第六話 中止
ガロンの手が頭から離れた。
三年ぶりだった。
本当なら、もう少し何か話したかった。どこで暮らしていたのか。セリアやアレンはどうしていたのか。こいつは三年間、何をして俺を待っていたのか。
聞きたいことはいくらでもある。
でも。
ガロンの視線が、俺の後ろへ動いた。
「……で」
「何?」
「そっちの女は誰だ」
振り返る。
エレナもガロンを見ていた。
「エレナ・アルフォードです」
「…………」
ガロンが俺を見る。
「何?」
「お前」
「うん」
「帝国最高の大回復魔道士を連れて帰ってきたのか?」
「そうみたい」
「そうみたいじゃねえだろ」
「色々あって」
「三年間潜入させて、証拠を持って帰ってこいとは言った」
「ああ」
「女を攫ってこいとは言ってねえ」
「攫われてはいません」
エレナが訂正した。
「助けていただきました」
「そうか」
「はい」
ガロンがまた俺を見る。
「助けたのか」
「まあ」
「何で?」
「処刑されそうだったから」
「……そうか」
少しだけ考える。
「お前だもんな」
「どういう意味?」
「そのままの意味だ」
後ろでセリアが頷いた。
「分かる」
「俺も」
アレンまで頷く。
「何が?」
誰も答えない。
ガロンはエレナへ向き直った。
「悪かったな。ガロンだ」
「存じています」
「俺を?」
「魔剣士ガロン。帝国でも名前は知られています」
「そりゃ光栄だ」
ガロンはそれ以上訊かなかった。
今は、もっと先に聞くことがある。
「それで?」
「仕事がある」
「だろうな」
返事が早かった。
「帰ってきたばっかりなんだけど」
「お前がその顔で帰ってきた時点で、ゆっくり酒を飲めるとは思ってねえよ」
「どんな顔?」
「面倒事を持って帰ってきた顔だ」
「そんな顔ある?」
「お前にはある」
「あるわね」
セリアが即答する。
「あるな」
アレンも続いた。
エレナだけが首を傾げる。
「初対面なので分かりません」
「ほら」
「でも」
エレナが俺を見る。
「なんとなく分かります」
「おい」
ガロンが笑った。
それも、すぐに消えた。
「中で聞く」
奥の部屋へ移る。
石造りの小さな部屋だった。中央に大きな机があり、壁には周辺諸国の地図が何枚も貼られている。
三年前と、ほとんど変わっていない。
窓際には一人、大柄な男が壁へ背中を預けていた。その隣に立てかけられているのは、剣と呼ぶには少し大きすぎる代物だった。
俺なら両手で扱う長さがある。
三年前と同じ。
相変わらず、馬鹿みたいにデカい。
「久しぶり」
声をかける。
男が俺を見る。
「おう」
「それだけ?」
「帰ってきたんだろ」
「一応」
「ならいい」
ゼイン・クロフォード。
あれを剣として扱える人間を、俺は一人しか知らない。
三年ぶりに会った。
会話は、それで終わった。
まあ。
ゼインならそんなもんだ。
ガロンが机の前へ座る。
「見せろ」
「ああ」
鞄へ手を入れた。
三年間。
これを持ち帰るために帝国にいた。
机の上へ置く。
黒い表紙。
中央に刻まれた文字。
〈GRAY〉。
ガロンの目が止まった。
セリアも。
アレンも。
ゼインも。
誰も喋らない。
魔導毒〈灰の雨〉。
その存在自体は、とっくに分かっていた。
実際に使われた土地があり、生き残った人間の証言もある。
それでも帝国は、一貫して使用を否定してきた。
世界の八割を支配した帝国を前に、残された国々では同じ議論が続いている。
戦うのか。
降るのか。
帝国は、抵抗をやめれば国も民も相応の待遇で迎え入れると約束している。
だから俺たちは訴えてきた。
帝国は禁じられた魔導毒まで使っている。
そんな国の約束を信じるのか、と。
けれど。
返ってくる言葉も同じだった。
証拠はあるのか。
