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13.解けない魔法

「ミラ……ああ、何と愛らしい名だ……!」

「へ……?」

「そして愛らしい其方(そなた)に、ピッタリの名だ」


がっかりされることしか想定していなかったミラは、その返答に激しく動揺した。


「で、殿下……?」

「ミラ、何という甘美な響き……ミラ……ミラ!」


まるで市場で安売りしている魚みたいに、名前を連呼される。あるいは恋愛劇を演じる舞台役者か。陶酔しきって自分の名を呼ぶエドガー王子に、ミラは唖然とするしかない。


「『殿下』などと、他人ぶった呼び方をするな。俺の名を呼んでくれと言っただろう……愛しいミラ!」


何かが、おかしい。こんな筈ではなかった。ミラは何とか正気を取り戻して貰いたくて、混乱しつつも説得を試みた。


「え、ええと……私はセイラお姉さまではなくて……」

「そうだ。お前はセイラではない! これを僥倖と言わず何と言おうか……!」

「その、殿下? 目を覚ましてください」

「さっきから俺は起きているぞ。立ったまま寝る奴がいるか?」


しかし王子は全くミラの言葉を意に介さず、むしろ『セイラ』の擬態を解く前より、熱の籠った瞳を彼女に向けているように見える。


ミラは、賭けに負けたのだと、この時悟った。

『セイラ』の擬態を解いたのに、叱責されるどころか喜ばれてしまった……! ミラの見た目とセイラの容姿の落差に、がっかりさえしない。王子の瞳は、いまだにうっとりと潤んでいた。

万事休す。もう手の内を出し切ってしまったミラは、どうして良いのか分からない。


ただ自分がひどく軽率だった、ということはひしひしと感じていた。

一方エドガー王子の方は実に満足そうに腕を組み、感慨深く唸ったのだった。


「セイラ=マルメロは兄の婚約者となる。だからお前は『皇太子を裏切ることはできない』と言った。ならば俺は、ただ(しもべ)としてお前を見守る事しか出来無いだろう。だが―――」


見守る、という割には随分グイグイと強引に迫っていたような気がしたが。細かい所に突っ込みを入れそうになったミラだが、次の王子の台詞に悲鳴を上げそうになった。


「つまり、私たちの間には何の障害もないという事だな?」


感極まった様子でミラに向かい合い同じように両腕を広げるエドガーは、今にもミラを抱きしめんとしている。


迫りくるその腕を、彼女は間一髪でさっと一歩下がって躱した。

完全に無意識だった。ミラ自身、自分の反射神経のポテンシャルに驚いたくらいだ。


叱責も断罪もされなかったのは幸いだったが、まさかこんな展開になるとは予想していなかった。見た目が変わっても、術が解けないなんて……!

混乱から抜け出せないミラは、王子にクルリと背を向けると淑女の礼儀も忘れて駆け出した。イシュタルの元に駆け寄ると、必死の形相で詰め寄る。


「イシュタルさん!」

「はい、なんでしょう?」


このような異常事態を目の前にしても、全く顔色を変えない美少年の飄々とした返事は、ミラの神経を逆撫でした。

何故彼はミラの擬態解除に驚かないのか。おそらくイシュタルは知っていたのだ。『セイラ』が本当のセイラで無かった事を。なのに、彼は今までその事に一言も触れなかった。必死で自分を制御していたミラが、彼の目にいかに滑稽に映っていたことだろう?

セイラの仮面を外した今、ミラはその腹立ちをぶつけるように乱暴にイシュタルを問い詰めた。


「正体を明かしたのに、何故魔法が解けないんですか?! 本当に、何とかしてください。私は! セイラお姉さまじゃないんですよ!! 」


けれども暖簾に腕押しとはこの事だろう。イシュタルはいたって平静にこう返答したのだ。


「術式をしっかり見ていれば分かると思いますが? 見た目に惹かれるのではなく、目の前の存在そのものを深く魂に刻むよう、魔法陣は設計しておりますので」

「そんな……!」


あの時。魔法陣がこちらに投げつけられた時―――ミラは眩しくて目を瞑ってしまった。じっくり観察していれば、内容を把握して対処できたという事だろうか?

もしかすると本物のセイラであれば、対抗策を処方できたのかもしれない。

ただミラの現在の学力では、そんなややこしい魔法陣の術式を見ても理解できなかっただろう。キュイ頼みで、自分の防御を疎かにしていたツケが、まさかこんな時に回って来るなんて。それとも魔術についてもっと深く勉強していれば、この事態は避けられたのだろうか?


ああ、もっと熱心に魔法陣の教科書を読み込んでおけば良かった……!


