1-1 さびはじめ
ナルは、ぱちっと目を開いた
少しの沈黙
それから、表情を変えないまま呟く
「…………ムリ」
壁の向こうから、甘い声が漏れていた
ナルはがばっとベッドから起き上がる
薄い毛布を跳ねのけ、自分の部屋を抜け出した
すぐ隣の扉を開け、逃げ込むように中へ入る
背中で扉を閉めると、大きなため息を吐いた
「はぁぁ~……」
「新婚だからなぁ……」
ぼやいてから、ナルは部屋の中を見回す
ベッドしかない部屋
壁際には、柄の長い大きな戦斧が立てかけられている
「あれ、イナク、これ置いていったんだ」
ぽつりと呟いてから、部屋の真ん中へ向けて手を振った
すると、赤い砂の塊がふわりと現れ、丸いベッドの形を作る
ナルはそのベッドにぼふっと倒れこんだ
「きついよ……」
そう言って、顔をうずめる
「わたし、失恋したばっかりなんだけどぉ……」
このギルドは壁が薄すぎた
本当に、びっくりするくらい薄い
隣の部屋の気配が伝わるどころの話ではない
声も、息づかいすら伝わってくる
「ぁ……」
また、壁の向こうから甘い声が漏れた
ナルはぴくりと肩を震わせる
「だめだってばぁ……!」
ベッドに顔を押し付け、くぐもった悲鳴を上げた
ここは、旧市街にある小さなギルド
ナルが育った場所であり、家そのものでもあった
姉妹のように育ったミナ
兄妹のように暮らしたイナク
そして、1年前にやってきたソラ
この場所で、みんなと暮らしていける
それだけでよかった
本当に、それだけでよかったのだ
なのに
「なんでこんな目にあわなきゃいけないのぉ……」
ぽろっと本音が漏れた
ナルは小柄で華奢な女の子だ
薄い桃色の髪に、よく笑う琥珀色の目
気の抜けた雰囲気のせいで忘れられがちだが、事実上、国に9人しかいないA級魔法使いでもある
貴族からの求婚も、魔法省や軍からの勧誘も、何度も来た
でも、今のナルにとってはそんなことどうでもよかった
隣の部屋で、新婚夫婦がいちゃいちゃしている
その方が、よほど大問題だった
「ミナとの結婚は祝福するよ……」
「そりゃ、するけどさぁ……」
ナルは天井を見上げる
「さすがに新婚夫婦と同居は無理だよぉ……」
ソラは異世界から来た転生者だった
貧乏で潰れかけていたラピス・ギルドを立て直してくれた人
そして、ナルの初恋の人でもある
この1年、ミナはギルドを留守にしていた
その間、ナルとソラは2人きりで暮らしていた
2人で働いて
2人で食べて
2人で笑った
時々、ソラが少し違う目で自分を見ていることにも気づいていた
ミナというソラの想い人がいなければ
きっと、どうにかなっていた
それくらい近かった
「でも……仕方ないよね」
ナルは寝返りを打つ
「ミナから盗るなんて嫌だし」
「それに、ソラ君って一途だからなぁ……」
そこまで言って、少しだけ笑った
「ま、わたしが好きになった人だもんね」
「浮気なんかするわけないかぁ……」
ミナの幸せは、心から嬉しい
それは本当だ
でも、膨れ上がってしまったソラへの気持ちだけが、行き場をなくしてしまっていた
1年前、ミナを巡る大きな事件があった
ミナを助けられないかもしれない
自分もここで死ぬかもしれない
そう思った夜、ナルはソラに自分の想いを伝えてしまった
言わなければよかった
けれど、一度口にした想いは、なかったことにはできない
ソラは、ミナが特別だと答えた
それでも、ナルのことも大切だと言い、はっきりとは断らなかった
ミナに振られたら、ナルでもいい
ソラは、そんなつもりで言ったわけではなかったのかもしれない
でもナルには、そう聞こえてしまった
それでも嬉しかった
女として見られていないと思っていたからだ
だから、つい言ってしまった
「ミナの返事を聞くまでは、キープされてあげる」
その結果が、今だ
ミナとソラは結婚した
ナルのキープ期間は終わり、きれいに失恋した
そして、壁の薄いギルドで新婚夫婦と同居している
「地獄だぁ……」
ナルは天井を見つめる
最初は、本当にうまくやれると思っていた
また家族として仲良く暮らしていけると思っていた
でも、毎晩毎晩、新婚夫婦から幸せの音が溢れてくる
失恋したばかりのナルには、あまりにもきつかった
「わたし……ここにいちゃ……だめだよね……」
ここは大切な家だ
想い出もある
イナクだって、いつか帰ってくる
それでも、もう耐えられなかった
「ぁ……」
また、壁の向こうから甘い声が漏れた
ナルは両手で耳を塞ぐ
「もう無理~!」
ナルは跳ね起きた
イナクの部屋を飛び出し、食堂を抜け、そのまま外へ出る
夜は静まり返っていた
虫の声だけが響いている
「ふぅ……」
ようやく、変な緊張から解放された気がした
ナルはギルドの建物を振り返る
「わたしが……ここを出ていきたいだなんて……」
少し前の自分なら、そんなこと考えもしなかった
それでも、今は戻れなかった
空には月が浮かんでいた
その月を見上げたナルの足元から、赤い砂が現れる
砂はふわりと渦を巻き、雲のように広がってナルの身体を持ち上げた
彼女の魔法は、赤さびの魔法
鉄にわく、あの赤さびだ
ギルドの屋根が小さく見える高さまで昇る
夜風が頬を撫でた
「わたし……分かってなかったな……」
両手を胸に当てて、ナルは呟く
「気持ちが届かないって……こんなに……切ないことだったんだね」
それから、月を見上げたままぽつりと言った
「わたしの……やりたいこと……かぁ」
ここを出るなら、これから何をして生きていくのか、自分で決めなければならない
それなのに、頭に浮かぶのはソラのことばかりだった
この1年、ソラの夢をたくさん聞いてきた
ナルも、その夢に共感していた
一緒に頑張りたいと思っていた
自分の夢も、きっとソラと同じなのだと思っていた
でも、違った
ソラを失って、やっと気づいた
自分の中には、たくさんあると思っていたのに
本当は何もなくて
ソラしか、いなかったのだと
月を見つめるナルの目から、ぽろぽろと涙が零れる
「ソラ君はミナが好きだって……ずっと知ってたのに……」
「わたしって……ばかだなぁ……」
少し冷たい夜風の中
ナルはただ、静かに肩を揺らしていた
もう、今までと同じではいられない
そのことだけは、痛いほど分かっていた
「変わらなきゃ……だめだよね……」
答えは出ないまま
ナルは赤い雲の上で、小さく身体を丸めた




