14.王宮から脱出
ミラが前室に戻ると、従者用の壁際の椅子に座っていたカリナが立ち上がった。初めて訪れた王宮だ。一人で待っていたのが心細かったのか、心なしかソワソワしている。
「カリナ、待たせたわね。さぁ、帰りましょう!」
「あの……ミラ様?」
ここでカリナに戸惑うような視線を向けられた。ミラは、ヒヤリとする。室内のやり取りが漏れ聞こえていたのだろうかと、考えたからだ。重厚な扉からは、あちらの気配は微塵も伺えない筈だから、聞こえる筈はない。しかし万が一と言う事もある。
「な、なぁに? 何かおかしな所があるかしら?」
声が裏返りそうになった。後ろめたさで若干早口になってしまう。
「旦那様は、どちらに?」
「え? あ、ああそう。お父様!……お父様はね」
そこで漸くミラは、父に会う為に王宮を訪れたと言う今回の設定を思い出したのだった。
「あ、あのね。部屋にお父様ではなく、代理の方がいて……ええと、お父様は……そう! 用事が出来たのですって」
「あの……では、この包みはどう致しますか? その代理の方にお渡しすれば宜しいでしょうか?」
カリナが手にしている包みを見て、アッと息を飲む。そうだった、お父様に荷物を渡すという口実で王宮に入ったのだった! と思い出す。擬態で手一杯だったミラは、うっかりカリナに荷物を預けたまま応接室に入ってしまったのだ。
「ええと、その。やっぱり、それはいらなくなったって……」
「えっ! そうなのですか?」
「あ、あのね!『今日は』いらなくなったって意味よ。急がなくなったから、一旦家に持ち帰るようにと言われて……」
「まぁ、そうですか。せっかく王宮まで届けに来たのに……残念ですね。随分時間が掛かったようですけれど、何かトラブルでもありましたか?」
「え! 無い! 全然トラブルなんて、無いわよ! ええと……あ! つまり、セイラお姉さまのお話で盛り上がったというか? ほら、アルフォンス皇太子との事で今、色々と話題で……ね?」
「まぁ」
何が『ね?』なんだか、と自分の中で突っ込みを入れつつ苦しい言い訳をする。
しかしカリナは、その苦しい言い訳を信じてくれたようだ。なんと言ったって、王子とセイラのロマンスは、若い女性達にとって今一番ホットな話題である。何とか取り繕う事ができたので、ミラは内心ホッと胸を撫でおろした。
これが執事のハンスや侍女頭のベルタであったら、彼女の下手な言い訳に全く誤魔化されてくれなかったに違いない。
そんなこんなで、ミラはカリナを連れて王宮を抜け出す事に成功した。待たせていた馬車に乗り込んで、マルメロ伯爵邸に逃げ帰ったのだった。
王宮を抜け出すまでは、全く気が気では無かった。あの、はた迷惑な黒王子が今にも後ろから追いかけてくるのではないかと道中ずっとヒヤヒヤし通しだったからだ。それに御者のディートに屋敷に戻るように指示を告げた時、カリナに「図書館はお寄りにならないのですか?」と聞かれ、またしても苦しい言い訳を捻りださねばならなかった。
屋敷に着いた時には、ミラは安堵と疲労からぐったりと倒れこみそうになった。
その後何とか気合で着替えて身支度を終え、夕食を済ませる事が出来た。伯爵令嬢のミラは身支度を侍女に手伝って貰わなきゃならないし、夕食時疲れた顔を見せたらセイラに心配を掛けてしまう。いつも通り元気に振舞って、何とか就寝時間まで乗り切った。
とうとう自室で一人になった時、ミラは大きく息を吐きポフンとベッドに腰を下ろした。そして小声で、こう囁いたのだった。
「キュイ! 出てきて!!」
うさぎのヌイグルミのような精霊、キュイがミラの呼び掛けに応じ、きゅるんと回転しながらポン! と姿を現した。
「きゅい?」
