こうして澤乃井鏡花は巻き込まれる。
──……そういう理由で、私は今、ここにいる。
「…………」
──本当は、どこかの大型コンピュータに、こっそりと間借りしようと思っていたのだけれど。残念なことに、この時代に存在する記憶媒体には、私を保存出来るだけの容量がなかったのね。
「…………」
──仕方なしに、人間の脳内ネットワークの内、普段は使われていない部分に居候させてもらうことにした訳。
「…………」
──あなたも、聞いたことくらいあるでしょう? 人間の脳には素晴らしい可能性が秘められているわ。私の時代でも完全には解析されていないのだけれど、これはまさに一つの宇宙よ。アカシックレコードとつながっているという説もあるわね。
「…………」
──ああ。何故、貴方なのか。それは……なんというか……そう、一言で言ってしまえば、波長が合ったから、でしょうね。
「…………」
──状況はわかってもらえたかしら? なら、あなたの内側にいさせてもらう許可を頂きたいのだけれど。
「…………」
──色々と混乱しているのはわかるけど、聞こえないふりをしても問題は解決しないわよ?
「…………」
──仕方がないわね。こうなったらわかってくれるまで説得を続けるしか無いようね。……そういえば、知っているかしら? これは特に関係のない話なのだけれども、私達情報生命体にとって、睡眠とは必ずしも必要なものではないのよ?
「……許可も何も、既に勝手にいついているじゃないの」
ふううううううううううっと。
肺の中身を全て吐き出すかの様な長い長い溜息をひとつ。そして、80%が苛立ちで構成された一言がその整った唇から紡ぎだされた。ちなみに残りの20%の成分は、諦めである。
つい先程までの彼女は、これまでの人生において最も安定した、幸せな精神で日々を過ごしていたというのに。それがどうしてこうなった。心当たりなど欠片もない。憤りの行き場さえ定かならず、澤乃井鏡花は苦悩する。
もう一息、ふうっと、溜息が漏れだした。
澤乃井鏡花は、孤独な少女だった。
人との付き合い方がわからない。距離感がどうしても掴めない。こちらから求めれば、何故か相手は逃げていく。逆に、近づけたくなどない、どうしても苦手な人間が妙にすり寄ってくることもある。幼い頃からずっと、そんな日々が続いていた。
そしていつしか、彼女は疲れてしまった。諦めてしまった。仮面をかぶり、心を晒すことなく、誰かとの交流は表面上のものだけ。そんな女の子になってしまっていた。
その理由は、いくつかある。
彼女が類い希な美貌に生まれついたとか、大人顔負けの明晰な頭脳を持ちあわせていたとか、生家が日本経済に強い影響力を持つ旧財閥系に連なる家だったとか。そして、本来の彼女の気性はとても純粋な、傷つきやすいものだった、とか。
中学校を卒業する頃には、彼女はすっかりとすり減ってしまって。かつてはキラキラと輝いていた心も、今では黒ずんだ鈍い色。
そんな彼女に、両親も流石に思うところがあったのだろう。本人の希望もあって、高校生活はそれまで生活していた場所から遠く離れた、鏡花のことを知る者のいない場所で過ごすことになった。
週に一回ハウスキーパーの人が来るけれど、基本的には一人暮らし。その環境で、摩耗した心をゆっくりと癒やしてことになったのだ。
そして、その新しい生活の中で。鏡花は、運命と出会った。
彼女自身すら発したことに気付いていない、微かな救難信号を察知した教師、吉野川真澄。彼女との交流はゆっくりと、だが確実に、鏡花の心を解きほぐしていった。
週末のボランティア活動に駆り出された。無理矢理に小説を書かされ、文学系の同人会に参加したりもした。掃除を手伝えという建前で招かれ、彼女の部屋に泊まり込んだこともある。ちなみに、実際に随分と散らかっていたため、鏡花の掃除スキルがメキメキと上昇することになった。
