プロローグ 後悔だらけの人生
人生なんて、こんなものだ。
カイは会社のデスクに頬杖をつきながら、パソコンの画面をぼんやりと眺めていた。時計の針は午後六時四十二分を指している。定時はとっくに過ぎていた。
「……帰りてぇ」
小さく呟いた瞬間、「ちょっと、カイ君」と背後から鋭い声が飛んできた。
カイは反射的に背筋を伸ばして振り返る。そこには、部署のお局様が腕を組んで不機嫌そうに立っていた。
「これ、さっき頼んだ資料だけど。どうしてこうなってるの?」
渡された資料に目を通すが、何も間違っていない。少なくとも、カイが指示された通りに作ったはずだった。
「先ほど言われた通りに作ったんですが……」
「言い訳しないで」
「……すみません」
反論する気は失せていた。この人に何を言っても無駄だ。機嫌が悪い日は何をしても怒られるし、逆に機嫌が良い日はそもそも話しかけてこない。
黙って資料の修正に取りかかりながら、カイはふと思った。
(……人の心が読めたら楽なのにな)
相手が何を考えているのか分かれば、こんなことで怒られることもない。何を求めているのか、何を言えば喜び、何を言えば怒るのか。全部分かればいいのに。そんな能力があれば――。
「……はぁ」
結局、そんな都合の良いものはなく、仕事を終えたカイが会社を出る頃には外はすっかり暗くなっていた。
駅へ向かう途中、前方に上司の姿が見えた。
「やべっ、部長だ」
反射的に物陰へ隠れたが、「おい、カイ君。何をしているんだ? 私から隠れたのか?」と見つかってしまい、結局また怒られた。
なぜ隠れたのか自分でもよく分からない。ただ、仕事が終わった後まで上司の顔を見たくなかった、それだけだった。
トボトボと歩きながら、カイは苦笑する。
(気配を消せたらなぁ……)
そうすれば、嫌な人間から逃げられる。誰にも気づかれず、静かに生きられる。そんな力があったら、どんなにいいだろう。
しばらく歩くと、道の真ん中を数人のヤンキーが塞いでいた。避けるスペースはあるが、カイが通ろうとすると一人の男がメンチを切ってきた。
カイは即座に視線を逸らし、小さくなって彼らの横を通り過ぎる。
「すみません……」
(威圧とかできたらなぁ)
自分が睨み返すだけで、相手が勝手に道を空けてくれる。そんな力があれば……まあ、現実には無理な話だ。
駅へ向かう途中、今度は目の前から一人の女性が歩いてきた。思わず足を止めそうになるくらい、ものすごく可愛い。長い髪に整った顔立ちで、楽しそうに友達と話している。
カイは横目で彼女を見つめながら、心の中で呟いた。
(魅了とかできたらなぁ)
いや、そんな力があったとしても使う勇気なんてないし、そもそもそんな能力が存在するわけがない。女性はカイのことなど一切気に留めず、通り過ぎていった。
「……ですよねー」
少し寂しくなった。
駅に着くと、ホームは大量の人間で溢れ返っていた。電車が到着すると、人の波が一斉に車内へ吸い込まれていく。
満員電車。これが本当に嫌いだ。知らない人間と肩を触れ合わせ、押し潰される。暑くて逃げ場がないが、それでも毎日乗らなければならない。
(もっと早く動けたらなぁ)
電車に乗らず、自分の足で走って帰れるくらい。いや、人混みなんて一瞬で抜けられるくらい速く動けたら。そんな現実逃避をしながら、カイは満員電車に乗り込んだ。
ようやく家に着き、スマホを見ると恋人からメッセージが届いていた。
『話したいことがあります』
嫌な予感がしながらもメッセージを開くと、そこには衝撃的な言葉が綴られていた。
『あなたとのエッチでは満足できません』
「…………」
カイの指が止まった。何度も読み返したが、冗談ではなかった。長い付き合いで、喧嘩もしたし、もちろん笑い合ったこともあった。
これからもずっと一緒にいるものだと信じて疑わなかった。なのに、たった数行の無機質な文字で、すべてが終わってしまった。
「……なんだよ、それ」
スマホを握る手が小刻みに震える。
「俺……そんなにダメだったのかよ」
怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか、自分でも感情の整理がつかない。ただ、一つだけ頭に浮かんだ。
「……俺に、もっと性欲とか……感度とか……そういうのを操れっていうのかよ」
吐き捨てるように呟いた。もしそんな力があるなら、もっと相手を満足させられたのだろうか。もっと違う自分になれたのだろうか。
「……くそ」
スマホをポケットに押し込み、外へ飛び出した。頭の中がぐちゃぐちゃだった。何も考えたくなくて、夜道をただひたすらに歩いた。
気がつくと、川に架かる大きな橋の上まで来ていた。
「……俺の人生って、何だったんだろうな」
自嘲気味な笑いが込み上げてくる。会社では理不尽に怒られ、上司から逃げ、ヤンキーには道を譲り、綺麗な女性には見向きもされず、最後は恋人にまで捨てられた。
「……何一つ、思い通りにならねえな」
トボトボと一歩足を踏み出した、その瞬間だった。
自分の靴紐を踏んでしまい、身体がガクンと前へ傾く。
「え?」
手を伸ばすが、橋の手すりには届かない。
「う、うわぁぁぁぁぁっ!」
視界が反転し、身体が宙へ投げ出された。
「嘘だろっ!?」
橋の下へと真っ逆さまに落ちていき、激しい風が耳元を切り裂く。
「なんでだよ! 俺、どんだけ運悪いんだよ!」
必死に手を伸ばしたその時、頭上から伸びた木の枝が目に入った。
「っ!」
必死に手を伸ばす。頼む、届いてくれ! あと少し――。
(近くのものを引き寄せる力とか……あれば……!)
しかし、指先が虚しく枝を掠めただけで、掴むことはできなかった。
「くそっ!」
身体は容赦なく落下し、地面が眼前に迫る。もう助からない、そう死を覚悟したその瞬間だった。
視界が一瞬、真っ白な光に包まれた。その光の中に、一人の女性が立っていた。女神――そうとしか思えないほど美しい女性が、静かにこちらを見つめている。
「……なんだ……?」
走馬灯だろうか。それにしても、あまりに短い。
「一瞬って……どんだけ俺の人生、薄いんだよ……」
ボロボロと涙がこぼれ落ちた。悔しかった。もっと違う人生を送りたかった。
もっと人と上手く話したかった。
嫌な奴から逃げたかった。
堂々と胸を張って歩きたかった。
好きな人に振り向いてほしかった。
もっと速く動きたかった。
もっと運が良ければ。
もっと――。
「……そうだ!」
カイは迫る地面に向けて、魂の底から叫んだ。
「生まれ変わったら……! 今まで後悔したこと、全部叶えてやる!」
最後に、まるで何かを掴み取ろうとするように、天に向けて力強く手を伸ばした。
そして――世界は暗転した。
グシャリ、という嫌な音が、頭の中に冷たく響いた。
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