花降る街・09
「今日も変わらず露店は出てるし、雑技団や歌劇団もあちこちで公演をしてるそうだ。何か希望がありゃ、優先して回るが」
「希望、ですか?」
「ああ、何でも好きなように。踊りなら、西の広場が盛んだそうだが」
「……西の広場以外で、お願いします」
「そりゃ助かる」
そんな会話をしながら、気を取り直して大通りの人並みに紛れ込む。
久しぶりに歩く街は、前にはなかった華やかな飾りつけのお陰で、全然違う場所のように見えた。通りには食べ物の屋台や物を売る露店だけじゃなく、芸を見せる人や歌を聞かせる人もたくさんいた。点々と人だかりができているので、そこで何か演技や演奏が行われているのだと、すぐに分かる。
そうして歩いていて驚いたのが、すれ違う人たちが皆私たちと似たような服装をしていることだった。ほわあ、なんて気の抜けた感嘆が口からこぼれる。
「本当に、今日はこういう服を着る日なんですね。ヒメナさんが服を貸してくれて、よかったですよね」
「……遺憾ながらな」
重々しく、ため息。本当に着飾ったりするのが嫌いみたいだ。ううん、申し訳ないなあ……。
「ひとまず、そこらの露店でも冷やかすかい」
「そうですね」
前にもらった銀貨も持ってきたから、今日は買い物もできる。空から降る花と同じくらい通りを歩く人たちの衣装も彩り鮮やかで、その間を縫って進むのは、カラフルな海を泳ぐ魚にでもなった気分だった。
ちょうど通りかかった露店の軒先には、すごく細かく作りこまれた銀細工が並べられていた。透かし彫りが綺麗な銀の花や動物が、陽光を弾いてきらきらと輝いている。本当に、何もかも夢みたい。
こんな素敵なお祭りに来ることができるなんて、今まで考えてもみなかった。ベイルさんには、どんなに感謝しても足りない。もう一度ちゃんとお礼を言っておかなくちゃと、隣を見上げて――
「……え?」
そこに、いると思っていた人はいなかった。
右、左、とにかく周りを見回す。それでも、やっぱりいない。ぞっと背筋が震える。心臓がきゅうっと縮み上がったみたいな痛みを覚えた。
『落ち着け、ナオ』
エンデが宥める声で囁く。
分かってるよ、と反射で答えたけれど、ちっとも分かっていないことは分かっていた。目に見えるところにいないなら、魔術で探せばいい。そんな当たり前のことも、すぐに思いつくことができなかった。
『私、どうかしちゃったんだ』
前なら、こんなことはなかった。こんな風にうろたえてなんていられなかったし、それが許される状況でもなかったから、その通りにしてきた。
『悪いことではない』
慰められたって、何も変わらない。変な反発心で、その言葉も上手く受け取ることができなかった。
はあ、とエンデがため息を吐く。それから非難する響きで『ベイル』と呼んだ。今、ここにいないはずの人を。いなくなってしまったと思った人を。
『そなたが脇見などをするから悪い。ナオはまだ子供で、未熟なのだ。乱してくれるな』
「そりゃ、悪かったな」
真後ろで、声がした。はっと振り返る。
探していた人が、そこにいた。ベイルさん!
「少し買い物をしてた。お前の足を止めさせるほどじゃねえと思ったが、すまなかったな」
いいえ、と慌てて首を横に振る。
すると、にやにやと笑う気配をさせたエンデが、本当に――本っ当余計なことを言ってくれたのだった。
『この年頃の娘は、何かと多感なものよ。これしきのこと――そなたを見失ったくらいで、半べそだ。ニーノイエにいた頃の張り詰めた姿からすれば、全く喜ばしいことではあるがなあ』
「ちょっ、誰が泣――」
慌てて口に出しかけた反論は、途中で消えた。
目の前に差し出される、右の掌。大きな手。に、握れってことかなあ!?
