その2
夕暮れに入った逢魔時、主なき長屋の地下部屋では陽と影の2人が向かい合うように立っていた。ろうそくに照らされる中で、影は事の顛末を陽に伝えていた。
「同じ長屋に、江戸へ出てきた惣吉という男を預かっているということか」
「まあ、困っている奴を放っておくわけにはいかないだろ」
「確かにそうだけど……。それよりも気になるのは、惣吉を追っている岡っ引たちだな」
陽は、影の前でさらに言葉を続けた。
「岡っ引がいるからには、それを雇っている同心がいるのは間違いない」
「同心っていうことは?」
「惣吉が後ろめたいことがないのに岡っ引が執拗に追っているとなると、同心を含めてなにやら裏がありそうだ」
そんな2人の話に割り込んできたのは、年相応の顔つきを見せる忍たちの元締である。
「岡っ引か……。奴らの中には、荒っぽいのがいるからなあ。良からぬ噂も少なからず耳に入るし」
「良からぬ噂というと?」
「つい最近も、ある岡っ引が金を脅し取ったということがあってなあ」
元締は、ため息をつきながら話を続けた。
「聞く話によると、同心は情報を集めるために岡っ引を雇っているわけだが、その岡っ引というのが何度も揉めごとを起こした博徒とか的屋とかの連中であるわけで……」
陽は、元締が岡っ引のことを次々と語った内容にすぐさま返答した。
「博徒や的屋が岡っ引って……。かつてはお縄になった者も、同心としては相手を探るのに役に立つということか」
その返答に対して、元締は再び口を開いた。
「そういえば、影は惣吉という男が岡っ引らしき男たちに追われていたということを先ほど言っていたそうだけど」
「まあ、確かにそうだが。それで、おれたちにいったい何を言いたいんだ」
元締は、面倒くさそうな口調で答える影に向かって冷静な言葉で返した。
「これはわしが耳にしたことだが、無宿者というだけでと捕まえようとする岡っ引が少なくない」
この言葉に、影は右手を握り締めながら岡っ引や同心への怒りをにじませている。
「無宿者の全てが悪さを繰り返しているだと……。そいつらを手先として使う同心も同心だ。奉行所も地に堕ちたものだぜ」
「影の気持ちはよくわかるが、もうちょっと冷静に……」
陽は、感情の赴くままに雑言を並べ立てる影を落ち着かせようと言葉を掛けた。その様子を見ていた元締は、2人の忍に今回伝えるべきことをその場で話し始めた。
「そこでだ、惣吉を追っていたとされる岡っ引と、彼らを手先として使っている同心について探りを入れてほしい」
真っ暗闇に包まれた南鞘町の長屋に、障子張りの扉をそっと開ける1人の男がいた。
「行灯に火を灯さないと……」
わずかな月の光を頼りに、清蔵は行灯を灯すと、仕事場を兼ねた板の間がかすかに照らされた。
「よく眠っているなあ」
惣吉が寝ていることを確認してから布団へ入った清蔵は、行灯を消してから眠りの中へ入った。
「岡っ引の奴ら、なぜ惣吉を執拗に追うのか……」
清蔵は、岡っ引2人の鋭い目つきが今でも脳裏に焼きついている。
その翌日、清蔵のいる長屋に太陽の光が差し込んできた。清蔵がたんすから取り出しているのは、普段あまり身につけない古い着物である。
「そんな格好じゃあ、陰気臭いと言われるぜ。ここに着物と褌を置いておくから」
惣吉は、清蔵から言われた通りに今まで着ていたのを脱いでから、新たな褌と着物を自分で身につけている。清蔵は、惣吉の脱いだ着物と褌を洗おうとたらいを長屋の軒下へ出した。
清蔵は井戸から汲んだ水をたらいの中に入れると、そばにしゃがんでから惣吉の六尺褌を目の前へ持ってきた。
「うっ! こ、こんなに凄まじいにおいとは……」
惣吉が身につけていたその褌は、何か月も洗っていないのではと思わせるほどの汚れ様である。そこから漂う悪臭に、清蔵も思わず顔を背けてしまった。
なかなか汚れの取れにくい代物であったが、清蔵は自分の洗い物を含めてたらいでの洗濯を終えることができた。
「ふうっ、ようやく洗い終えることができたな」
清蔵が洗濯物を干している時、扉が開いたままの長屋の土間では惣吉がかまどでご飯作りに勤しんでいる。
「惣吉、飯を作ってくれてありがとうな」
「女房を早く亡くしたもので……。ご飯はこれでよろしいか」
「おれも、ご飯を食べる時はいつもこれだから気にしてないよ」
惣吉が炊いて木の器に盛りつけたご飯には、米と麦がそれぞれ同じくらい入っている。それに野菜が入った味噌汁が今日の朝ご飯である。
清蔵と惣吉は、互いに向かい合うように箸を使ってご飯を口にしている。普段1人で食事をする清蔵にとって、木兵衛以外の者と食することが新鮮と感じられるのは間違いない。
「あ、あの……。ちょっとよろしいでしょうか」
「惣吉、いったいどうしたんだ」
惣吉の唐突な一言に、清蔵も戸惑いを隠せない様子である。すると、惣吉が再び口を開いて何かをしゃべり始めた。
「実は、わしを追ってきた岡っ引のことなんですが……」
「あの岡っ引のことか。惣吉は何も悪さをしてないはずだろ」
「わしは悪いことなど全く起こしていない。むしろ、岡っ引の悪行をこの目で見ましてなあ……」
清蔵は、初耳となった惣吉が発した内容にうなずきながら聞いている。惣吉は相手の表情を見ながら、さらに言葉を続けた。
「口入屋から追い出されたわしは、新たな仕事を探そうと宝町から日本橋を渡ったとき、信じられない場面を目にしたんだ」
「そこに岡っ引がいたのか?」
「そうだ。そこで、岡っ引が捕まえた町人らしき男が言ったのを耳にしたんだ」
惣吉は、その時の状況を伝えようとさらに話を続けた。
「町人姿の男が怯えながら何か言っていると、岡っ引の連中が短刀を取り出して……」
「まさか、そいつらが」
「そう、相手の男の胸を短刀で刺してその場から逃げたんだ。血まみれで倒れたその男のところへわしが行ったときには、すでに息絶えていて……」
清蔵は、惣吉の口から出てくる信じられない言葉の数々に耳を傾けながら聞いている。しかし、さらに続く惣吉の言葉は清蔵の脳裏に衝撃を与えるものとなった。
「そんな時、あの岡っ引がわしを下手人と決めつけて捕えようとしてきたんだ。わしは、表通りから細い道を通ってこの裏通りへ逃げてきたということだ」
「自らが行った罪をなすりつけるとは……」
無実の罪を押しつけられた惣吉の姿を見ながら、清蔵は右手を握りしめるように怒りをこらえている。




