天使の叫び 第四章
沼が突如、霧に変わる。そこから、悍ましい臭いが噴き上がる。沼の底から風が吹き出しているらしく。
そして、黒い沼が覆い隠していたものが姿を現す。
損傷激しい何処かの村人の死体を咥えた獣の像を形作る血の霧を纏った"それ"は、5秒程度の対峙の後、本体を露わにした。
どさり、と、その死体を地面に放りだして。
一糸纏わぬ、黄金比の裸体の、喩えるなら、未熟な黄金果実。その方面の愛好家には堪らぬ、幼女ともいえるような美少女が、口元を血で汚して、立っていた。
一度目の惨劇を見ていた兵士はそれを見て気付く。幼くなっている。退行している。堕ちるわけでもなく、退行している。純粋なまま、ただ、退化している。
これは、不味い。一つの意味ではない。複数の意味で、不味い。その一つは、これ。
人の様々な退役で汚れたその体ではあったが、兵たちの3割はそこで、欲情し、堕ちた。そして、襲い掛かる。狩るためではない。喰うために。未熟な最上の果実を貪るために。
彼らの目はそう言っていた。
遭遇から僅か10秒。本能の獣となった3割の兵は、動かぬ肉人形へとなり果てた。
獣の天使の外見から、僅かに油断を生じさせた残り7割の兵も、それを見て、態度を改めた。
恐怖で逃げ出す腑抜けは、誰一人いなかった。
彼らは素早く、空いた場所を詰め、陣を再形成する。獣が襲ってくることも考え、構えたまま、素早く動いた。
獣は襲ってこなかった。
彼らが規律通りに、作戦通りに並び変わるのを、油断せず、こちらから一瞬たりとも目を逸らさないのを、ただ、見ていた。
それは、意図があってそうしていたのか、たまたま気まぐれでそうしていたのか。分かりはしない。
司令官である男が、陣の中から声を上げる。
「堕ちし天使よ。我らと共に、地の底へ沈め」
その掛け声とともに、戦闘は始まった。
陣形を維持したまま、詰め寄る。全身盾を持った前。長槍を持った中央。クロスボウを持った後。
一方的に攻撃するための、一つの装置となり果てるための陣。
にじり寄る。
先頭からの距離が10メートル程度になったところで、獣が起動した。
跳ねるように、人が全力で疾走するよりもはるかに早く、不規則な軌道をえがいて、出鱈目ランダムに見える数秒から数十秒、対空時間、瞬間移動速度をいじりながら、接近してくる。
弓や槍でそれをとらえることは不可能だった。
そうなると、もはや、守れない。前列は崩れる。天使の御業に、人界の人造の盾なぞ、防御用の意味をなさない。
ターゲットである自らを覆い隠したり、敵を押し出したり。そういうことには使える。だが、天使が天罰としてでなく攻撃を仕掛けるなんて、最早、どうしようもない。盾につけられた魔法防御重視加護は、物理攻撃に無為だった。
前列が即座に蹂躙される。中列の槍は、天使に触れても、貫ける強度を持たなかった。王国の王につく守護天使の加護を受けた槍が。
後列から放たれた矢が、天使の肌の直前で止まる。守護天使の加護を受けた矢は、獣の天使の肌に届かない。
それでも彼らは諦めない。折れない。意味がないとわかっていても戦い続け、そして――――司令官一人が残った。
無傷の天使は、笑うこともなく、怒りを浮かべることもなく、憐みの目を向けるでもなく、楽しみの鼻唄を唄うでもなく、無表情な、虚ろな眼で、司令官を見つける。
首を掴まれ、宙吊りになっていた司令官の首は、
ぽきり。
静寂の中、へし折られた。
だが、死んでいない。天使が力を使ったから。
絶望の痛み、死に至る痛みを感じつつも、死ぬことができない司令官。数時間かけて、彼は嬲り続けられた。
拷問台。親指絞め。頭骨粉砕機。鉄の処女。苦悩の梨。水攻めならぬ泥攻め椅子。ガロットでの首および頸椎の粉砕。腸巻き取り機。牡牛。石抱き。釜茹で。磔。
いつの間にかまた張っていた黒い泥の沼の中から、天使は様々な嬲ることを目的とした器具を取り出し、道具を変え、手を変え、何度も何度も繰り返した。
死ぬことすら、狂うことすら司令官には赦されなかった。
そして、終わりが訪れる。
ウィッカーマンに入れられた、どうしてまだ生きているか、という、姿となった、あらゆる体液の混合物の悍ましい色と忌避すべき臭いを放つ、無理やり人の形に成形された、ぐちゃぐちゃの司令官は、王城の城下に突如、獣とともに空から現れた。
明るかった昼の青空は、黒く黒く澱んでいく。澱みを広げる風とともに臭いが周囲にばら撒かれ、人々は逃げることすらできず、ただ、苦しそうに地面に臥す。
臭いが城下全てを覆ったところで、天使は唄う。
滅びの唄を。
その声に、司令官は聞き覚えがあるような気がした。そして、記憶を辿り、答えに至った司令官は、声にならない、音を鳴り響かせるかのような、怨嗟を発しながら、街の全てを巻き込み灰にしたのだった。
くぁwせdrftgyふじこlp!
ボゥ、カッ――――
赤黒色の爆発とともに、街は吹き飛ばされ、残った残骸は炎をあげて燃える。
その様子を、獣の天使は更なる上空から見ていた。火が消えるまで、ずっと……。