天使の叫び 第三章
血狂の獣。
そういう呼称の、人の血の味を覚えた、大型でありながら小型の獣以上の速度を持つ、飢餓と血に狂った永劫捕食の獣。
そういう設定を、嘘を彼らの指揮官は用意した。
ばれるわけにはいかなかった。天使が人に害を齎す。そんなことはあってはならない。
この国の機構を知らない、民たちに知られてはならない。
天使は常に味方でなくてはならない。
天使は無条件に味方でなくてはならない。
天使は常に福音でなくてはならない。
天使は常に安息でなくてはならない。
この国は、天使を統治機構の深部に組み込んだ唯一の国。天使は個人ではなく、王国という存在そのものの守護天使。王座とそこに連なる者たちを選定するのは、民ではない。軍でもない。天使を遣わせた、神である。
精鋭兵軍と近衛兵軍はそれを知っている。彼らは全てを知っている。それでも、忠誠を捧げられるか。それがその立場になる試験なのだから。
ただ、隠すだけでは、聡い者が気付く。だから、複雑にする。より、複雑に。虚構を虚構で覆う。
最近頻発している神隠しの調査という表向きの名目。
神隠しの原因である血狂の獣の討滅という裏の名目。
神隠しの原因は分かっていて、血狂の獣ではなく、獣の天使と呼ばれる天使によるものであり、神隠し、という程度では済まない、多くの被害がもう出ている、という真実。
答えに辿りつくまでに、聡くとも時間が掛かるようにし、気付いたものには、消えてもらう。
両軍を今率い、獣の天使を探す、慎重を期す男の策だった。
神隠しの調査という題目で、兵たちは、全員一塊となって、行軍した。昼夜問わず、国中の全ての村々を、街道を、獣道を、山を、洞窟を、入り江を、草原を、荒野を、渓谷を、森を、沼を。
そして、とうとう、見つかった。
国最大の山脈群の中央付近に広大な森が広がっていることを彼らは発見した。未開の、未踏の場所。
そこに、獣の天使は、いた。
先行して森に入った地点で、斥候たちは気付いた。
濃厚な血の匂い。
動物のものではない。
それは、人の血の、匂い。
だが、斥候らは優秀だった。直感的に、論理的に、これ以上先行すべきではない、と判断し、後続の本軍へ戻り、報告する。
彼らには、引き返すという選択肢は、無い。
斥候たちの案内で、全軍、山と森の境界を越え、森へと踏み込む。
いつ襲撃があろうとも対応できるように、陣を組み終えて。旗のような陣形、なおかつ背の低い者が前、高い者ほど後ろとなる陣形。
森の中を進む。
臭いが強い方向へ向かって進む。
すると、森が途切れ、黒く澱んだ泥の沼が現れる。そこで彼らは立ち止まる。
「司令官、臭いの発生源はここのようです」
斥候の一人が司令官にそう報告する。それを受け、
「ご苦労。では、斥候たち。各自、陣内の持ち場に入れ」
司令官はそう命令した。
司令官である男は確信した。この中に、"あれ"がいる、と。
司令官は回想する。
"あれ"との遭遇で唯一殺されることなく戻ってきた、常備軍の援軍として派遣された兵士たちに聞き込みを一人で行っていたときのことを。そこで掴んだことを。
天使とは、ある種の信仰であるともいえる。
それは思想を変える。
それは生き方を変える。
それは有り様を変える。
だからこそ、司令官は一人で、聞き込みを行った。司令官の予想通り、見逃されたといえる兵士たちは狂っていた。知性を忘れた獣のように、暴れ回る彼らの一部は牢に繋がれていた。
狂っていない兵たちは、そのことについて何も覚えていなかった。
司令官は、狂気を浴びながら、情報を引き出す。それでも足りない。全容は分からない。天使の容姿すら分からない。特徴は全て、曖昧だった。
司令官が得られた情報といえそうな情報はたった、一つ。
ただ、狂った者のうちの一人、牢に繋がれた者のうちの一人、近衛候補であったその男は、暴れ出す前に必ず、こう、ぼそりと呟くのだ。
『私は破滅を齎す者』
機械のように、低いトーンで、抑揚も無しに。そして、暴れ出す。停止するまで暴れる。また起動し、同じように暴れ出して、の繰り返し。
破滅の天使。
司令官の頭にその言葉が浮かんだ。あの天使の正体は、それ、であると。
司令官はそれを一人で抱え込むことに決めた。破滅の天使が現れるのは、全てが終わろうとするその時なのだから。
王国は終わる。
司令官はそう悟った。