今さら後悔しても遅い。ミラは泣きそうになった。焦りや後悔で、胸の内はとんでもなくグチャグチャだ。こんなんで、ここからどうやって抜け出せる? いや、例え無事ここを抜け出したとしても、その後どうしたら良いのかなんて―――


「ミラ……! 何故また、イシュタルなどと話している」

「ひっ」


ミラの背後に、大きな影が迫っていた。

彼女は恐るべき反射神経を再び発揮して、咄嗟にイシュタルの後ろに回り込む。その背をグイと押して、魔術師をエドガー王子の面前へ押し出した。


「イシュタルさん、お願い! 助けて下さい……!」


彼は王族側の人間だ。けれども頼みの綱は今、彼だけだった。

背中につかまり、必死でミラは助けを請う。


しかしそれは、あまり良い対処法とは言えなかった。

イシュタルにしがみつくミラを目にしたエドガー王子は、カッとして低い声で唸る。


「……イシュタル、どけ!」


周囲を威圧感で押さえつけるようなその怒声に、ミラは震え上がった。

それまでミラに掛けていた、甘い声とはまるで別人だった。その低い声は地響きのように応接室を震わせる。これが王族の威厳というやつだろうか? 魔法に惑わされていなかったら、ミラに対しても彼はこんな風な冷酷な声を出したのだろうか。


王子の怒りに触れて、さすがのイシュタルも怯んでいるのか。目の前の背中が数秒、無言になった。


このまま引き渡されるのでは、とミラが恐怖に背筋を震わせたとき、イシュタルが迫るエドガー王子の前に手を上げて、何事かを呟いた。

するとピタリと、エドガー王子の動きが止まる。


エドガー王子が、おとなしくなった―――!

ミラはイシュタルの背後で、ホッと息をついて力を抜く。彼がよく分からない魔術で、王子を縛ってくれたのだ。ミラの体から一気に力が抜ける。


「あ……ありがとう……」


かろうじてそれだけ口にすると、ミラはその場にへたりこんだ。腰が抜けたのだ。


するとイシュタルは休む間も与えず、手を差し出してミラの腕を引っ張った。ミラは足を震わせながら立ち上がる。立ち上がれたのは、背後から風の後押しがあったからだ。こちらも、彼が何らか魔術を使ったのだと思った。


「―――お礼を言うのは、早いですよ」


安堵に肩の力を抜いているミラを見て、呆れたようにイシュタルはため息を吐いた。


「王族の魔力は膨大です。このまま押さえて置くのも、限界があります。この場を去りたいなら、今すぐここを離れるべきです」


親切なのか、そうでないのか。

判断がつかないが、とにかく今のミラには選択肢がなさそうだと言う事は分かる。ミラは頷き、言われた通りこの場を逃げ出すことにした。


しかし、一つだけ―――最後に確かめずにはいられなかった。


「あの、イシュタルさん? ついでにさっき王子に掛けた厄介な魔法の解除もして欲しいのだけど……?」


膨大な魔力を秘める王子を、一瞬で縛る事ができる魔術師。やはり彼は見た目から想像できないが、かなりの凄腕だ。ならば無理な事など、本当の本当は無いのではないだろうか……? ミラはいまだに一縷の望みを、捨てられずにいた。

けれども対する彼の応えは、さきほどと同じく非常に素っ気ないものだった。


「無理です。そういう設計ですから」


一瞬でも猫なで声を出してしまった、自分が悔しい。

ミラは絶望の声を上げた。


「二ヶ月も追い回すって―――本当は私を怯えさせるための、冗談ですよね……?」

「何度も言いますが、冗談なんかじゃないですよ」

「私はセイラお姉さまとは違います。むしろ半分平民で王族と付き合うような身分じゃないんです。そんな事が続いたら、エドガー王子の方が困りますよ?!」

「そのエドガー王子ご本人の注文ですから。仕方ありません。お気の毒には思いますが―――まぁ、せいぜい頑張ってください」


にっこりとイシュタルは笑った。

とても良い笑顔だ。天使かと思うくらい、透明感のある美しい笑顔だった。


「そんな……! だいたい、そもそも王子は何故こんな事を仕組んで……」

「ほら、帰りたいなら今のうちに帰ってください。もうすぐ王子の呪縛が解けます」


エドガー王子を見ると、確かに大きな体が微かに震え始めている。


「うぅ……」


何やら苦し気に呻き始めた王子を目の当たりにして、ミラは恐怖に顔を引きつらせた。次の瞬間。ドレスの裾をギュッと掴むと、その場を走り出す。

しかし扉を開ける直前、クルリと振り向き、悔し気に捨て台詞を残したのだった。


「こんな滅茶苦茶な魔法掛けて……お、覚えてなさいよ……!」


仮にも伯爵令嬢が、なんという口を利くのだろうか。

イシュタルは、目を丸くした。


「み……ミラ……!」


その時エドガー王子が、ミラの名を呼んだ。体は動かないものの、彼女の存在を認識したのか、夢から覚めたように瞬きを繰り返す。

ミラは飛び上がって、それから扉を開けて逃げ出した。


扉が閉まった後、イシュタルは吹き出し、思わず笑いだした。


「もちろん、忘れませんよ」


そして既に彼女が出て行ってしまった扉に、こう呟いたのだった。


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