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19.セイラ

「セイラお姉さま!」


入室を許して扉を開けた途端、飛び込んできたミラに、セイラは目を丸くした。


「申し訳ありません! 誤解なんです! どうか、早まらないで下さい!!」

「まぁ、ミラ」


察しの良いセイラは、ミラの言葉と態度からもう何事を言わんとしているのか気づいているようだった。長いまつ毛に縁どられた宝石のような瞳を瞬かせ、彼女は妹の動揺を落ち着かせるように優しく語りかける。


「慌てないで。さぁ、こちらに座って」

「でも……っ」


一滴の憂いも無いような笑顔を向けられて、ミラは泣きたくなった。

セイラの自室は落ち着いた色合いで纏められていて、いつも良い匂いがする。楽しい時、ちょっと嫌な事があった時、喜びも悲しみも分かち合う為にミラはこの部屋を訪れた。その度いつも彼女の姉は、彼女を優しく迎え入れてくれた。

そしてこんな時でさえ、恩を仇で返すような仕打ちをされたばかりだと言うのに。そんな恩知らずな妹に対して少しの拒絶も嫌悪もあらわさず、いつも通りに迎えてくれる姉。

悲しくて悔しくて、もどかしいような感情の奔流がミラを襲う。自分が嫌で、仕方がない……!

今日ばかりは自ら歩み寄る事も出来ず、言葉を継げずに立ち尽くすミラ。そのミラに、セイラは眉を下げて近づいて行った。


「ミラ、さぁ」


ミラの横に並び背を優しく撫で、セイラは彼女をソファへと誘導する。

促されて座ったものの、ミラは俯き、膝の上でギュッと両手を握りしめるだけだ。

セイラは決して無理に口を開かせようとせず、彼女の背を撫でる。温かさと一緒に変わらぬ愛情が流れ込んで来るようで―――ミラの目から、ポタリと涙が零れ落ちた。

魔法のように優雅に白いハンカチ取り出し、セイラがその頬を優しく抑えた。

そこで漸くミラは意を決して、顔を上げる。


「あのっ……お父様から……うっ……!」


嗚咽がこみ上げるが、ミラは自らを叱咤してそれを飲み込んだ。

今一番泣きたいのは、自分じゃない!


「お姉さまの、婚約が取り下げられたと聞いてっ……!」

「うん」


セイラが優しく相槌を打った。ミラに言いたい事を、ちゃんと言わせようとしている。全部、聞いてくれようとしている―――その度量の深さに、ミラの涙腺は決壊寸前だ。

けれども、ちゃんと言わねばならない。

だから号泣するのはダメだ。本当は泣き顔だって見せるつもりは無かった……! 悲しいのは、ミラじゃない。皇太子との間を引き裂かれて、本当に悲しいのはこのセイラなのだから、と。


「わ、私のせいで……!!」

「それは、違うわ」


セイラはミラの頬をぬぐいながら、首を振った。


「え?」

「ミラの所為じゃない」


やけにキッパリと言い切る姉に、ミラは止められない涙を押さえて貰いながら、おずおずと尋ねた。


「でも……エドガー殿下が私に縁談を申し込んだから。姉妹二人とも王族に嫁ぐって言うのは、貴族社会のバランスが崩れるからって。お父様が……」

「それは、『お父様の理由』ね。『私の』は、少し違う」

「え?」


ミラはきょとんと、セイラを見上げた。

セイラは相変わらず、女神のような優しい表情でミラの顔を覗き込んでいる。

真摯な色を帯びている姉の瞳にまっすぐ見下ろされて、ミラは困惑の表情を浮かべた。

すると種明かしをするように、肩をすくめてセイラは話し始める。


「私ね、実は言ってなかったけど……皇太子妃なんて、全然なりたく無かったの」

「……え……?」

「だって、大変じゃない?」

「大変……確かに大変なのは、大変だけど……」

「ね?」


悪戯っぽく笑うセイラに、ミラは必死で首を振った。

きっとそれは、ミラの心を軽くする為の優しい嘘だ。そうに違いないと、ミラは考えたのだ。


「でも、お姉さまは美しくて、学院で一番成績も良くて。いつも皆を、私を優しく導いてくれたわ。セイラお姉さまより、皇太子妃に相応しい女性なんてこの国にはいない……! それに、けっ……」