生存者の証言だけでは、国は動かなかった。
だから必要だった。
帝国自身が作り。
帝国自身が使い。
帝国自身が命じたことを示す。
否定できない証拠が。
ガロンが〈GRAY〉へ手を伸ばした。
「本物か?」
「ああ」
「帝国印は?」
「ある」
「製造記録」
「ある」
「使用記録」
「ある」
「命令系統」
「ある」
ガロンが顔を上げた。
「全部か?」
「全部」
短い沈黙が落ちる。
ガロンはゆっくり息を吐き、椅子の背へ身体を預けた。
「……そうか」
それだけだった。
でも。
三年間待っていた人間の声だった。
「これで帝国は否定できないの?」
セリアが訊いた。
「今までみたいにはな」
資料を開く。
製造施設。
材料の搬入記録。
使用日時。
使用地点。
被害記録。
帝国軍の正式印。
承認した人間の名前。
全部ある。
「これまでみたいに全部捏造だ、で済ませるのは無理だ」
「じゃあ……」
「ああ」
ガロンが言った。
「ようやくだ」
ようやく。
残された国々へ突きつけられる。
その上で。
帝国へ降るのか。
戦うのか。
選ばせることができる。
ガロンが俺を見る。
「よくやった」
「ん」
「三年だぞ。もうちょっと喜べ」
「疲れてる」
「そうか」
「腹も減った」
「そうか」
「寝たい」
「増やすな」
少しだけ笑う。
ガロンも笑った。
「アレン」
「分かってる」
アレンが鞄から薄い板を何枚か取り出した。
資料の必要な頁だけを順番に挟み込み、上から魔石のついた器具を押し当てていく。淡い光が走るたび、下の紙へ文字がそのまま写っていった。
「全部は?」
「時間かかる。今必要なのだけ残す」
「原本は?」
「ヴァルドへ持ってく」
ガロンが答えた。
「写しじゃ、また捏造だと言われる。各国へ突きつけるなら原本がいる」
最後の一枚をアレンが抜く。
「終わった」
「ゼイン」
窓際の男が動いた。
「何だ」
ガロンが〈GRAY〉を閉じる。
「これをヴァルドのところへ届けろ」
ゼインの目が細くなった。
「……例のか?」
「ああ」
資料を差し出す。
「三年間待った証拠だ」
ゼインが受け取った。
「最重要だ。何があっても届けろ」
「ああ」
「お前が死んでも構わん」
「おい」
「だが、それは届けろ」
「ひでえ奴だな」
「頼むぞ」
ゼインは数秒、ガロンを見た。
それから笑う。
「誰に言ってる」
〈GRAY〉を懐へ入れた。
壁際の大剣を軽々と持ち上げ、そのまま背負う。
「ヴァルド・レグナードまで、必ず届ける」
「ああ」
ゼインが扉へ向かう。
俺の横を通り過ぎる。
そこで足が止まった。
「レオン」
「何?」
「よく帰った」
それだけ言って。
出ていった。
扉が閉まる。
「……喋れるじゃん」
「あんた達似てるわね」
セリアが言った。
「どこが?」
「そういうところ」
「全然違う」
「似てる」
アレンまで言う。
「どこがだよ」
「自覚ないのが一番面倒なんだよ」
ガロンが笑った。
これで。
三年間の仕事は終わった。
そう思って椅子へ座ろうとした。
「待て」
「何?」
「お前、さっきから一枚持ってるだろ」
見る。
右手。
〈GRAY〉から抜いておいた一枚の紙。
「よく見てるな」
椅子へ座るのをやめた。
「ガロン」
「何だ」
紙を机へ置く。
ガロンが見る。
セリアとアレンも覗き込んだ。
第四回実地運用計画。
対象地域。
アルネの町。
周辺三集落。
その下。
二千四百十三。
「……何、この数字」
セリアが訊いた。
「人口」
笑いが消えた。
ガロンが紙を取る。
「アルネ?」
アレンが地名を見る。
「あそこ、落ちたばっかりだろ」
「ああ」
三週間前。
帝国軍がアルネの防衛線を破った。
二日後には町が降伏した。
今はもう。
帝国領だ。
「もう戦争終わってるじゃない」
