その4
翌日、忍の装束を身にまとった陽と影は、南町奉行所表門の屋根にいた。目的は、筆頭与力・村崎柴三郎の動きを探るためである。
「陽、村崎の動きはどうだ」
「まだ奉行所から出てこないけど」
偵察は、狙いを定めた人物に動きがあって初めて成り立つものである。2人は音を立てることなく息を潜めながら、相手が出るのを待ち構えている。
そのとき、奉行所から村崎が現れると、陽と影はその動きの一部始終を注意深く見続けている。
「どうやら、馬に騎乗して表門から出るようだな」
「どこへ向かうつもりなのか」
村崎は馬に騎乗すると、奉行所の表門から町中を進んでいる。馬に乗った与力の鋭い眼光は、賑やかな町人衆も一瞬静まり返るほどである。
一方、忍の2人は町人連中から姿を見られないように、商家や問屋の屋根伝いを次々と飛び移っている。
「浅草の町を通ったら、田んぼが広がる農村があるけど、その一角に塀に格まれた建物が集まっているところがある。そこが吉原というところだ」
吉原の周囲には、遊女が逃走するのを防ぐために『お歯黒溝』なる大溝がある。その大溝を、陽と影は忍の修行で培った高い跳躍で吉原の中へ入った。
京町1丁目の木戸門付近にある遊女屋の屋根に飛び移ると、2人は身を潜めながら吉原の大門から入る男の中に村崎がいるかどうかを探ることにした。
「昼見世の時間は、ここへくる客もまばらといったところか」
「町人衆が吉原へ行くのは、賑やかな夜見世だろう。おれたちだって、表では職人連中と同じ仕事をしてるからな」
「昼にここにくるのは、遊び人か旗本連中か……」
忍たちが小声で話していると、木崎らしき人物が大門を通って吉原へ足を踏み入れた。
「町中では馬に乗っていたが、さすがにここへ入るときは馬から降りないといけないようだな」
陽の言う通り、吉原への馬での登楼は厳に禁じられている。これは、馬に乗ることが許されている与力も例外ではない。
2人は姿を隠しながらも、京町1丁目に近づく村崎の動きを注意深く見ている。
「木戸門から村崎が入って行ったぞ」
陽の目に映ったのは、京町1丁目の通りを歩く村崎の姿である。その歩き方を見る限り、怪しまれる様子は微塵もない。
人通りが少ないとはいえ、不自然な行動を取れば他の人から怪しまれるのは明白と言わざるを得ない。ましてや、奉行所で筆頭与力にある者ならなおのことである。
「村崎のやつ、やはり丸木屋の中へ入ったか」
「急げ! 村崎を見逃すんじゃないぞ」
丸木屋の瓦屋根へ飛び移った2人は、木崎が2階へ向かう階段を上がっている様子を目にした。
「よく見ろ、刀を差したままで座敷へ入って行くぞ」
「刀持ち込みの禁を破ってか……」
内所に刀を預けることなく、与力は堂々と遊女屋へ足を踏み入れた。その姿に、2人はさらに偵察を続けるべく屋根裏へ入ることにした。
音を立てることなく屋根裏に入ると、2人は屋敷の真上へやってきた。そこで耳に入ったのは、芸者が三味線をバチで打ち鳴らす音である。おそらく、与力と遊女との席で盛り上げるためであろう。
忍の2人が屋根裏にいる頃、村崎は自ら指名した遊女に声を掛けようとしていた。
「ほうほう、これはいい女じゃなあ。そちの名前は何と申すのか」
「わ、わっちはしのでありんす……」
おしのは、自分の体を触ろうとする村崎に対して嫌がる顔つきを見せている。しかし、遊郭ではお客様を楽しませることが遊女の役割である。
「わしの顔を見て緊張しているのか。今から2人きりになれば、おしのも満足するだろ」
自らの顔をおしのに近づけようとする村崎の姿は、南町奉行所の筆頭与力とは思えない醜態を晒している。おしのは何をされるか分からない状況で、村崎に対する廓詞を口にした。
「武左はようざんす!」
威張っている客を断ろうとする廓詞に逆上した村崎は、左腰に差している刀に手をつけた。
「この女! そんなに嫌ならこの場で……」
殺意に満ちた与力の目に、おしのは後方に下がりながら恐れおののいている。
そのとき、階段を上がる音が村崎の耳に入ってきた。
「ここで刀を振り回すところを見られたらまずい……」
他の客の前で人を斬るということがあれば、お家断絶は避けられない。わずかに残る良心が、最悪の事態になる手前で踏み止まることになった。
「ちっ、またくるからな」
村崎はそう吐き捨てると、遊女屋の階段を静かに降りることにした。その後ろ姿は、筆頭与力の皮を被った下手人のような雰囲気を漂わせている。
その一部始終は、屋根裏にいる忍たちの耳にも伝わっている。直接この目で見ることができなくても、村崎の殺気に満ちた様子は確かなものがある。
「あの与力、ついに本性を現したか」
「内所に刀を預けずに座敷は入るくらいだからな。楼主も番頭も黙認しているだろうな」
おしのに激高する様子から、筆頭与力である村崎が別の遊女を殺めたと考えてもおかしくない。しかし、村崎を下手人と決めつけるだけの確たる証拠はつかんでいない。
「その楼主と番頭が、今回の件にどれだけ関わっているかだろうな」
「こう考えたらどうかな。わしが思うに、村崎が部屋で2人きりで楽しんでいるときに遊女を斬り殺すとするだろ」
陽は、これまで表と裏でつかんだ内容をもとに語り出した。
「夜見世だと客も多いし、人を殺したということもすぐ気づくはず。だが、町人衆がほとんどこない昼見世ならどうか」
「それなら、あの件が起こったのは昼見世のときか」
「昼見世にくる客はあまりいないし、仮に遊女を殺めてもそれに気づかないこともあり得る話だ。そうすれば、遊女の屍が夜見世のときに発見されることだって辻褄が合う」
「なるほどな。あの与力が素知らぬ顔で丸木屋から出るということか」
「そして、遊女の遺体が見つかれば、同心を引き連れて丸木屋へやってくる……」
屋根裏での偵察から、遊女の殺害に関わったのは村崎であると見た忍の2人。
「あとは、楼主と番頭か……」
「村崎は奉行所へ戻るだろうから、陽は奉行所のほうを探ってくれ。おれは引き続き内所のほうを探るから」
陽は丸木屋の屋根裏から出ると、人々が見えないほどの素早い走りと跳躍術で吉原から南町奉行所へ向かった。
奉行所表門の屋根で潜めていると、馬に騎乗しながら闊歩する村崎の姿を見つけた。その表情は、どこかいら立ちを隠せない様子である。
「村崎様、ご苦労さまです」
「腹の虫が治まらない、早くこの門を通らせてくれ」
村崎は、まだおしのに対して根に持っているそうである。馬から降りて奉行所へ入室するのを見て、陽は奉行所の屋根裏から潜入することにした。