うっかり零れそうになった言葉を、ミラは慌てて飲み込む。


「……『血統』?」


察しの良いセイラがミラの考えを見抜いたように、目を細めた。

ミラはギクリとして、更に口をつぐむ。


彼女には独特の迫力があって、その言葉には説得力がある。これをカリスマと言わずして、何と言おう。ミラの姉は、いつも笑顔を絶やさない人だ。だから、彼女が真顔になるだけで周囲は嫌が上にも緊張してしまう。


そう、ミラが自らの血を蔑むような言葉を発する度、セイラはたしなめて来た。

学院に上がり立てのミラは、それとは気が付かず、周囲の好奇の視線や心無い物言いに同調して自分を下げるような、へりくだるような発言を口にするようになってしまった。

セイラは時間と愛情と根気を掛けて、妹のその新しい悪癖をゆっくりと直して来たのだ。


ミラにも、その愛情は通じている。

だからつい口をついて出てしまいそうになった言葉を、飲み込もうとしたのだ。


「……ごめんなさい。血統は……関係ないです」


素直に謝ると、セイラは教師のようにニコリと笑った。それは、それを見慣れている筈のミラでさえ、うっとりとしてしまうような珠玉の笑みで。

やはりミラは、改めて思ってしまうのだ。

皇太子妃に、未来の王妃に相応しいのは、やはりセイラしかいない……! と。

なのに、自分はそれをぶち壊したのだ……!

改めて自分の所業を思い知り蒼白になる妹の背を、ポンポンと優しく撫でながらセイラは続けた。


「あのね。ミラに『皇太子妃に相応しい姉』って思われて、素直に嬉しくは思っているのよ?」

「じゃあ……」

「でもね」


セイラは再度きっぱりとした口調で、流れを区切った。


「相応しいと思われて、王宮からそう認められて―――嬉しいと思う反面、当然相応しくあろうとする、重圧もある」


普通の人間ならば、そうだろう。

でもミラは、ミラの自慢の姉であるセイラに限ってはそんなことはない! ミラは当然のように、そう思ってしまうのだ。


「でもお姉さまは女学院の代表も、伯爵家の女主人としても立派にこなされていて。確かにどちらも大変な役割ですけど、切り抜ける事を楽しんでもいらっしゃったでしょう?」


セイラが素晴らしいのは、困難な状況も楽しんでしまう所だ。

ただ、耐えているだけじゃない。無理難題を吹っ掛けられてもそれを覆す過程を楽しんでしまう人だ。そんな強い女性だからこそ、完璧な彼女に反発心を持つ輩だっていつの間にか彼女に一目置くようになるのだ。


「そうね、確かに。女学院の限定的な期間、責任のある役割をこなす事は背筋が伸びるような気持ちの良い瞬間もあったわ。伯爵家の事もね、家族が住みよいようにお母様達から引き継いだ家を大事にしていく作業は、大変だけど楽しくもあるわ。だけど―――それを楽しめるのは、身近な友達や、大事な家族や屋敷の人々、領民、身内の為でもあるからなの」


何となく、ここでミラにもセイラが本気で言っているのだと分かってきた。

セイラは愛情深い女性だ。母親も、継母となったミラの母も、異母妹の半分平民のミラも、何くれとなく世話をしてくれた屋敷の人々や、幼い頃から接してきた領民達や領土をとてもとても大事にしている。学園の友人や後輩たちに対しても、そうだ。


「でも、王国全体となると―――私には、荷が重いわ。苦労を楽しむどころじゃ、なくなってしまう」


微かに苦いものを感じて、ミラは胸を突かれた。

女神の優しい姉、綺麗なこの上無く美しい姉、立派な淑女であり時には皆の羅針盤である姉―――そんな彼女の背中ばかり見て来た。が、セイラだって普通の、少し前に学院を卒業したばかりの女の子だ。重圧を感じない訳がない。