「泣かれるのは、困るからな」
「な、泣いてませんってば!」
はいはい、と気のない返事と一緒に、出そうかどうしようか迷っていた左手が握られた。
「嫌なら、離すが」
その瞬間、びくりと肩が跳ねたのは、びっくりしたから。嫌だったからじゃない。それは、全然。
問い掛ける言葉に、もう一度首を横に振る。
顔が熱くて、熱すぎて、何だか上手く言葉が出てこない。逃げるみたいに顔を逸らして、繋いだ手を引っ張るように歩き出す。
「欲しいものがあったんじゃねえのかい」
「見てただけです」
返す声が、変にぶっきらぼうになってしまった。それなのに、ベイルさんは「そうかい」と変わらない。私だけが取り乱しているみたいで、子供なんだって突きつけられるみたいで、何だかもやもやする。
「ニーノイエにいた頃は、こうやって街を歩いたことがなかったので、いろいろ珍しくて」
「なら、好きなだけ見てきゃいい。で、欲しいものがあったら言え。好きに買い物をさせてやれるくらいの持ち合わせはある」
「えっ、いえ、そんな――」
思いもしない言葉に、また動揺が戻ってくる。
……それを考えるのは、何度目だろう。
ベイルさんはお仕事で、それから自分自身の目的の為に護衛をしてくれているんだと言っていた。その目的を果たすのに、私にここまでしてくれる必要はどこにもない。そのはずなのに。
「どうして、こんなに親切にしてくれるんですか?」
失礼だとは思ったけれど、訊かずにはいられなかった。小さく、ベイルさんが首を傾げる。
「どうして、とは?」
「護衛をしてくれるのは、仕事と、それから他に目的があるからですよね。だったら――」
「ここまでする必要はない?」
先回りする言葉に頷くと、ベイルさんは「そうだな」と迷う風もなく肯定する。
そもそも、ベイルさんが嫌いな服装をしてまで私に付き合ってくれる義務なんて、どこにもない。追われているから外に出るのは危険だとか、外出を禁止する理由だって簡単に見つかるのだし。
「別に、何か企みがある訳じゃねえが」
「あ、いえ、そういう訳じゃなくて……私は親切にしてもらっても、本当に、何も返せないので」
「俺が勝手にやってるだけだ。見返りを期待してる訳じゃねえ」
「でも、無理をしてまでは」
「無理はしてねえさ。そんな人のいい性分じゃねえ」
すっぱりした即答。そこまではっきり言われてしまうと、ううん、なんて続ければいいか分からなくなっちゃうなあ……。
「直生。お前は今、楽しいと思うかい」
「え? あ、はい。すごく嬉しくて、楽しいです」
「なら、それで良いと思う。それだけの話だ」
分かりきったことを説明するような、当たり前のことを言う口調だった。でも、そうは言われても何がどうして「それで良い」のか、さっぱり分からない。
首を捻っていると、しみじみ言われた。
「何と言うか――お前は、本当に独特な物の見方をするな」
喋りながら、ベイルさんが繋いだ手を軽く引く。こっちに寄れ、という代わりなのだと思って横に動くと、すぐ脇を後ろから歩いてきた人が通り抜けて行った。
こうして歩くようになってから、ずっとベイルさんは今みたいに誘導してくれていた。後ろから来る人にも、前から来る人にもぶつからないように。頭の後ろまで目があるみたいに。
「他人のことばかり気にして、いつもどこか自分のことを見落としてる。挙句の果てには、竜にまで立ち向かうときた。あれには、さすがに驚いたな」
そう言う割に、驚いてなさそうな声だけど。
でも、今になって振り返ってみれば、確かにとんでもないことをしていたと思う。普通の人だって会話に割り込まれて好き勝手言われたら、誰だっていい気はしない。本当によく怒られなかったな……。
「だから、俺はお前に興味を持った」
「――え?」
「それが理由だと思えば良い。借りがあると」
「借り、ですか?」
「真正の竜を単独で相手取るとなれば苦戦は必至、勝てる保証はどこにもねえからな。あの時、確かに俺はお前に助けられた」
「あれはただ運が良かったというか、ハイレインさんが敵じゃなかったからだと思うんですけど」
「だとしても、結果に変わりはねえ」
きっぱりと言い切る声が、「この話は終わりだ」と付け加える。そう言われてしまったら、もう何も言えないけど……。