セリアが眉を寄せる。
「だからだろ」
「何が?」
答えたのはエレナだった。
「もう戦う必要がないからです」
全員の視線が集まる。
「帝国兵を失う必要がありません。町も、畑も、井戸も残せる。そして、人だけを消せます」
誰も喋らなかった。
もう負けた町だ。
武器を置いた。
帝国へ降った。
それでも。
殺す。
「いつだ」
ガロンが訊いた。
「明日の午前五時」
時計を見る。
日付はもう変わっている。
残り。
二十九時間もない。
「第四回ってことは」
「過去三回の結果を踏まえた改良型だ」
資料に残されていた数字を思い出す。
六百四十三。
三百二十一。
八百九十二。
もう。
死者数になった数字。
「第三回実地試験では、予定より多く生存者が出た」
「理由は?」
ガロンが訊く。
俺はエレナを見た。
「こいつ」
全員の視線が集まる。
エレナが少しだけ身体を固くした。
「……全員ではありません」
セリアが彼女を見る。
「あなたが?」
「はい」
「〈灰の雨〉を受けた人を治したの?」
「はい」
第三回実地試験。
エレナは命令を無視して現地へ入った。
帝国が敵と定めた人間を。
魔力が尽きるまで治し続けた。
死ぬはずだった人間を。
何人も。
生かした。
「……本当に帝国最高の回復魔道士なんだ」
セリアが呟く。
「やめてください」
「何で?」
「そのせいで」
エレナの声が止まった。
「〈灰の雨〉は改良されました」
握った指に力が入る。
「私が治療した人たちを、帝国は調べました。どこまで毒が回っていたのか。何が治せたのか。どこから先なら、回復魔法でも戻せないのか」
「私が治したからです」
「違う」
エレナが俺を見る。
「でも」
「治したのはお前だ。毒を強くしたのはお前じゃない」
「……」
「治した人間が悪いなら、最初から誰も治せないだろ」
少しの間。
エレナは何も言わなかった。
「……はい」
小さく答える。
ガロンが訊いた。
「それで処刑か?」
「はい」
「誰が報告した」
エレナの指が止まった。
「ウォルター・クロウリーです」
空気が変わる。
帝国魔導開発局。
その頂点。
皇帝の右腕。
世紀の大魔道士。
そして。
〈灰の雨〉の開発責任者。
「本人が?」
「はい。私が命令を無視して治療したことを、ウォルター様自身が報告しました」
「それで処刑が決まった?」
「今日六時に」
ガロンが眉を寄せる。
「なら、アルネより先だろ」
「公式には」
「……公式には?」
エレナが一度、息を吸った。
「処刑されたことにする予定だったそうです」
部屋が静かになる。
「私の身柄だけを、ウォルター様が引き取るつもりでした」
「何のために?」
エレナは答えず。
机の上の紙を見た。
二千四百十三。
「アルネです」
意味が繋がった。
セリアの顔から表情が消える。
「……まさか」
「第四回実地運用の日まで、私を生かしておくつもりでした」
「何のために?」
エレナが少しだけ笑った。
笑っているようには見えなかった。
「牢へ入れられた日の夜、ウォルター様が来ました」
鉄格子の向こう。
怒ってはいなかった。
責めてもいなかった。
いつも通り。
穏やかに笑っていたらしい。
『今回は、私の負けでしたね』
エレナの手が、ゆっくり握られる。
『さすがです、エレナ』
人を救ったことを。
あの男は。
自分の負けと呼んだ。
『おかげで、改良すべき場所がよく分かりました』
それだけだった。
だから余計に。
気味が悪い。
「それから、私は訊きました」
「何を?」
「なぜ処刑のあとも私を生かすんですか、と」
エレナが顔を上げる。
『せっかくですから』
ウォルターは笑った。
『次は、あなた自身で確かめてみませんか?』
誰も喋らなかった。