それに気づかされたのだ。けれども―――


「でも……セイラお姉さまは、アルフォンス皇太子様をお慕いしていますよね?」


二人の仲は良好だったし、セイラからアルフォンスを褒める言葉は聞けても愚痴や文句など聞くことは無かった。


「お慕いしているわ、もちろん」

「だったら……」


ミラは、泣きそうになった。

すると「あら」とセイラは、楽しそうに眦を下げる。


「アルフォンス様は高貴な生まれの、優しく強いお方よ。とても容姿に恵まれていて、深慮に長けている。国民の期待に応えようと、立派に皇太子としての責務をこなされている……でも、それは王国の国民、皆がそう思う事でしょう?」


からりとした物言いに、ミラは戸惑った。


「ええと……つまり……」

「彼を、一人の男性として見た事はないわ。いずれ、夫婦になればそう見ざるを得ないでしょうけど」


つまりセイラはまだ、アルフォンス皇太子を『男性として』好きなわけではない。

ミラはそんなこと、考えてもいなかった。初恋もまだなミラには、全く未知な世界だったからかもしれない。好きなら好き、そこまでしか想像できなかったのだ。

セイラが彼を尊敬し、好ましいと思っている事は知っていた。けれども男性を好ましいと思う感情に、細かな色合いの違いがあるのだ。

でも、そう言われれば、そうかもしれない。ミラだって屋敷の男性陣……執事のハンスや御者のディートを好ましく思っている、だが恋しい訳ではない。慣れ親しんだ家族のように親愛の情を抱いているのだ。


「でも、もし私が彼を一人の男性として愛したら……」


そこでセイラが悪戯っぽく微笑む。伸ばした人差し指を唇に押し当て、秘密を告白するような仕草には艶やかで色っぽく―――ミラはゴクリと唾を飲み込んだ。


「……『愛したら』?」


言葉の先を食い入るように見ているミラの、幼げな態度にセイラは「フフッ」と思わず笑った。


「それは、私の『不幸の始まり』」

「―――え?―――」


どういう意味だろう。と考えて、鈍いミラはここでハッとする。

それは、まさか―――アルフォンスに、別に愛する女性がいる、と言う意味だろうか?


「アルフォンス様が大事にされるのは、妃ではなく王国よ。国民一人一人が、自分の妻より大事な存在なの。例え国民それぞれが、彼やその妃を大事に思わなくても。そして、矛盾しているかもしれないけれども―――同時に、その国民一人一人を駒のように扱わねばならない事もある。全体を守るには、個を切り捨てなければ。それはもちろん、妃となったパートナーも、同じこと」


ちょっとだけ、ミラは下世話な想像をしてしまった自らを恥じた。

そんな小さい話じゃなかった。セイラの視野は広く、ミラのちっぽけな感情移入なんかじゃ、ちっとも追い付けやしない。

ミラは姿勢を正して、背筋を伸ばした。

追い付けなくても、少しでも姉について行く努力は怠りたくない。


「その、要するに……ええと……お姉さまにとって、アルフォンス様との結婚は『お仕事』、つまり普通の、男女が愛し合って結婚すると言うより就職するみたいなものって事なのですか?」


おそるおそる、理解した事を拙さ全開ながらも、纏めてみる。


するとセイラがニコリと笑った。

正解だ! とミラは、こんな場合ではないのに、嬉しくなってしまう。


「そう! そうなの。だから、やりがいのあるお仕事だなって思ってはいたのよ? 選ばれたからには、身命を賭してやり遂げなくてはって……。幸いアルフォンス様は、高貴な方が陥りがちな横暴さや傲慢さとは無縁の方よ。だから結婚相手として、もちろん不満なんて無かったわ。……と言うか、こちらがそんな不遜な事を言えるような相手じゃないわよね。選ぶのはあちら側、なんだもの」


