22.イシュタル
驚きで思わず、ミラは上掛けをめくっていた手を離した。
ふぁさり、と柔らかい上掛けが落ちて。その綺羅々々しい相貌が、再び隠れる。
「え……え? なんで?」
混乱したミラは目をこすった。自分は寝ぼけているのではないか、と考えたからだ。
重いカーテンを開けていない部屋は、薄暗い。その隙間から微かに薄い明りが染み込んで来る。朝と言うよりは日が登りかけている時間だろうか。
それからもう一度手を伸ばし、そっと上掛けをめくってみる。
やはり、そこに居るのはイシュタルだった。
巨大化したキュイでは、ない。
慌ててミラは、ベッドの上にへたりこんだまま視線だけでキュイを探した。上掛けの何処にも、他に小さな盛り上がりは見つからない。部屋の中も見渡したが、本当に何処にもキュイは見当たらなかった。ひょっとして、ベッドの向こう側に落ちたのかも? と首を伸ばしてみたが、いない。
キュイはいつも、ミラとの約束を守ってくれる。一緒に寝ていて、とミラが言えばいつもなら朝までずっと実体化してくれる筈なのに。
声を出して呼んでみたかったが、スヤスヤ天使のような顔で眠るイシュタルを起こすのが怖かった。起してしまえば、目の前の事が現実だと認めなきゃいけなくなる。いや、何度目をこすっても消えないから、現実には違いないのだろうけれども。
はたしてキュイは、何処に行ったのだろうか。
イシュタルはどうやって、何故ミラのベッドにもぐりこんだのだろう。
「ひょっとして……夜這い?」
いつの間にか、ものすごく好かれていたとか……?
そういえば最近貿易商の娘である友人、辺境の男爵家の令嬢であるユミルに借りた小説に描写されていた状況と、かなり似ている。
普段主人公に素っ気ない感じの美少年が、気持ちを抑えきれず夜中に窓から侵入して彼女の寝顔をそっと眺めるのだ。なんなら頬にキスしちゃったりもする。
しかしはっきり言って現実にそんな事したら、犯罪である。あくまでファンタジーだから許されるのだ。
いや百歩譲って、彼がミラに懸想してしまい侵入したとする。なら、グーグー寝ているのは変だ。今、可愛い寝顔を眺めさせられているのはミラなのだから。
しかし、とミラは考える。マルメロ伯爵家の警備は、厳重だ。護衛や犬が夜も巡回しているし、弱い部分には魔法で幾重にもトラップを仕掛けてある。滅多な事では窓から侵入するなんてできない筈なのだ。
なのに、イシュタルはこんなにやすやすとミラのベッドに入り込んでいる。王子付きの国家魔術師は、伯爵家程度の防御など突破できるという事だろうか? もしそうなら、ミラは警備を見直すように父にお願いしないといけない。 大事なセイラや嫡男であるクラウスに何かあっては大変だ。
いっそ、悲鳴を上げれば良かったかもしれない。現実に何かあった訳ではないが、異性とベッドを共にしたミラは王子の婚約者としてふさわしくないと判断されるだろう。
しかし、その醜聞のお陰で家族に迷惑が掛かっては困る、と思い直す。身持ちの悪い妹がいる、などとセイラの評判を貶めたくはない。弟のクラウスにも迷惑を掛けてしまうだろう。
ここは穏便に、もと来たルートで帰ってもらうのが一番妥当だろうと言う結論にミラは達した。
「ねぇ、起きて」
囁き声を掛けてみるが、イシュタルは動かない。
「イシュタル……イシュタル!」
思い切って声に力を込めて、名前を呼んでみた。が、ダメだ。にっくき国家魔術師は、スヤァ……と気持ちよさそうに眠っている。
王族付きの魔術師がこんなに無防備でよいのか、と逆に心配になってきた。
まだ子供だからだろうか? 焦ったミラは思い切って手を伸ばし、イシュタルの肩をゆすってみた。
「イシュタル!」
声を張り上げないように、顔を近づけてイシュタルの耳へ少し強めに囁く。
すると「ん……」と微かに身じろぎした彼が、眉根を寄せた。そんな様子もキラキラと愛らしい。