「改良した〈灰の雨〉を?」
ガロンが訊く。
「はい」
「アルネで?」
「はい」
第四回実地運用の日。
エレナも。
あの町へ連れていかれる予定だった。
「そいつ」
セリアが低い声で言った。
「殺していい?」
「まだ会ってもないだろ」
「今ので十分よ」
「珍しく同意する」
アレンが言う。
「珍しくって何よ」
ガロンは相手にせず、机の紙を見る。
「急ぐぞ」
「ああ」
セリアが頷く。
「アルネに知らせる?」
「それだけじゃ足りない」
二千四百十三人。
周辺三集落まで含む。
二十九時間以内に全員へ事情を説明し。
信じさせ。
避難させる。
帝国軍の占領下で。
簡単な話じゃない。
「待て」
アレンが言った。
「何?」
「そもそも、これ」
紙を指す。
「中止になるんじゃないか?」
誰も答えない。
「レオンが〈GRAY〉を盗んだことは、もう向こうも分かってるんだろ?」
「ああ」
「最高機密を盗まれた。場所も日時も知られた。だったら予定通りやる理由がない」
その通りだった。
作戦情報が実施前に漏れた。
普通なら。
変更する。
延期する。
あるいは。
中止する。
「中止にはなりません」
エレナだった。
全員が見る。
「どうして分かる?」
ガロンが訊いた。
「ウォルター・クロウリーが決めた作戦だからです」
「それだけか?」
「はい」
即答だった。
「それだけで十分です」
ガロンが俺を見る。
俺もウォルター本人には会ったことがない。
「どういう奴だ」
エレナは少し考えた。
「……優しい人です」
「優しい?」
セリアが眉を寄せる。
「話し方は」
エレナが訂正した。
「怒鳴りません。誰かを殴るところも見たことがありません。いつも穏やかです」
「それで毒作ってんの?」
「はい」
アレンが嫌そうな顔をした。
「一番嫌なやつだな」
「それに」
エレナが続ける。
「予定外のことが起きると、あの人は喜びます」
「喜ぶ?」
「分からなかったことが、分かるから」
俺が〈GRAY〉を盗んだ。
エレナを連れ出した。
アルネの場所も。
日時も知っている。
なら。
こちらがどう動くのか。
何人来るのか。
どう止めるのか。
止められるのか。
それすら。
あの男にとっては。
「……実験か」
「おそらく」
「最悪だな」
「はい」
ガロンが立ち上がった。
「今動ける戦力は?」
空気が変わる。
セリアが答える。
「ここにいる連中を入れて十五。外の見張り二人を戻せば十七」
「馬は?」
アレンが訊く。
「十七頭ある」
「食料」
「二日ならすぐ出せる」
「アルネまで」
「飛ばせば間に合う」
ガロンが頷く。
「全員叩き起こせ」
「了解」
セリアが扉へ向かう。
「待て」
俺が止めた。
「何?」
「本当に行くの?」
セリアが振り返る。
「行くでしょ」
「中止されてる可能性はある」
エレナが俺を見る。
「私は、ないと思います」
「分かってる」
それでも。
ゼロじゃない。
ウォルターが続行したくても、帝国側の誰かが止めるかもしれない。
何より。
俺たちは今。
世界を動かせるかもしれない証拠を手に入れたばかりだ。
この戦力を。
本当にアルネへ向けるべきなのか。
ガロンを見る。
「行って、何もなかったら?」
「あ?」
「作戦は中止。アルネは無事。俺たちは二十九時間かけて走って、何もなし」
ガロンは鼻を鳴らした。
「笑って帰ればいい」
「……」
「行って何もなかったら、全員で笑って帰ってくりゃいい」
机の紙を見る。
二千四百十三。
「行かずに、こいつらが死んだら」
ガロンが顔を上げた。
「笑えねえ」
それで。
話は終わった。
「セリア」
「はいはい」
「全員起こせ」
「了解」
「アレン」
「馬と食料だな」
「ああ」
二人が出ていく。
俺も続こうとした。
