8-8.5 深淵の庭:氷の蝶
第八幕 再生の花
深淵の庭:氷の蝶
黒い湖の水面は、闇の深みに沈みながらも、星のような光を点々と散らしていた。
その湖畔に、セルリアンはひとり佇んでいた。弟と共に過ごした記憶を抱きしめながら。
彼は掌を差し出す。そこに生まれたのは、薄氷のように繊細な翅を持つ、小さな氷の蝶だった。かつて弟の笑顔を引き出すために幾度となく紡いだもの。夜ごと枕元に置き、幼い弟が歓声を上げるのを見て、胸を温めたあの日々の欠片。
「……覚えているか、スカリー」
静かな声が深淵に溶けていく。
だが弟の赤き瞳は、いまなお炎を宿したまま、厚い灰の奥に閉ざされていた。優しさも痛みも、まだ再生の彼方にある。
セルリアンは蝶を差し出した。
けれど弟の指先に届くより早く、氷の翅は一片、また一片と溶け、光を散らして湖面に消えていった。
――届かない。
胸に冷たい痛みが走る。
差し出した想いは宙に取り残され、深淵の防壁に遮られた。弟の心はまだ影に覆われ、光を透かさぬままだ。
「……まだ、早いのか」
呟きは黒い湖に沈み、波紋となって静けさに消える。
それでも、わずかに炎が揺らいだ。スカーレットの瞳の奥、蝶の消える軌跡を追うように。
そして指先が、ほんのわずかに動いた。掴めぬ光を追うかのように。
セルリアンは手を下ろす。未だ届かぬ距離を痛感しながらも、誓いは揺るがない。
たとえ何度溶けて消えようとも、蝶を紡ぎ続ける。
それは願いの形であり、兄の愛そのものだから。
やがて闇が深まり、二人の姿を包み込む。
静寂の中、蝶の最後の翅が砕ける音が夜に溶け、わずかな光の痕跡が弟の胸に漂った。