妙に男前な吉野川先生は鏡花を様々なことに連れ出し、その中で人との付き合い方を教えてくれた。決して押しつけがましくなく、一緒に笑い合ってくれた。
こうして、鏡花は友人を得た。教師と生徒という関係であるし、年だって10歳も違う。それでも鏡花にとって、このお節介な教師は恩師であると共に。紛れもなく、大切な友人だった。
そして、鏡花には好きな人も出来た。
鏡花と同じように心に問題を抱え、同じように吉野川先生に連れ回されていた同じ年の男の子、久保田亮。鏡花と共に成長していった、彼。
一緒に悩み、一緒に笑い、時には一緒に泣いて。いつしか鏡花は、亮とずっと一緒にいられたらいいのになと、そう思うようになっていた。
そして、同時に。亮だけではなく、先生も含めたこの三人が、一緒にいられたらいいのにと。そうも思うようになっていた。
自分が、二人に依存している。その自覚は正直、ある。
それでも、今更二人を手放すなんて、鏡花には考えられなかった。今更、あの灰色の生活に何て戻りたくはなかったのだ。
だから、この恋には迷いがあった。もし自分と亮が結ばれることがあったなら、先生は自分たちから離れていってしまうのだろうか。それを考えると、とても怖い。心がぎゅうっと締め付けられる。
また、仮にだが。本当に仮の話だが、亮と先生が結ばれてしまったら? 果たしてその時、自分はどうなってしまうのだろう。
先行きに対する不安はある。
それでも鏡花は、今がとても幸せだった。
だと、いうのに。
だというのに、だ。
──……ああ、良かった。きちんと聞こえていたのね。こちらからでは確かめようがないから、私の声が届いていない可能性を考慮して震えていたところよ。
それが一体どうして、こうなってしっまったというのだろう。
「……騙したのね」
──そんな、人聞きの悪い。現状、私にできるのは声を発することだけなのだから、仕方がないとは思わないかしら。右も左も、上も下もわからない真っ暗な真の闇の中に放り込まれたとしたら、貴方だって言葉を紡いで平静を保とうとするはずよ。
しれっとした顔で反論される。いや、顔など見えはしないのだが。現在、鏡花は自分の内側から聞こえてくる声と対話しているのだ。
自己啓発だとか、そういう意味での内面の声、ではなく。文字通りに、自分の中にいる他の誰かの声が、耳の奥に響いてしまっているのだ。
前兆のようなものは何もなかった。
普段通りに帰宅し、普段通りに夕食を取り、普段通りに風呂に入り、普段通りに猫動画を堪能する。
ベッドの上に寝転がり、スマホで「キュウリに驚く猫」を再生。
びっくりさせるなんて猫が可哀想だけれどああでもあの大げさにすぎるリアクションが可愛すぎてたまらないああもうどうしましょうにゃあにゃあ。
と、そのときだ。
鏡花の身に異変が起こったのは。
──……もしもし? 私の声が聞こえるわよね? 突然でごめんなさい、大事な話があるの。どうか聞いてもらえないかしら?
突然聞こえてきた声はそう前置きすると、今から千年以上の時の彼方で起きた人類滅亡の危機について説明を始めた。
そして、吉野川先生に特定のお相手がいない理由について、朗々と語りだしたのであった。
そう、吉野川真澄教諭は20代も後半の結婚適齢期だというのに、未だに浮いた話の一つもないのである。それどころか、これまでに男性とお付き合いしたことすら一度もないという。
こんなに美人で優しくて魅力的な女性だというのに、不思議な話だと鏡華は思う。そして同時に、どこかとてもほっとしている自分にも気付いていた。
「私だってなあ、結婚したいんだよう」
泊めてもらった際、酔ってそんなことを呟いている彼女の姿を見た時は、つい思ってしまったものだ。大丈夫、私がもらってあげるから、って。
暴走気味だった自分の話はさておき。先生が男性に縁がない原因として、そんな壮大な背景があったとは。
……って。ちょっと待って、一体この声、何なのよ?