小首を傾げるその愛らしさ。途端に、ぎゅうッと胸が締め付けられるほどの安堵が沸き上がり、ミラの体中を震わせた。彼女は両手を広げて、衝動のままキュイを抱きしめる。
「キュイ! ねぇ、どうしよう?!」
どういう仕組みか分からないが、ミラが抱き着くとキュイは体を実体化させてくれる。そこで彼女はキュイを膝に抱えて、ぐりぐりと頬を押し付けた。
不安で溜まらない時、嫌な事があった時―――ミラはいつもこうしてキュイを抱きしめて来た。実体化したキュイは、何とも言えない柔らかい感触でふかふかと温かく、こうしているといつも、ざわついた気持ちが徐々に凪いで、やがて落ち着きを取り戻す事が出来るのだ。
ミラにとって、キュイは自らの体を守る加護であると同時に、心を落ち着かせる為のお守りみたいな存在でもあった。
「きゅい~……」
キュイも彼女の気持ちに同調したように眉を下げて、情けない声を出す。そんなキュイのふわふわな毛並みをひとしきり堪能した後、ミラはため息と共にこう呟いた。
「あの人……まさか本当に二ヶ月も、私を追い回したりしないよね。キュイ?」
「きゅい?」
「キュイも王宮の出来事、見てたでしょ? 黒王子……自分が仕掛けようとした魔法の所為で、私に恋しちゃったんだって! そんなのアリ? そんな魔法があるなんて、知らなかったよ」
勉強不足なのかもしれないが、本当に聞いた事が無かった。惚れ薬なら噂では聞いた事がある。眉唾物で本当に効くかどうか分からないが、歓楽街や闇ルートでひそかに流通しているという噂があった。『恋の魔法』……そんなものが存在するなら、恋愛話に目がない女学院生達の間で真っ先に話題に上がりそうなものだ。だとしたら、国家魔術師しか扱えない特別な魔法なのだろうか……?
「でもキュイのお陰で、セイラお姉さまに妙な魔法を掛けられる事も無かったし、私が黒王子に夢中になるなんて恐ろしい事態もかろうじて免れたよ。だけどあの黒王子に掛かった魔法が二ヶ月も解けないなんて……やっぱり、あのイシュタルって魔術師、大げさに言っているよね? 夕食の間中、いつ王子が乗り込んでくるかってハラハラしていたけど結局乗り込んでくるような事も無かったし。お父様は今日お帰りが遅いから、まだ相談できていないけど―――」
そこでミラは、ありありと想像してしまった。
マルメロ伯爵に勝手な事をした顛末を語る自分。ひどく怒られる予感しかなかった。しかも……もしイシュタルが言っていた事が本当なら、相談したとしてもこの事態を収集できるとは思えない。なら報告するのは、怒られ損になるのではないか?
セイラが黒王子に付き纏われるなら、一大事だ。けれどもミラが付き纏われるなら……悪い噂を立てられるくらいで済む。ミラには婚約者は、まだいないのだから。
……いやしかし、世の中権力者に甘いから、最悪ミラが全部悪いという事にされて一生行き遅れるかもしれない。
そこでミラはハタ、と気が付いた。
……それってそんなに悪い事かな?
ミラは『お買い得令嬢』だ。どうせ嫁いだって、そんなに大事にされやしない。意地悪な義母にいじめられるかもしれない。政略結婚の相手が、好きな女性の元にばかり通うかもしれない。
未亡人や持参金がなくて独身のまま、と言う貴族女性の中には、時にお金を稼ぐ為に家庭教師をしたり、大きなお屋敷や王宮に勤めている人がいたりする。そういう人達が、雇い主や上司の横暴により辛い目に合うって話は割と聞く。だから独身でいるなんてもってのほか、最高のロマンスや恋愛感情の有る無しなんて、無い物ねだりばかりしていないで、妥協しつつ縁があった家に嫁ぐのが、結局その貴族令嬢自身の為になる―――ロマンス話に花を咲かせていても女学院生達は、結局そういう結論に達するのが常だ。
けれども自分のような血筋は劣るが家柄は良い、なんていう中途半端な令嬢が正妻になったって辛い事はたくさんあるのでは?