お祭りの中心地である大通りは、とにかく賑やかだった。人の流れはゆっくりで、私たちもその流れに合わせて歩きながら、竪琴の伴奏で歌われる騎士の冒険譚を聞いたり、屋台でお菓子を買ったりした。
お菓子を買う時には、折角もらったんだから銀貨を使ってみようと思ったのに、お菓子を受け取っている間にベイルさんが代金を払ってしまっていた。
そりゃあもう、びっくりしたし、慌てた。
「あの、ベイルさん、代金を」
そう言ってジョージナさんにもらったお財布を取り出そうとすると、ベイルさんは軽く手を振って、
「釣りが出せねえから、いい」
『嘘だぞ』
語尾がかぶる勢いで、エンデが囁いてきた。物凄くニヤニヤしている気配もする。また何か面白がってるな、と警戒半分の気持ちでいると、『嘘ではないぞ。疑うのなら、本人に確かめてみよ』なんて言う。
確かめてみろなんて、そんな無茶な……。でも、お金は渡さなきゃだし……。
「……ベイルさん、あの……本当ですか?」
心の中で散々迷った後、恐る恐る訊いてみると、
「いや、嘘」
即答だった。ぽかーんとするくらい、あっさりと。
『ほら見ろ!』
エンデは爆笑している。
「そう言っておけば、お前は引き下がるだろうと踏んだが――ああ、エンディスがいたか。何か入れ知恵でもしたな?」
「ええと、その、まあ……」
「余計なことを」
「でも」
「その銀貨は他に使え。細工物の類が気になるんだろう。店先を通る度に気にするくらいなら、何か買ったらどうだ」
「ど、どーしてそれを!」
これまで歩いてきた間に、いくつか銀やガラスみたいな結晶を使った小物や装飾品を扱うお店があった。
綺麗で、いいなあって、ついつい通りがかる度に見てはいたけれど。それでも足は止めなかったし、気付かれてはいないと思っていたのに!
「さっきからお前は何かを集中して見てる時に、決まって手を握る力が強くなる。意識してやってる訳でもなさそうだったから、癖かと思ってたが――自分でも気付いてなかったのかい」
「き、気付くも何も、こうやって誰かと、その、て、手を繋いでお祭りに来たこととか、ないですし」
知りようがないと言うか。もごもご言うと、
「だったら、尚更だ。大人しく貢がれとけ。ああ、嫌なら構わねえが」
最後の一言が、グサッと刺さった気がした。
だって、嫌だなんて有り得ないし、嘘でも嫌だなんて言える訳がないし。エンデは笑っているだけで何も言ってくれない。ああもう! こういう時こそ助けて欲しいのにさあ!
「そーゆーのは、ずるいと思うんですけど」
「誠実だと自己申告した覚えもねえがな」
……うう、歯が立たない。
「じゃあ、せめて、これ、半分こしましょう」
買ったお菓子を持ち上げて見せる。名前は違ったけれど、薄い生地でクリームとたくさんの果物を包んだクレープのようなものだ。ベイルさんは私の分を買ってくれたけれど、自分の分は買わなかった。
「あ、甘いもの、嫌いじゃなければですけど」
「まあ、嫌いとは言わねえが」
「じゃあ、大丈夫ですね! お先にどうぞ!」
良かった! ホッとした勢いでクレープを差し出すと、ベイルさんは両目をゆっくりと瞬かせて、何とも言えない表情で受け取った。ちょっと驚いてる?
「……お前が存外強情だってことを、忘れてた」
ぼそりと言いながら、ベイルさんはクレープを受け取って、端っこの方に小さくかじりつく。
『そなたにその菓子は似合わぬなあ』
「ほっとけ。――直生、後はやる」
エンデが茶化したから、という訳でもないだろうけど、クレープが戻ってくるのは早かった。ほんの二口とか三口かじられただけ。
「もういいんですか?」
「ああ。お前の為に買ったものだ」
ベイルさんの言葉は時々とても遠回しなのに、たまにすごくまっすぐで、何だか困ってしまう。
「じゃ、じゃあ、頂きます」
クレープを受け取って、今度は私がかじりつく。
最初に感じるのは、クリームの甘さ。滑らかな舌触りで口いっぱいに広がった後、酸っぱめな果物が転がり込んできて、甘いのとちょうどよく混ざり合う。
「美味いかい」
「美味しいです!」
思わず、力いっぱい答えてしまった。ベイルさんはちょっとだけ唇の端を持ち上げて、笑う。
「そりゃ良かった」
その瞬間、どうしてなのかドキリとしてしまった私のことは気にしないでおくとして、とりあえず食べながら通りに戻ることになった。
