その2
次の日の夜、木兵衛はツボ師の仕事を終えるとその足で吉原へ向かった。裏の仕事で忍の姿ならば、その身体能力を生かした素早い走りで行くことができるが……。
「この姿が町人衆に知られたら……」
木兵衛と清蔵が忍になって裏の仕事を行っていることは、町人たちは知らない。いや、知られてはならないというのが正確である。露見されたら、忍びの掟により死の制裁を受けなければならない。そのような厳しい戒律の下で、木兵衛は表と裏の両方の顔を使い分けている。
江戸の中心から歩いて浅草を過ぎると、周囲に田んぼが目につくようになった。山谷堀の上に掛かる紙洗橋を渡ると、そこには独特の雰囲気を漂わせる町が広がっている。
吉原は3丁四方に塀で囲まれており、唯一の出入り口である大門を通り過ぎると仲の町と呼ばれる大通りが見える。
仲の町に足を入れると、夜空に映える満開の桜がどうしても目に入ってしまう。桜の木は、多くの男性客で賑わいを見せる吉原の象徴である。
「もう戌の刻か……」
木兵衛は、遊郭へ入る男たちを横目に京町1丁目に通ずる木戸門をくぐることにした。そこでは、商人らしき男が格子張りの張り見世に並ぶ遊女の品定めをする姿がある。
そんな男たちで賑わう中、大きな悲鳴が響き渡ったのはそのときのことである。品定め中の男たちも、それどころではないとばかりにその場所へ一斉に向かった。
遊女屋の丸木屋に野次馬のように集まった男たちの前に出てきたのは、命を落とした遊女の変わり果てた姿である。
「いくら何でも、こりゃあひでぇなあ」
戸板に寝かされた遊女の遺体に、周りの男たちも驚きと悲しみを禁じ得ない。同じ場所で客の相手をしていた遊女たちも、涙をこらえずに立ち尽くしている。
木兵衛は野次馬から前へ出ると、ムシロを掛けられた女の死体のそばへ寄った。
「こ、これは……」
ムシロを取ると、女郎がつけていた派手な衣装が血にまみれていた。10か所近くにも及ぶ深い刀傷は、遊女にとって致命傷になったようである。
あまりにも残酷な殺され方に、男どもは思わず目を背けたくなる光景である。それでも、木兵衛は元締めの言葉を思い起こしながら、遊女が殺害された事実を受け止めていた。
そのとき、男たちを押しのけてやってきた1人の与力が木兵衛の前へやってきた。
「おい! こんな所で何しとる!」
「いや、わしはこの遊女がなぜ死んだのか確かめようと……」
「貴様には関係のないことだ! さあ、そこをどいたどいた!」
南町奉行所筆頭与力の村崎柴三郎は、木兵衛を無理やり押しのけると、検屍を行うために配下の同心を呼び寄せた。木兵衛は、村崎の鋭い眼光に男たちの周囲に戻るしか他はなかった。
それでも、木兵衛は遊女の屍を見ただけで何かを感じ取ったようである。
「どうも、町人衆の殺し方とは明らかに違うなあ……」
商人や職人といった町人は、基本的に帯刀することができない。そのため、町人が殺しを行う場合の多くは短刀を使うことが多い。
「短刀だと何か所も突き刺すことができるが、あの斬られ方はその類ではなさそうだ」
木兵衛は、吉原に出歩くことの多い旗本連中が犯人ではないかとにらんでいる。
江戸の町の大方が寝静まる中、陽と影はいつもの隠し部屋で密かに声を交わしている。その内容は、例の吉原に関することである。
「遊女の殺害の件だが、その斬られ方から考えると、帯刀している者が怪しいと見ているが」
「帯刀か……。その線で行くと、旗本か顔役のいずれかになるな。御家人は遊郭に行くだけの銭を持っているわけではないだろうし」
2人は遊女殺しの犯人を帯刀者に絞り込むと、さらに調べるべく役割を分けることにした。
「わしは、丸木屋の遊女にその時の状況について調べるつもりだ」
「おまえが表のほうなら、おれは裏のほうから行くぜ。もしかしたら、妓楼の楼主がこの件の鍵を握っているかもしれないな」
次の日、木兵衛は殺害の現場となった丸木屋へありを入れた。夜見世とあって、妓楼の中は多くの客で賑わっていた。
この様子に、木兵衛は違和感を抱かずにはいられなかった。
「なぜ遊女は、あれだけ凄惨に殺されなければならなかったのか……」
丸木屋は、小見世と呼ばれる小規模の妓楼である。2朱(500文)のお代で遊女と楽しむことができるから、町人衆の男たちで賑わうのも分かる気がする。
「そういえば、楼主が鍵を握っていると影が言っていたが、もしかして……」
通常なら、妓楼内での帯刀は禁じられているはずである。侍といえども、刀を楼主の居場所である内所に預けなければならない。
それにも関わらず、ここで起こった遊女殺しでは刀が使われた可能性が極めて高い。
「帯刀している侍が内所へ行かずに2界の座敷へ入ったのか、あるいは遊女の殺害に楼主が関わっている可能性も……」
木兵衛は、入り口にいる見世番に張り見世で目をつけた遊女の名前を尋ねた。見世番は中にいる番頭に取り次ぐと、木兵衛を2階の階段のところまで案内した。
木兵衛は階段を上がりながら、遊女屋で殺めた者がどうやって逃げたのか頭の中で考えている。
「殺しでなくても、あれだけの騒動を起こした者は吉原一帯に知れ渡るだろうし……」
この吉原で罪を犯す行為を行えば、唯一の入り口である大門が閉鎖されて罪人を捕まえることに躍起になるはずである。そのため、吉原には大門の右手に奉行所から派遣された同心やその配下の岡っ引きがいる番所がある。
「しかし、あのとき見た限りでは殺しを行ったやつがここを通った様子はなかったな。そうなると、階段から降りて1階へ……」
木兵衛は、これまで仕入れた情報をもとに犯人の動きを推測した。しかし、ここはあくまで男性が遊女と楽しむ場所である。
「今はあくまで表の立場だし、ここで妙な動きをしない方が無難だな」
階段を上った木兵衛は、座敷で指名した遊女がくるのを待っていた。そこへきたのは、華やかな着物を着て髪かんざしをした美しい女性である。
「おいでなんし。わっちは、おしのでありんす」