その8
蓮池濠をはさんだ向かいに見えるのが、2人の忍がこれから潜入する江戸城である。
「本丸御殿へ入るためには、あの濠から城壁へ登らないといけないけど……」
「前回と同じ轍を踏まないようにしないと……。これは、おれたちが忍である以前の問題だからな」
潜入ができなければ、何のための偵察なのか分からない。音階の潜入は、忍として課された使命を2人が改めて認識する機会である。
時は子の刻、忍たちは瓦屋根から飛び降りると、風のような動きで蓮池濠の中へ入った。2人は、暗闇の水中を潜めるように泳ぎ進めている。
「よし、今から城壁へ登って行くぞ」
陽が自ら投じた鉤縄を城壁の屋根に引っ掛けると、縄を持ちながら壁伝いに登ろうと足をつけた。
忍の2人が城壁の屋根に着地すると、すぐさまに次の行動へ移すべく意思確認を取っている。
「隠密はどこに潜んでいるか分からない。気を緩めるんじゃないぞ」
陽の言葉に影がうなずくと、この先にある数寄屋二重櫓へ疾風のように駆け出した。これは、あまりにも慎重すぎた行動が仇となった前回からの教訓である。
「二重櫓へ足を延ばしたら、本丸御殿の屋根に一気に飛び移るぞ」
目的の場所へ向かう忍たちであるが、その行き先を遮るかのように、隠密が突如現れては刀で襲い掛かってきた。
「あの時の忍め、地獄へ落ちやがれ!」
いきなりの襲撃に、2人の忍は素早く身をかわすと取り出した刀を横に構えている。
「あいにく、わしらは急いでいるもので……」
「ここで手間取るわけにはいかないなあ」
隠密を挟んだ位置で構える忍の男たちは、互いに相手へ刀を向けている。
「お前らがどう言おうと、江戸城に侵入するやつはその場で始末するだけだ」
隠密は冷徹な顔つきで言い切ると、目の前へ迫ってきた陽の攻撃をかわそうと自らの刀を合わせた。しかし、隠密の行動を読み切った陽は、刀同士がぶつかった状態から振り下ろすように斬っていった。
「お、おのれ……」
その場に倒れたまま息絶えた隠密の姿を見ると、2人の忍は数寄屋二重櫓から本丸御殿に向かって高く跳びあがった。
「あれが本丸御殿の玄関だな」
「玄関の右側に徒目付の番所があるようだ」
陽と影は江戸城の屋根を疾風のように素早く走り駆けると、本丸御殿の玄関に通ずる屋根裏へ忍び入った。
ここへ入るのには、ある理由がある。それは、1階と2階の双方とも偵察をすることができるからである。
「春町を殺めたのは常御用だろうけど、それに命を下すことなく行うとは到底思えないな」
「自ら常御用に命を下すことができる目付や組頭がどうも怪しいということか」
春町殺しに目星をつけると、2人の忍は玄関の右側にある番所の真上から耳を当てて探りを入れようとしている。
「大変だ! 二重櫓で見張っていた隠密が何者かに斬られて……」
隠密の屍を城壁で見つけた徒目付の1人が、慌てた様子で組頭の隈沢利兵衛へ報告しようと口を開いた。その言葉に、隈沢の口元が震えていた。
「また、あの伊賀者なのか……」
江戸城内外で自ら放った隠密が斬られて命を落としていることに、隈沢は危機感を抱いている。
「霧村様にこの件について伝えなければならないが、既に屋敷へお戻りになっているし」
「では、明日直接お会いして伝えるということでよろしいでしょうか?」
「そういうことだ。せっかく春町を亡き者にしたはずなのに……」
隈沢は握りしめた拳を震わせながら、見えざる者への怒りをにじませている。
「やはりそうか。春町を殺めた張本人がいたとは……」
「殺しは隠密にやらせて、自らは手を汚さないからな。たちの悪さが際立っているし」
忍たちは、隠密を動かすことができる組頭と目付の存在に着目している。
「殺しの標的を誰にするかは固まったが、問題は実際に行う場所だな」
「将軍の居城で行うわけにはいかないし……」
「隈沢の口から出てきた霧村という目付がいる屋敷を突き止めないといけないな」
翌日、2人の忍は再び本丸御殿の屋根に足を踏み入れた。ただし、前日のように長く居るかどうかは分からない。
「霧村がこの玄関から出るかどうかで、自らの立ち位置が旗本なのか、御家人なのかがすぐ分かるな」
「影、本当にそれで分かるのか?」
「武家町を回っていると、旗本や御家人がどうやって江戸城へ入るのか密かに耳にすることがあるわけさ。ちなみに、旗本と御家人の違いは分かるか?」
「う~ん……。どういった違いがあるのかちょっと分かりかねるなあ……」
「1つは将軍への謁見、もう1つは大名と同じ門を通ることだ。本丸御殿の玄関から出た場合には、大手門から城外へ出ることになる」
表の仕事が鞘職人である影にとって、武家屋敷で相手に気づかれない形で情報を得ることが少なくない。
そんな時、玄関真上の屋根にいる忍たちの耳にある言葉が入ってきた。
「本日はこれにて失礼いたします」
「霧村様、明日もお願いします」
徒目付の1人が深々と頭を下げると、霧村は玄関から出てすぐ先の中雀門へ向かった。
「あれが目付の霧村誠之助か」
2人の忍は、相手に気づかれないように屋根へ身を潜めながらその姿を確認している。
「ここからだと後ろ姿しか見えないなあ。大手門から出るところなら、霧村の顔をはっきりと見ることができるし」
「それなら、先回りしたほうが手っ取り早いな」
風のように素早い動きで城外に出た2人は、姿が見えないほどの速さで武家屋敷の屋根沿いを走り駆けている。
「ここが大手門だな」
「かなり厳しい警備を敷いているぞ。少しでも油断すると、鉄砲や弓矢で蜂の巣にされてしまうぞ」
江戸城は、将軍の居城であるが故に侵入者への警戒感が強いが、とりわけ大手門では譜代大名が受け持つほど警備のほうも厳重に行われている。
忍たちが潜めるように桝形の城門をのぞいていると、大手門を通ろうとする男の姿が目に入ってきた。
「あの男、本丸御殿から出てきた後ろ姿と同じ裃を着用しているぞ」
端正な顔つきをしたその男は、火を灯した提灯を持った若侍2人を先頭に奉公人を従えて常磐橋御門に差し掛かっている。
その動きを逃すまいと、2人の忍は大名屋敷の屋根沿いを走り駆けている。