これまでよりも少し慎重になって人ごみの中を進んで、あちこちの芸人さんやお店のところに顔を出している内に、クレープも食べ終わってしまう。美味しかっただけに、いざ食べ終わってしまうと寂しいくらいだった。いっぱいの満足と、ちょっとの寂しさで、ほうっと息を吐いた――その時。
「……うん?」
不思議な気配がした。ただの直感だけど、たぶん悪いものじゃない。ベイルさんの手を引いて、人ごみの中を気配のする方へ向かう。ベイルさんは何を言うでもなく、後からついてきてくれた。
そうして到着したのは、小さなお店の前だった。クレープの屋台みたいな、小さなテントの露店。ここから、あの不思議な感じがしている。
「装飾を扱う店か。何か、興味があるものでもあったかい」
「はい、ちょっと見てもいいですか?」
「好きなだけ」
さらりと返してもらえる言葉がくすぐったい。
お店に近付くと、私の腰くらいの高さの台に紺色の布が敷かれて、その上にたくさんの装飾品が並べられているのが分かった。お店の奥には、いらっしゃい、とにこやかに微笑む女の人。
女の人に会釈を返しながら、私は紺色の上に置かれていた、あるものから目が離せなくなっていた。
「それに興味があるのかな、お嬢さん」
優しく問い掛けられて、こくりと頷く。
そうか、と頷いた女の人は無造作に「それ」を摘み上げ、私の手を取って、掌の上に置いてくれた。
「これは魔除けの護符だ。孔雀石は魔を退ける」
護符。確かに、それは細長い長方形だった。私の親指よりも小さな、銀のプレート。真ん中に埋め込まれている緑色の石が孔雀石なのかな。石の周りには、細かく退魔の紋様が描かれていた。
掌から伝わってくる魔力は、このお店に来る前に感じた気配と同じだった。丁寧に磨き上げられた宝石みたいな、静かで穏やかな感じ。
繋いでいた手を離して、掌の上の護符を慎重に摘み上げる。プレートの端に穴が開けられて、細い銀の鎖が通されているのは、ネックレスのように首に掛けて使うものってことなんだろうと思う。これなら、そんなに邪魔にもならないかな……?
「これ、おいくらですか?」
「お嬢さんは、目が高いね。ただ、安い買い物ではないよ。銀三枚――大丈夫かな?」
良かった、ちょうどピッタリだ。大丈夫です、と答えながら、今度こそお財布を取り出す。
「直生」
隣から降ってきた声に、首を横に振る。
何を言われるのかは、予想がついていた。三枚もの銀貨を全部ここで使い切ってしまうのは、後先を考えていないと言われても仕方がない。
「すみません。でも、どうしても……」
「早とちりするな、咎めてる訳じゃねえさ。それが欲しいなら、それでいい。ただ、確かに安い買い物じゃねえだろう」
咎めてる訳じゃないけど、安い買い物じゃないから……? どういう意味だろう。首を捻ると、エンデが『全く』と嘆きっぽく言う。
『そなたは相変わらず、時々恐ろしく鈍いな。ベイルは、そなたにそれを買ってやろうと言っているのだ。――であろう?』
『ああ』
即答の肯定。あわ、と裏返った声が飛び出した。
「あ、あの、その、これはですね、私が自分で買わないと、というか、買ってもらったりしてしまうと、意味がなかったりする訳でして……」
どう説明したらいいのか分からなくて、ひどくしどろもどろになってしまった。もちろん、買ってくれるという親切は嬉しい。でも、本当にこればっかりは、それじゃあ意味がないのだ。それに、どう話したら言いか分からないからって、ここで目的を打ち明けてしまうというのも、ちょっとどうかという気がする。
困りに困って、誤魔化すみたいに曖昧な笑いしか出てこなくなった。ベイルさんは小さく首を傾げ、逆に店主の女の人が「なるほどね」と笑顔を浮かべる。
「そういうことなら、二枚半にしておくよ」
全然上手い説明はできなかったと思うけど、何か察してくれたみたいだった。
「どうだい、お嬢さん」
「お願いします!」
答えるのと一緒に、銀貨を取り出して支払ってしまう。店主さんは銀貨を受け取ると護符を袋に包んで、お釣りと合わせて渡してくれた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。――そちらの御仁は、いかがかな」
「間に合ってる」