真っ白い肌を縁どる銀髪はサラサラとしている。近くで見るとたっぷりとした睫毛まで銀色だった。すごく綺麗だ。悔しいが、ミラの大好きなセイラお姉さまに負けず劣らずの美しさ、かもしれない。こうして顔だけ見ていると、どうしても可憐な美少女にしか見えないのだ。
やがてその目を縁どる銀色の長いまつ毛にがゆっくりと持ち上がり……特徴的な赤い瞳がパチリと姿を現した。こういう色の瞳は、とても珍しい。だからなのか何度か見ているというのに、ミラは改めてドキリとした。
「イシュタル! あの、貴方はなんでここに……」
一瞬のまれてしまったが、ミラは気を取り直してイシュタルに呼び掛ける。そして問い詰めようとしたが、途中で言葉を飲み込んだ。
いつも会うたびに上から目線で素っ気ない態度の、下手をするとエドガー王子より偉そうだった国家魔術師が―――ミラを目にして、ニッコリと無邪気に微笑んだからだ。
その思いもよらぬ表情に、胸を突かれる。
これまで見て来た困っているミラを鼻で笑ったような、面白がるようなニヤけた表情とは違う。
誰もが見惚れずにはいられないような、極上の笑みにミラは言葉を失った。
「ミュリ……」
だが微かにそう呟くと、イシュタルはすぅっと吸い込まれるように目を閉じてしまった。そして再び、スヤスヤと寝息を立て始める。
「『みゅり』? 私の名前を……言い間違えたの……?」
そこへコンコンとノックの音が響いた。
空気が一気に変わり、ミラはハッとして扉の方を振り返る。
「お嬢様? 起きておられますか?」
扉の向こうから、侍女のカリナの声がした。もう起床時間のようだ。いつの間にかカーテンの向こうから、さっきよりハッキリとした朝の陽ざしが差し込んでいる。
「入ってもよろしいでしょうか?」
「あの! えっと、起きてる。起きてるけど……ちょっと待って!!」
ミラは慌ててイシュタルの顔に上掛けを掛けて、隠した。カモフラージュにそのふくらみの前にたくさんの枕を並べてみる。これで一応、万が一扉を開けてもカリナの視界には映らない筈だ。
それからベッドから転げ落ちるように降りると、彼女は室内履きを引っかけて扉まで駆け寄った。開けられる前に、こちらから扉を薄く開ける。今カリナに踏み込まれるのは非常に不味い。ミラだって自分は可愛い。やはり出来る限り、夜中に男を引っ張り込むような女だと思われたくはない。
「お時間ですのでお仕度、お手伝いいたします」
「カリナ! えっと……あの、あと五分! いや、十分だけ待って!」
「? 承知いたしました」
カリナは首を傾げながらも、頷いてくれた。
そっと扉を閉めて、慌ただしくこれから自分に出来る事を考える。
十分だ。直ぐに行動しないと! 先ずイシュタルを起こして、あのすごい技……女学院で披露した鷹になる魔術ででも使って、窓から飛んで行ってもらおう。うん、それが良い!
ミラは意気込んで、今度こそ彼を叩き起こそうとベッドに駆け寄った。
ところが枕をよけてみると、先ほどあったベッドの膨らみがやけに小さくなっている。
「え?」
もしや、と思って布団をめくると―――そこに居たのはキュイだった。
「キュイ?! イシュタルは??」
声を掛けられたキュイはつぶらな瞳でミラを見上げると、すうっと浮き上がった。ミラの目の前まで来て、首をかしげる。
「きゅい?」
とぼけているようには、まるで見えない。まるで「なんのこと?」と聞き返すような仕草だ。最初からそこにいたのは自分だけ、とでも言うようにキュイはきゅるんと瞬きをした。
「キュイ、今までどこにいたの?」
「きゅう?」
言われている事が分からない、と言った様子でキュイがコテンと逆側に首を傾げた。とても可愛い。可愛いが……どういう事なのだろう?
ミラは、何が何だか分からなくなった。先ほどまでイシュタルがいた場所に、キュイが入れ替わるように現れるなんて。




