが筋ではないか?」
「……」
イシュタルは、伯爵の提案に眉を顰めた。
「カルロに言えば、僕を引き留めようとする。僕の『寿命』を永らえる手段を、探すと思う。だから、言いたくない」
「しかし……」
「僕は長く『森』を離れすぎた。」
溜息を吐くその様は、憂いを帯びた美少女そのものである。男性口調であるのにかえってそれが、見る者の目を惹き付ける雰囲気を醸し出していた。
「この国に残っているミュリエルの気配も、かなり薄まっている。……もういい加減、僕は消えてしまいたい」
ミラは、衝撃を受ける。『消えてしまいたい』と言う言葉が、ミラの胸にグッサリと突き刺さった。
「彼女の息子達にも、もうそれほど命の危険があるわけじゃない。彼女のオーダーは概ね完遂した。だから僕の役割は、だいたい終わったと思う」
ミラの胸が、ザワリと音を立てる。じわじわと、イシュタルに対する罪悪感が芽生え始めたのだ。
『キュイと一緒にいたい』と言うのは、所詮ミラの我儘である。彼女は今、それを思い知らされたのだった。
キュイがミラとずっと一緒にいたいかどうか―――実のところ、彼女はちゃんとキュイに確認できてはいない。言葉ではなく、仕草でしかキュイは自分の心の内を伝える手段を持たなかったからだ。
契約者であるミュリエルが存在しない世界で、ずっと彼女の遺言を護ってきたと言う。故郷を離れ、自分が護る相手が次々と寿命を全うする中……彼は一人、長く存在し続けたのだった。
そのキュイの本体であるイシュタルの口から『消えたい』と言う言葉が発せられた。彼の孤独を今初めて、ミラは生々しく想像している。
「いずれ消えてしまうと言う事実を陛下が知らないのであれば、君が消えた時ミラの責任だと思われてしまうのではないか?」
「ミラの責任に……? 僕が消えるのは、別にミラの責任じゃない」
イシュタルには、余りピンと来ないらしい。嘘を吐く習慣のない彼には、ミラが自分の所為ではないと主張した事を、カルロが嘘だと決めつける実感が持てないのかもしれない。
それはミラも同じで、指摘されて漸く自分の立場が危ういことに改めて気づかされたのだった。
「イシュタル、陛下と会ってその事を伝えて貰えないだろうか」
イシュタルは、再び眉を顰めた。
嘘を吐かないイシュタルが抵抗する手段は、言葉を飲み込み相手に情報を与えない事である。その姿勢を、ミラの為に覆すようマルメロ伯爵は求めているのだった。
その時ミラは、はじけるように顔を上げた……!
「だ、大丈夫です……!」
彼女はクルリと父親に向き直る。その背に庇われる形になったイシュタルが、僅かに目を見開いた。
「陛下にお伝えしなくても……私は、大丈夫です。その、私の所為ではないと信じてもらえるように頑張りますから」
「だが、ミラ。陛下の判断によっては、お前が罰される可能性もあるかもしれないのだぞ」
ミラの心臓が、ドキリと跳ねる。
そんな事あるだろうか? 仮にもミラは王家の血を引いているのだ。それに実際ミラの所為でイシュタルが消えるわけではない。
それとも血統的に半分平民のミラは処分されやすい、なんて事があるのだろうか。……あるかもしれない、と思った。
「それにお前は、イシュタルが消えるのには反対だっただろう?」
さっきまでミラはイシュタルの寿命を永らえたい、と考えていた筈だった。それはキュイを失いたくないからだ。だが―――
「でも、イシュタルがもう『消えたい』と考えているなら……キュイだって、そうなのかもしれません」
ミラは肩を落とし、少し視線を下げる。しっとりと潤み始める瞳から、水分を追い出すように慌てて瞬きを繰り返した。
大好きなキュイ。いつでも一緒に居てくれて、淋しい夜や理不尽な事に傷ついた日には、ミラの心を幾度も慰めてくれた。そんな日々を思い出す。
これからもずっと、そうであると思っていた。だけど―――
ミラはキュイの気持ちを無視してまで、自分の気持ちを護ろうとは思わない。
そう、今こそ守ってくれたキュイに、ささやかな恩返し出来る時が来たのなのかもしれない、そう直観した。
イシュタル本人に恩があるわけじゃないけれど、イシュタルの一部分であるキュイはミラの大事な友達で、常に自分を悪意から守ってくれた恩人だった。
ミラは姿勢を正し、十分以上に、かつて無いほど精一杯『キリリ』として見せた。
「キュイの希望を潰すような真似は……しては行けない、と思います」
「ミラ、だが……」
「言う」
背後で、思いもよらないキッパリとした声が響く。
ミラは驚いて、振り返った。
そこではイシュタルが、ミラをしっかりと見据えている。
「カルロに、言うよ。『嘘を吐ける人間』が何を言ったって、カルロは信じてくれないって事なんでしょう? 『嘘を吐かない僕』が言えば、きっとカルロは、ミラに咎を向ける事はしないんだよね?」
ミラは反論しようとしたが、イシュタルが断言したことに、マルメロ伯爵は僅かに安堵の表情を浮かべたのだった。
「そうか……そうしてくれると助かる」
「イシュタル―――でも」
「僕がしたいと思ったから、する。それだけなんだから、ミラは気にしなくて良いよ」
イシュタルはミラの目をジッと覗き込む。その赤い瞳の虹彩がいつも以上にキラキラと煌めいているように見えて、ミラはドキリとした。
ミラの動揺を見て取ったように、イシュタルはニッコリと微笑む。まるで周囲に花を飛ばすかのような可憐な笑顔は、見ている者皆の、胸をときめかせずにはいられない、そんなこの世の物とは思えない美しい笑顔だった。
ミラには彼が嫌々言っているようには、見えなかった。それにそもそも精霊であるイシュタルは、ミュリエルの言葉に従う以外で、自分がしたくない事はしない、と言っていたのだ。
ニコニコと彼女を見つめるイシュタルの視線に戸惑いながらも、ミラは口を噤まざるにはいられなかったのだった。




