その9
「霧村殿、暗い中ですから足元には十分ご注意ください」
「そんなことぐらい分かっていることだ」
霧村たちの一団は、商人地の本町や大傳馬町を歩いている。その間も、装束姿の2人は疾風の如く屋根の上を駆けながら、闇夜に包まれた通りを進む旗本連中の動きを注視している。
すると、霧村たちが横山町1丁目の路地から右へ曲がるのを2人の忍が目にした。
「武家屋敷が立ち並ぶところへ入っていったな」
屋根を走り駆ける忍の男たちは、武家屋敷の前に立ち止まっている霧村たちの姿を見つけた。
「どうやら、ここが霧村の屋敷のようだな」
門番のいる表門から入った霧村は、その先にある屋敷の玄関へ向かって歩いている。
「行くぞ!」
忍たちは霧村の屋敷の屋根へ飛び移ると、誰にも気づかれないように身を潜めた。
「ところで、隈沢は霧村にもう会ったかどうかだが」
「そんなことまで俺は知らねえよ」
そんな時、屋敷の表門に1人の男がやってきた。2人の忍は、羽織袴を着用したその男を注視している。
「服装からして御家人のようだな」
「こんな時間にわざわざ武家屋敷にくるのには、どんな意味があるだろうか」
御家人の男が玄関に隣接した通用口へ入ったのを見ると、陽と影はすぐさま屋根裏のほうへ足を入れることにした。簗に沿って音を立てることなく進むと、何やら笑い声らしきものが下のほうからかすかに聞こえてきた。
その声の主を探そうと、2人はそっと耳を当てることにした。
「ふはははは! 隈沢か、よくきたな」
霧村は酒に酔ったのか、西の丸での姿とは違う豪快な笑い声を上げている。そんな桐村の前にいるのが、徒目付組頭の隈沢である。
「霧村殿、こんな夜分にお邪魔して本当に申し訳ない」
「そんなことぐらい気にすることはないさ」
いつもとは違う霧村の姿に、隈沢は相手の機嫌を損ねないように口を開いた。
「早速ですが、隠密を担う常御用が外部の伊賀者によって命を落としているそうだが」
「これはまずいなあ。定信公はかなりご立腹しているそうだ」
常御用は老中から命を受けることが多く、隠密として城内警備や江戸市中での内偵を行う貴重な存在として重宝されている。将軍の権威を保つためにも、隠密の偵察は必ず結果を要求されるのは言うまでもない。
「定信公の目の上のたんこぶだった恋川春町を亡き者にしたというのに……」
霧村は、いら立ちを隠せない様子で徳利から注いだ酒を口に含ませている。
「霧村殿、あまり飲みすぎないほうが……」
「何か言ったか?」
「い、いえ……」
「まあ、いいだろう。夜も更けていることだし、そろそろ戻ったほうがいいぞ」
霧村の言葉にうなずいた隈沢は、その場で頭を下げながら別れの挨拶を口にした。
「霧村殿、それではこの辺で失礼いたします」
これまでの一部始終を耳にした陽と影は、今回の春町殺しに深く関わった2人の人物を固めた。
「目付にして旗本の霧村誠之助、徒目付組頭にして御家人の隈沢利兵衛の2人か……」
「殺しの標的を最終的に決めるのは元締だが、それを判断するのはこれまでの偵察でおれたちが手に入れた内容だからな」
2人の忍は、殺しの標的となる男たちの存在を元締に伝えようと霧村の屋敷から去ることにした。
主なき長屋の地下部屋に集まった忍たちは、ろうそくの明かりで照らされた元締の前で口を開いて語り出した。
「春町の死についてだが、首に引っかき傷があることを考えると、隠密が首吊り自殺に見せかけて殺したというのはまず間違いないだろう」
「徒目付の中でも隠密を行うのが常御用と呼ばれる連中だが、今回の春町殺しは常御用に命を下した2人の男が関わっていてなあ……」
陽と影の報告に耳を傾けた元締は、その場で自ら口を開いた。
「その2人の男とは?」
「目付にして旗本の霧村誠之助、徒目付組頭にして御家人の隈沢利兵衛の2人です」
「常御用が黒装束の隠密として春町殺しにを行ったのも、2人の命に従ってのものだからな」
2人の武士の名前を聞いた瞬間、元締は殺しの標的となる男の名前を挙げた。
「殺しの標的は、霧村誠之助と隈沢利兵衛の2人だ」
町人衆に親しまれた黄表紙を代表する作者の命を奪った張本人を許せないのは、2人の忍の共通する認識である。
元締が小判2枚ずつを床に置くと、これから実行する忍たちが手でつかむように受け取った。
「江戸城本丸御殿に敵の襲撃をかわして忍び込んだにもかかわらず、いつもと同じかよ……」
相変わらず報酬のことで文句を吐く影の姿に、陽はなだめるように言葉を掛けた。
「確かに、今回の場合は江戸城という厳重な警備が敷かれている場所での偵察だったから、影がそう言いたくなる気持ちは分かるけど……」
冷静さを保つよう静かに伝えた陽の言葉に、影も落ち着きを取り戻した。
「あの2人、今夜も霧村の屋敷で会うそうだ。隠密も姿を現すかもしれないから、決して油断するんじゃないぞ」
「そのくらいのことは認識している。許せないやつらを相手に緩めることは一切ないからな」




