9-1 枇杷の郷里
第九幕 終焉の序曲
一章 枇杷の郷里
――夕暮れの空気は、すでに秋の冷えを孕んでいた。
かつて豊饒を誇った枇杷の郷は、今や見る影もない。枝に実る果実は小さく痩せ、土壌は疲弊し、家屋はどれも煤けて軋んでいる。栄華はとうに失せ、ただ惰性で息をしているだけのような寒村が広がっていた。
その荒んだ景色を、僕――大天使スノウは、静かに踏みしめて歩いた。
羽音すら立てぬほど静謐に降り立った僕を、人々は神に仕える使徒のように目を見張って迎えた。けれど、その実、僕の胸を占めているのは慈悲などではない。己の欲望を満たすための毒。それを滴らせ、彼らの心臓に沁み渡らせるために来たのだ。
村の中央に残る朽ちかけた館。その奥に、ロウクワット一族の長とその血族たちが集っていた。
彼らは、一見すれば古い血統の威を保とうとする誇り高き者たち。しかし瞳には、拭えぬ怯えと渇望が宿っている。かつて髑髏王に仕置きを受け、恐怖を刻まれた記憶がまだ生々しく残っているからだ。
「……お待ちしておりました、大天使さま」
長老の震える声が響く。僕は柔らかに微笑み、ゆっくりと歩み寄った。
「顔を上げてください。僕はあなた方を責めに来たのではありません」
そう囁く声は、あえて甘やかに震わせる。まるで母が子を慰めるように。
だがその裏で、僕の心は冷ややかに嘲笑していた。――哀れな者たち。彼らはまだ、僕が何を望んでいるのか知らない。
僕の望みはただひとつ。スカーレットを完全に手に入れること。
彼はこの世でただ一人、僕の欲を満たし得る存在だ。燃えるような朱の髪も、血のような瞳も、そして闇を宿した魂さえも――すべて僕のものにしたい。
けれど彼は、僕に心を許さない。隣には常にジェイドという女が立っている。その姿を見るたびに、僕の内に渦巻く憎悪は増していく。どうして彼女が許されて、僕が拒まれるのか。どうして彼が彼女を見つめる瞳を、僕には向けないのか。
「僕は、あなた方の苦しみを理解しています」
僕は再び口を開く。
「かつて、髑髏王の裁きに晒され、怯え、膝を屈した。その悔しさ、無念、怒り……僕にはよくわかります」
嘘だ。僕は彼らの痛みなどどうでもいい。ただ、その痛みを利用できればいいのだ。
僕は視線を落とし、あたかも世界の闇を憂うように、深い嘆息を漏らした。
「……このままでは、闇がすべてを覆い尽くす。人の希望も、あなた方の誇りも」
ロウクワットの人々がざわめき、互いに顔を見合わせる。その瞳が少しずつ揺れ、僕の言葉に縋ろうとしている。そこに、さらに毒を垂らす。
「ですが、方法はあります」
皆の耳が僕の声に傾いた。
「髑髏王を退け、失われた正義を取り戻す方法が」
長老が息を呑んだ。若き一族の者が声を荒げる。
「そんなことが……本当に?」
僕はゆっくりと頷き、彼らの顔を一人一人見渡した。
「あなた方は選ばれた一族です。天がその血を祝福した。僕はそれを信じています。あなた方にこそ、髑髏王を討つ力がある」
虚飾に過ぎない賛美を、あえて熱を込めて告げる。
すると、怯えていた人々の顔に、少しずつ赤みが戻っていく。
自分たちはまだ誇りを失っていない――そう錯覚させるための、安っぽい光明。
だがその内実は、ただの鎖。
彼らを縛り、僕の駒に変えるための甘い毒。
僕は心の中で静かに嗤った。
――いいぞ。もっと僕の掌に転がれ。
スカーレット、お前はまだ知らないだろう。僕がどれほど深くお前を欲しているかを。
そしてジェイド、お前が彼の隣にいる限り、僕は決して赦さない。お前を押し潰し、彼の視界から消し去ってやる。その後で、僕の腕の中に彼を閉じ込め、永遠に逃がさない。
「立ち上がるのです、ロウクワットよ」
僕は声を高め、最後の一滴を与える。
「あなた方の正義を示す時が来た」
館の中に歓声が広がった。誰もが酔ったように叫び、勝利を夢想する。
その中心で、僕はただ、静かに微笑んでいた。
――この欲望の毒は、確実に効いている。
やがて彼らは僕の望み通りに動く。
そしてその先で、スカーレットは僕の手中に堕ちるのだ。