だってミラの母であるイーナは、貴族女性達に虐められて大変だったと聞いている。幼いミラ達にイーナがそんな愚痴を言う事はなかったけれども、後から身近な人やうわさ話で聞く話はひどいものだった。自分だってそんな目に合わないとも限らない。
それにイシュタルが魔法の時限装置の期間を大げさに言っていた、と言う可能性はないだろうか?
そんな事を考えた時、ピーン!とミラの頭に天啓のようにある考えがひらめいた。
もしかするとイシュタルは……昨日の内に既に王子の魔法を解く術を見つけて、処置を施しているかもしれない。そう! だから王子は追って来なかったのだ……!!
そうだ、そうに違いない。もし王子があのままだったのなら、父であるマルメロ伯爵に詰め寄っていたとしても、おかしくない。遅くなるという連絡はあったものの、ミラに何か言伝があるとか、後で話があるとかそういった類の指示は無かったのだ。
「よし」
ミラはグッと腕に力を込めた。
「もう、考えない!」
「きゅいぃ??」
これまでグダグタと続いていた愚痴混じりの独り言に、キュイは膝に抱かれるまま黙って付き合っていた。そこで唐突に、力強い決意表明が飛び出して来たのだ。思わず問いただすような高い声が出る。
しかしミラはすっかり迷いをそぎ落としてしまったようで、晴れやかにこう答えたのだった。
「今日だって結局逃げられたし! きっと魔法陣の時限装置なんて嘘だったのよ。そう、二ヶ月もの間びっちり相手に夢中になってしまう恋の魔法なんて、やっぱりありえない! それか、ちゃんと魔法を解除してるに違いないわ。だからそう……これはお父様には相談しなくて良い案件!」
「きゅ……きゅい?」
「だって、ねぇ。キュイ? 考えてみて? 今日の出来事をお父様に告白したら最後、私が身代わりになった事がお姉さまにもバレてしまうでしょう? 絶対、お姉さまは心配するもの。責任を感じるかもしれないし、私の為にって、また相手に直談判しちゃうかもしれない。女学院の学生ならまだしも、エドガー王子はアルフォンス皇太子の弟なのよ? そんなことしたら、せっかくの婚約話が不意になっちゃうかも……」
「きゅ……きゅい~……」
膝に抱き込まれたままのキュイが、心配げに顔を上げる。丸い瞳がウルウルと潤んでいた。ミラはその時、キュイの気持ちが、分かった気がした。
……それは、盛大な勘違いかもしれなかったが。
「うん! そうだよね。あのイシュタルとか言う魔術師だって、あんな事言ったけど、ちゃんと対応してくれたと思う。だって最後はなんだかんだ言って庇ってくれたし」
「きゅ、きゅぅ~……」
キュイが切なげに、声を上げた。
言葉の通じなさにガックリと肩を落とす。
しかし主であるミラは、そんなキュイに対して「大丈夫よ」と胸を張ったのだ。
「それに―――私には、キュイが付いているから。何があっても、結局大丈夫なのだし」
「……」
バチン! と色気も素っ気も皆無な荒々しいウインクを送られてしまう。
キュイは伝わらなさに、ふと押し黙る。
「……キュイ?」
するとミラが、キュイの顔を後ろからのぞき込んで来た。
「……」
その気配にキュイは顔を上げて、ミラの目を見る。そして、覚悟を決めたようにコクリと頷いたのだった。
「きゅいー、きゅい!」
頼もし気に、キュイが自らの胸を前足でトンと叩いたので、ミラはホッとして笑顔になった。
キュイはもう伝えるのは諦めて、とにかくミラを守ると決めたのだった。
しかし王子に付き纏われる事で、これからどんな災難が降りかかるのか。
そしてそれがキュイに防げる種類のモノなのか。未熟な二人には、まだ知る由も無かったのである。