最初は、猫動画の背景に変な声が入り込んでいるのだろうかと、腸を断つ思いで動画再生を停止したのだが、変化なし。次に、スマホが通話中になっていないか、部屋に見知らぬ音声再生機器が設置されていないかと確認して回るも、これまた特に異常なし。
あれやこれやと、思いつく限りのあらゆる可能性を検証しては消していき、脳内語りのストーリーがクライマックスを迎える頃には、いいつの間にやら草木も眠らん三つ時。
時ここに至り、遂には確かに自分の心の中に響く声なのだと、認めざるを得なくなってしまったのだった。
となれば、この声の正体として残された可能性は二つ。
一つは、これが自分の精神が分離したもう一つの人格であるというもの。解離性同一性障害、平たく言ってしまえば多重人格だ。サイコ。
だが、待って欲しい。確かに自分には、精神面において不安定な所があるというのは自覚している。だからといって、急に何の予兆もなくこのような症状が現れるものだろうか。
三人の関係が将来どうなってしまうのかという不安は、確かにある。あるけれど、仮定の未来の話で精神が分裂するほどのストレスを感じるとは、流石の自分でもないだろうと信じたい。
ならば、残された可能性は、ひとつ。
つまりは。
「……色々と考えたのだけれど、貴方という存在が私の中に入り込んでいるというのは間違いないようね。誠に遺憾ながら」
そういうことだ。
結局、認めるしか無いらしい。まさか自分の身に、マンガやアニメの世界のような出来事が起きてしまうだなんて。
これが亮だったら、もしかしたら喜ぶのかもしれない。彼、結構そういうの好きだから。しかし、自分は澤乃井鏡花、なのである。
──あら、まだそこから説得しなくてはいけなかったの。なかなか強情な人ね。でも、貴方のような簡単に流されない人は嫌いではないわ。
「どうもありがとう。褒め言葉と受け取っておくわ。……それで、許可というのはどういう意味なのかしら? 貴方は既に私の中にいるのでしょう?」
──……そうね、ダウンロードはしているけれど、インストールはまだ。そう言えば、なんとなく理解してもらえるかしら。現状では、さっきも言ったとおり、私は暗い闇の中。出来ることは、貴方との会話だけ。管理者である貴方の許可がなければ、私にこれ以上のことは出来ないの。
「インストールという言葉からは、私を乗っ取るといった意図が透けて見えるのだけれど……」
──人のことをウイルスみたいに言わないでほしいわね。インストールしたからといって、体の主導権を手に入れるわけではないのよ。
「それじゃあ、具体的にはどうなるのかしら?」
──貴方の見ている光を見て、貴方が聞く音を聞く。貴方が触れたものを感じ、貴方が食べたものを味わう。あとはそうね、貴方の許可があったり貴女が気を失ったりした時には、体の操縦もできるようになるかしら?
「……乗っ取れるんじゃないの……」
思わず、こめかみを押さえる。
指先に血管がヒクつくのを感じるが、これは頭痛なのか、怒りなのか。
──だから、そんな悪性のウイルス扱いしないでってば。セキュリティソフトの導入だってインストールでしょう? それに、一方的に与えてもらうだけのつもりはないわ。もちろん、見返りも用意してあるのよ。
見返り。
自称、千年後の技術力で作られた情報生命体。ただし、外部へ働きかける能力は無い。そんな存在が、一体何を用意できるのか。単純に、気にはなる。
──それはもちろん、情報よ。私に中に眠っている、未来の知識を分けてあげるわ。宇宙戦艦の建造法とか、テラフォーミングの方法とか、興味ない? 縮退炉とかエネルギー問題が解決するし、色々と応用が効いて便利よ?
「ちょっと、規模が大きすぎるのではないかしら……」
一介の女子高校生が、宇宙戦艦のオーナー。うん、ないわね。
──意中の人を振り向かせる那由多の方法、異性編と同性編。とかもあるけれど。
なにそれ知りたい。
いや、違う違うそうじゃない。そうでは、なくて。
もちろん自分の未来は自分の力で切り開くものであって、無条件に誰かを頼るような行為は慎まれるべきだろう。幼い頃からの教育で自分はそれを学んでいるし、吉野川先生からもそれを教わった。だがしかし、仮にとある情報を手に入れたとして、情報それ自体に意思というものがあるわけでは当然、無い。手にした情報をどう使うか、どう活かすかという判断は持ち手の意思と能力に委ねられている。ならば、情報を手にする機会があるのならば貪欲にそれを欲することこそが正道であり、また自分自身の成長に繋がる行為であろう。特に自分の将来を鑑みるに、両親の経営する会社、ひいては日本経済そのものを導いていくという役割が期待されているであろうし、今となっては自分にもその覚悟がある。ならば先ほど耳にした意中の人を……違う、宇宙戦艦の建造法などの知識を応用すれば、製造業やその他の分野においても技術の革命となり得るのではないだろうか。そしてその技術を使って自分の会社だけでなく世界そのものをより良い方向へ向かわせることが出来るならば、それは間違いなく素晴らしいことに違いない。その場合には自分の収入も十分に高い水準に達していることだろうし、ならば大切な人二人くらいを養っていくのに何の問題があろうか、いやない。ぜいぜい。
