8-9 城を照らす月灯り
第八幕 再生の花
九章 城を照らす月灯り
宵闇の城に、夜が訪れるのは当然のことだった。
けれどこの城に広がる夜は、ただの暗闇ではない。星々の瞬きすら覆い隠し、月の存在を拒むような、重たく湿った闇だった。空を仰いでも雲は永遠に割れることなく、塔の尖端を飲み込み、黒の帳を垂れ下ろす。
それが「当たり前」だと、誰もが思っていた。
その日までは。
――風が流れた。
低く唸るように雲が揺れ、覆いを裂くようにひとすじの光が落ちた。
淡く、冷ややかで、それでいて優しい銀色の輝き。
月が、姿を現したのだ。
石造りの回廊を歩いていた私の足が、ふと止まる。
床に射した月明かりが、まるで生き物のように震えながら広がっていく。その光は私の外套を染め、白銀の縁を浮かび上がらせた。
何年ぶりだろう。
この城で、翳りのない月を見たのは。
「……月」
呟いた声が震えた。
その震えは恐怖ではなかった。もっと曖昧で、もっと脆い。
懐かしさ。切なさ。まだ名を持たぬ感情。
胸に押し込めたはずの心が、静かに揺らぎ始める。
胸の奥で何かがかすかに疼いた。痛みとも、温もりともつかない感覚。
私は思わず、伸ばした手でその光を掬い取ろうとする。
掴めるはずもないのに――指先に触れた気がした。
「スカーレット様!」
振り返れば、駆け寄ってきたのはジェイドだった。彼女の瞳もまた、月光を映して驚きに見開かれている。
「空が……雲が割れて……」
彼女の声は熱を帯びていた。まるで長い悪夢から醒める瞬間に立ち会ったかのように。
私は答えを返せなかった。胸の奥のざわめきに言葉が追いつかない。
肩に柔らかな重みが加わった。
漆黒の翼を広げて飛んできたレイブンが、静かに留まったのだ。
彼はちらりと横目でこちらを見やり、嘴をわずかに歪めて笑う。
「月明かりに笑う髑髏王、か。……悪くない眺めだ」
冗談めかした声色でありながら、その奥に、確かな温かさが滲んでいた。
私は、自分の頬がわずかに緩んでいることに、その時はじめて気づいた。
笑ったのか……私が。
そんなはずはない。笑顔など、とっくに置き去りにしてきたのに。
けれど月光は嘘をつかない。柔らかな光に照らされ、冷たく硬いはずの自分が、少しだけ融けていく。
ジェイドが小さく息を呑み、震える声を落とした。
「……きれい」
その視線が、月を見ているのか、それとも私を見ているのか、判然としなかった。
ただ、彼女の瞳に浮かぶ光は、確かに温かいものだった。
私は視線を月に戻す。
光はなおも広がり、城の石壁や瓦礫を白銀に染め上げていく。
その光景は、かつて兄と共に見上げた夜空を思い出させた。
深い森を抜け、冷たい風を頬に受けながら、二人で仰いだ月。
セルリアンの作った氷の蝶に照らされた、あの夜の光と同じ温度を帯びている。
幼い頃の記憶が、鮮やかに胸を打つ。
「セルリアン……」
名を呼ぶ声は、夜気に溶けて消えた。それでも、確かに胸の底から零れ落ちた。
ジェイドもレイブンも、その小さな変化を見逃さなかった。
レイブンは羽を揺らし、ふっと口角を上げる。
「どうやら、月の女神もスカルを見捨ててはいないらしいな」
彼の軽口が、なぜか心地よかった。
ジェイドは目を潤ませながらも、静かに言った。
「……これが、始まりなんですね」
私は答えなかった。答えられなかった。
けれど胸の奥で、確かにひとつの予感が芽生えていた。
この光は消えない。
たとえまた闇が覆い尽くしても、私の中に刻まれた月光は、もう二度と失われはしない。
そう確信した時、初めて私は――ほんのわずかだが、心から、安らぎを覚えた。