確かに、この縁談はセイラが希望したわけではない。

そうなのだ。いつも選択権は権力の側、王族にあるのだ。文句の言いようがない縁談だったのだと、ミラは改めて考える。

知らず知らずのうちに権力欲でいっぱいのカレン嬢や絵姿の白王子に夢中な令嬢達の影響を、彼女は少なからず受けていたのかもしれない。

美しく賢い、女性の憧れの的と言われるアルフォンス皇太子。セイラもそんな風に思っているなんて、当然のように考えていたのがそもそも間違いだったのだ。


「でもね、確かにアルフォンス様は素敵な方よ。近くでお話すると驚くの。シミ一つない白磁の頬に女として嫉妬しちゃうくらい。心に響くようなお声も、流石に王族だって思うわ。世の女性が夢中になるのも納得よね」


悪戯を見つかったような、クスクス笑い。

冗談のようにそんな軽口を言うセイラは、本当に楽しそうだった。

こうしてちゃんと目を開いて見てみれば分かる。ミラの姉は、重圧から解き放たれて若干ウキウキしてさえ見えた。こんな風に軽やかに笑う彼女は、久しぶりだった。

セイラは手を合わせて、いかにも待ちきれないと言った仕草でこう言った。


「ミラ、私やりたい事がいっぱいあるの……! 皇太子の婚約者になったら、諦めなければならないこと、全部……! あれも、これも。諦めなくて良くなったのよ! だからミラには、感謝しているくらい」

「……じゃあ、お姉様は……もう縁談を元に戻すのは……」


フフフッとセイラは笑った。


「もう、本当に勘弁してください!」


はじけるような笑顔で、そう言い切られてしまった。

セイラが本当に悲しんでいない事を知ったミラは、安堵した。しかしそれと同時に―――内心、がっくりと膝を折ったのだった。あくまで心象風景のため、本当に膝を折ったわけではないが。


姉は、皇太子との復縁を望んでいない。

と、言う事は―――ミラの縁談をひっくり返す、理由がなくなってしまう……!


「……ミラ?」

「……ええと……あの、私ちょっと混乱しちゃって……」


ミラの頭は、一瞬真っ白になってしまった。


実はさきほど父に縁談の事を告げられてから、全てを彼にぶちまけたのだ。けれどもそれを聞いた父は憤ったり、驚いたりするどころか―――いかにも納得した、と言うように頷いただけだった。

「なら、問題ないな。婚約の手続きなどスケジュールはこれからだが、王子の希望としては『すぐにでも』との事だ。セイラと皇太子の不仲の所為だなんて噂が立つのは腹立たしいから、私もそれには同意だ。それなりの覚悟をして置くように」

と、言明されてしまった。意外な事に、父にとってはエドガー王子が魔法の為に目がくらんでいることは大した問題では無かったのだ。

「一般的に、恋は一時掛かる熱病なようなものだ。魔法が覚めるのも、恋が冷めるのと同じ。よくある事だろう」とにべも無く言われてしまう。自分はその恋に一生を捧げているくせに、とミラは思った。

しかしミラはまだこの時、セイラとアルフォンス皇太子が思いあっていると考えていたので、セイラを悲しませるのは絶対嫌だと考えていた。

マルメロ伯爵だって、誰より大事にしているセイラが本気で頼めば考え直してくれるだろう。もう一度皇太子や国王陛下に掛け合ってくれる筈だ。マルメロ伯爵は、いわば陛下の従兄弟にあたる。その従兄弟から改めて頼まれれば、話し合いに応じてくれる筈だとも考えていた。

だからセイラが遠慮しないよう、説得できさえすればアルフォンス皇太子との縁談を再び進める事が出来る。そして、ついでにミラもエドガー王子の魔の手から逃げられる……! そう考えていたのだ。


その目論見は、全く見当はずれだった。


セイラは、復縁を望んでいない。

むしろ縁談が壊れた事を、喜んでいる……!

ミラの逃げ道が、ガラガラと音を立てて崩れ去ったのだった……!!

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