時計の針は更に進み、もう間もなく空が白み始める頃合い。
少々思考に乱れが起きたとしても、それもまたしかたのないことなのである。
──何か凄い葛藤を感じたのだけれど……まあ、いいわ。情報についてだけど、これは先に言っておくけれども、私の知っている全てを無条件に教えてあげれるわけではないの。これは了承してちょうだい。
「……例えば?」
──例えば、そうね。タイムマシンの製造法を教えてあげることは出来ないわ。過去を変えに来た私が言うのも何なのだけれど、これは非常にリスクの大きい行為よ。一歩間違えば、世界の様相が様変わりするくらいでは済まないわ。私の時代でも本来、タイムトラベルは禁忌なのよ。
「それは理解できるけれど……そもそも、そんなものが現代の科学力で製造可能なのかしら?」
──物体の時間移動は難しいけれど、質量を伴わない情報のみの移動で構わないなら、以外に簡単に作れてしまうのよ、これが。安全性を問わないのであれば、そこらの大学生でも作れるくらいに。材料も家庭にある電化製品でだいたい揃うわ」
にわかには信じがたい。タイムマシンなどという空想科学上の産物が、そんなお手軽に作れてしまっていいものなのだろうか。
興味が湧く。作る作らないの問題ではなく、知識欲が騒いで仕方がない。
「……参考までに、その材料が何か、聞いてもいいかしら?」
──どうやって組み立てるかは教えてあげられないけれど、まあ、基本となる材料くらいなら。
ごくり。思わず喉が鳴る。
鏡花は文系科目においても素晴らしい成績を残しているが、本来の性質としては理系寄りなのだ。自分が理屈で出した結論に、感情が追いつかなくて悩んだりする質なのだ。
なので、知らないことを知るという行為が純粋に楽しくて仕方ない。
――ざっくりと言ってしまうと、ワームホールを利用して時間跳躍を行うの。その前提として、マイクロブラックホールを発生させれば良い訳ね。
何と。古典的なタイムマシン理論は真実であったのか。
理論的に不可能とか、可能性はあるとか色々言われているけれど。この情報生命体が存在を証明してしまった。まあ、他の誰かには言えないけど。心の病気と思われてしまう。
──ここまで言えばわかったでしょう? 必要なのは、ハドロン衝突型加速器よ。
なるほど。
って。ちょっと待て、おい。
「……えっと。それって、陽子を加速して衝突させて素粒子反応を起こすっていうあれ、かしら?」
──そう、あれ。
それは、高エネルギー物理実験を目的として建設された設備の名前である。確かに、あれによってマイクロブラックホールが発生するかもという話はあった。
結果として地球が滅亡するかもなんて、都市伝説的な話もあった。あったの、だけれども。
「それを材料に使うには、少し無理があると思うのだけれど」
スイスとフランスの国境をまたいで設置されている、大型ハドロン衝突型加速器の全周は27㎞。
山手線一周よりは少し短いくらいである。
──この家にはないの?
「少なくとも私は、電気屋さんで売っているのを見たことはないわね」
──白物家電なのに?
「……聞いてもいいかしら? それって何に使う家電なの?」
──頑固な汚れ物とか、よく落ちるわよ?
…………。
鏡華の口から、今宵何度目かの溜め息が漏れた。
窓から外を覗けば、朝日が眩しい。
気がついてみれば、もう随分な時間、話し込んでいる。外から見れば、ずっと独り言をつぶやいている怪しい人だが。
これも、吊り橋効果的なものなのだろうか。気がつけば、この正体不明の同居人に随分と心を許し始めていたように思ったのだが。
──急に無言になって……どうかしたのかしら?
妙に冷えた頭に、声が響く。
鏡花はもう一度、ふううううっっと。長い長い溜息をつくと、放置していたスマホの猫動画を再生した。
画面の中で、多数の白い毛玉がもこもこと動き回っている。
にゃあ。にゃあ。にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあ。
「にゃー」
──え? 何、どうしたの?
今はどうにも、返事を返す気力がない。体力にはあまり自信がないのだ。徹夜は厳しい。
コテンと、ベッドに体を横たえる。そのまま澤乃井鏡花の意識は、急速に拡散していった。
願わくば、猫の夢を見れますように。
にゃあ。




