その3
西へ日が沈む酉の正刻、ツボ師の仕事を終えた木兵衛は急ぎ足で表通りへ出てきた。善治そばの軒下には、清蔵と惣吉がそこで待っている。
「お待たせして申し訳ない。こちらにいるのが惣吉なのか」
「ああ、そうですが」
木兵衛が清蔵の隣にいる男に声を掛けると、惣吉はすぐに反応した。
清蔵にしろ、木兵衛にしろ、理由なしに待ち合わせ場所へ呼び出すことはない。今回の目的は、惣吉のことを聞いてほしいという清蔵の意向によるものである。
蕎麦屋の店内に入ると、清蔵と惣吉は木兵衛と向かうように席へ座った。
「なあ、折り入って話があるけど」
「清蔵、その話って?」
「実はねえ、惣吉を木兵衛のところで仕事の手伝いをお願いしてもよろしいか」
木兵衛は、かけ蕎麦をすすりながら清蔵の話に耳を傾けている。同じように蕎麦を口にする清蔵を前に、木兵衛はすぐに言葉を返した。
「わしはツボ師なんだが、惣吉には裏方としての仕事を行ってもらうことにしようか」
「裏方というと?」
「客がくる前の準備や銭の受け取りはもちろんだが、わしがツボ師として施術を行っているところも見てもらう」
惣吉の顔を見た木兵衛は、その場で裏方として雇うことを即決した。これには、清蔵から聞いた話も大いに関係がある。
「鞘師の仕事は、大名や旗本を相手にするだけに慎重かつ緻密さが求められる。ツボ師の場合も一人前になるためには時間がかかるが、施術方法をきちんと覚えてくれるとこれほど頼もしいものはない」
木兵衛は、惣吉が見つめる眼差しが本気であることを改めて感じ取った。惣吉の口からは、初めて手掛けるであろう仕事への熱心な姿勢を木兵衛の前で見せている。
「ツボ師は、病を和らげたいという者の気持ちに寄り添って施術することが大切だ。そのためには、わしもかなり厳しいことを言うかもしれないけどついていけるか?」
「わしも、ツボ師としての施術を身につけたい。決して足手まといにならないようにがんばるので、よろしくお願いします」
惣吉の真摯な姿勢に、木兵衛もその気持ちを受け止めて快諾することにした。
「木兵衛、ありがとうな。惣吉は当面の間、おれの長屋から通うということで」
こうして、新たな職にありついた惣吉は、朝晩は清蔵と生活をともにし、昼間は木兵衛のもとでツボ師としての修業に励むことになった。
けれども、木兵衛と清蔵は鵜も手の仕事とは別に裏の仕事を生業にする立場である。もちろん、裏の仕事のことを他人に知られてはならないという厳しい掟があることは2人とも認識しているが……。
「しばらくは、惣吉が眠りに入ったのを確認しなければいけないな」
木兵衛の耳元へ小声で伝えた清蔵は、惣吉の暮らす長屋探しというもう1つの仕事が待っていた。
その日の戌の正刻、すっかり暗くなった中で清蔵は布団で眠る惣吉の寝顔をそばでじっと見ている。
「どうやら寝静まったようだな。これからいつもの場所へ行かないと」
清蔵は、障子張りの扉をそっと開け閉めして人通りのない裏通りに出てきた。そして、あの場所へ向かおうと夜の闇へ消えていった。
月が浮かぶ漆黒の闇の中、2人の忍は表通り沿いの屋根を風のように疾走している。そんな時、陽は影の表情を見てすぐに声を掛けた。
「影、どうしたんだ」
「惣吉から岡っ引の男たちのことは聞いたのだが……」
影が気になっていること、それは岡っ引たちの情報が少ないことである。これから向かう先は、岡っ引の2人が人殺しの蛮行を行ったとされる場所である。
「宝町から日本橋を通っているとき、岡っ引たちの悪行を目にしたということは……」
「おそらくこの辺りじゃないかな」
忍たちがいるのは、幕府や旗本、それに諸藩が有する蔵屋敷である。そこで、陽はある一言をつぶやいた。
「岡っ引は、廻り方同心に雇われて初めて意味を持つ。同心たちは、八丁堀に拝領した屋敷があるからな」
「そう簡単に言うけど、岡っ引2人の名前などまだ分からないのに、まして同心の名前となると……」
惣吉が知っているのは、岡っ引が2人組ということだけである。確証できる内容がこれだけとあっては早くも難航してもおかしくない。
そうは言っても、数少ない中から探りを入れるのが、裏の仕事における忍の男たちの役目である。2人の忍は、闇の中を駆け抜けながら同心屋敷の集まる八丁堀へ向かった。
南鞘町に近い新場橋を通った先にある八丁堀には、与力や同心の組屋敷が数多く集まっている。
「これだけの屋敷の中から、しらみつぶしに探さないといけないのか……」
陽と影は、二手に分かれて岡っ引の行方を追うことにした。
「もしかしたら、同心の家にいるかも……」
陽は、他の者に見られないように身を潜めながら岡っ引が現れるか探しているところである。手探りの状態という点では、影のほうもまた同様である。
「ここには、屋敷がどのくらいあるのだろうか……」
そうつぶやく陽の耳に入ってきたのは、影の発した声である。影が目にしたもの、それは表の立場で軒下にいたときにはっきりと覚えている2人の男である。
「おい、あの岡っ引が出てきたぞ」
陽は声が聞こえたところへ足を運ぶと、声の主である影と潜めるように同心屋敷から眺めている。その屋敷から出てきたのは、影の脳裏に焼きついている男たち2人の姿である。
「やはり、あの男たちか」