いつも通りのあっさりとした声で、ベイルさんが断る。女の人も「それは残念だ」と言うきりで、それ以上勧めはしなかった。
軽く挨拶をして通りに戻り、通りをのんびり歩いていると、途中で手品を見せる芸人さんに歓声を送るアンジェリカや、男の人と踊るジョージナさんを見かけた。いつの間にか、踊りが盛んだという「西の広場」近くに来てしまったようだった。
ひらひらと衣装の裾を翻して踊るジョージナさんは綺麗だったけれど、敢えて声は掛けないでおいた。邪魔をしてもいけないし。……誘われたりしても困ると、思わなかったと言えば嘘になるけれど。
ほんのちょっとだけ早足になって、西の広場を抜ける。広場から先の通りには踊る人もお店も少ない代わりに、花を配っている人がたくさんいた。
鮮やかな、赤い花。
そう言えば、今まで歩いてきた中でも、あの花を髪や服に挿した人を見かけたっけ。〈ヒラソール〉を出る時も、ベイルさんが「本物の花を見に行くか」って言ってた気がする。あれは、このことだったのかな。
「ベイルさん」
軽く手を引いて呼び掛けると、「どうした」とすぐに返事が返ってくる。背中を丸めるように視線を合わせてくれる顔を見上げて、街角で花を配っている人を指で示した。
「あの、見に行くって言ってた『本物の花』って」
「ああ、あれだ。〈祈りの花〉。翠珠じゃ新年の幸福やら厄除けやらを祈るのに使うが、この国じゃあ、この祭りに合わせて使うんだと」
行ってみるかい、と訊かれたので、頷く。すみません、と声を上げて花を配る女の人に近付いていってみると、笑顔で二輪の花が差し出しされた。繋いでいた手を離して、お礼を言って受け取る。もちろん、二輪の片方はベイルさんに渡した。
周りでは、家族や友達同士と見える人たちが、花を掲げて祈る様子を見せていた。詳しい作法は分からないから、周りの人たちを真似して、ベイルさんに向き直る。すると、私が何か言うよりも早く、ベイルさんは左手で花を軽く掲げ、穏やかな低音で唱え始めた。
「暁は喜びに満ち、黄昏は願いに満ちてあれ。祈りは灯り、お前の旅路を照らし導くだろう」
幸いと共にあれ――と、言葉を結ぶ。
ベイルさんが口を閉じた瞬間、ふわっと弾けるように花が散った。散った花は淡い光になって、私の周りをひらひら飛んでから消えていく。ぽかんとしていると、エンデが護りの祝福だと教えてくれた。
ただの祈りじゃなくて、そんな素敵な祝福をもらってしまったなんて。それならちゃんとお返しをしたいと思うのだけど、私は祝福の魔術も、祈りの作法も分からない。どうしよう、と迷っていると、
「健康でありますように、幸せでありますようにって祈ればいいのよ。そんなに難しく考えなくてもね」
花をくれたお姉さんが、そっと助けてくれた。ありがとうございます、ともう一度お礼を言うと、にっこりと笑顔が返される。その笑顔に励まされて、ちょっと呼吸を整えてから、左手で花を掲げた。
「これからの一年が、どうか幸せで、嬉しいことが多くありますように」
言い終わると、風もないのに手の中の花が揺れ始めた。ゆらゆらと揺れていたかと思えば、パッと光になって散る。え、ええ? 何?
ベイルさんが祝福をくれた時よりも、何が起こったのか訳が分からなかった。首を傾げて頭の中に疑問符を浮かべていると、「どいつもこいつもお節介な」と呟くのが聞こえた。どういうことだろう?
不思議に思ってベイルさんを見上げれば、
「ケラソスだ」
予想もしない名前に、つい「ひえ」なんて気の抜けた声が飛び出した。ま、まさか、手伝ってくれたというか、代わりに祝福をしてくれたとか……?
ありがとうございます、と恐る恐る呟く。すると、頭の上から降ってきた赤い花びらが、目の前で〈祈りの花〉に変化した。お礼は届いた、のかな?
「さて、次はどうする」
言いながら、ベイルさんが右手が差し出す。これで三度目だけど、まだちょっと緊張してしまう。それでも、その手を取ることに躊躇いはなかった。
「隣の通りには、オルキデアとかいう歌劇団がいたはずだが」
「歌劇団……。行ってみてもいいですか?」
ああ、と頷き返されて、そのまま手が引かれる。すいすいと人ごみの間を縫っていく背中は、歩くべき道が見えているみたいに。
「まだまだ人がいっぱいですね」
「夜中まで続くらしいからな」
そうして、私たちのお祭りは、日が暮れるまで続いた。