「レオン」
「何?」
「お前は寝ろ」
足が止まる。
「何で」
「三年間潜って、帰ってきたばっかりだろ」
「寝てる時間ないけど」
「お前は行かなくていい」
「行く」
「寝ろ」
「嫌」
「子供か」
「二千四百十三人いる」
ガロンが黙った。
「俺が持ち帰った情報だ。最後まで見る」
「お前な」
「それに、GRAYについてここで一番詳しいのは俺だ」
「違います」
声がした。
エレナだった。
「何?」
「ここで一番詳しいのは、たぶん私です」
「……張り合うところ?」
「大事なところです」
エレナがガロンを見る。
「私も行きます」
「無理」
即答した。
「なぜです?」
「歩くのもギリギリだから」
「歩きません。馬ですよね?」
「そういう問題じゃない」
「実際に〈灰の雨〉を受けた人間を治療したことがあるのは、私だけです」
言葉が止まった。
「改良前ですが、症状を知っています。進行も。毒が身体のどこから侵すのかも。何が効いて、何が効かなかったのかも」
「魔力ないだろ」
「ありません」
「回復魔法も」
「使えません」
「戦えない」
「はい」
「足手まとい」
「それは昨日からです」
「自覚あったんだ」
「あります」
エレナが俺を見る。
「それでも、連れていく価値はあります」
言い切った。
昨日まで。
ろくに走れなかった女が。
今は。
自分でここにいる理由を言っている。
「……ガロン」
「俺を見るな」
「決めて」
「お前が拾ってきたんだろ」
「物みたいに言うなよ」
「お前にだけは言われたくねえな」
「私は行きます」
「ほら」
「何がほらだ」
ガロンが頭を掻いた。
「好きにしろ」
「だって」
「何で嬉しそうなんです?」
「別に」
「嬉しそうです」
「気のせい」
「そういうことにしておきます」
どこかで聞いた言葉だった。
「……覚えてた?」
「記憶力はいい方です」
「面倒だな」
「誰かさんほどでは」
外からセリアの声が響いた。
「レオン! いつまで喋ってんの! 行くわよ!」
「早くない!?」
「急ぐんでしょ!!」
仕方ない。
帰ってきて一時間も経っていない。
飯はまだ。
風呂もまだ。
寝てもいない。
なのに。
もう次の仕事だ。
扉へ向かう。
途中。
振り返った。
机の上。
二千四百十三。
まだ。
死者数ではない。
外へ出ると、夜の森に馬が並んでいた。
十七頭。
セリアはもう馬に跨がっている。アレンは荷物を括りつけながら何か文句を言っていた。
ガロンも剣を背負い、先頭の馬へ向かっている。
戦える人間は十七人。
エレナは別だ。
俺も一頭へ近づいた。
その後ろを、エレナがついてくる。
「乗れる?」
「もちろんです」
「本当に?」
「失礼ですね」
エレナが鐙へ足をかける。
身体を持ち上げる。
「……っ」
止まった。
「エレナ」
「はい」
「乗れてない」
「今からです」
「手伝おうか?」
「大丈夫です」
「そう」
「……」
少し待つ。
「レオン」
「何」
「手を貸してください」
「最初から言えよ」
手を伸ばす。
エレナが掴む。
引き上げようとしたところで、身体が大きく傾いた。
「わっ」
「危なっ」
支える。
駄目だ。
「前乗る?」
「……お願いします」
結局。
俺の前へ乗せた。
「狭いです」
「お前が乗るって言ったんだろ」
「馬まで狭いとは思いませんでした」
「普通こんなもんだよ」
「落ちたら?」
「拾わない」
「……」
ガロンが先頭へ出た。
全員を見る。
「目的は一つだ」
誰も喋らない。
「アルネへ行く」
手綱を握る。
「何もなけりゃ、それでいい」
その通りだ。
何も起きない。
作戦は中止。
すでに帝国へ降った町で。
二千四百十三人が。
明日の朝も普通に目を覚ます。
それが一番いい。
「行くぞ」
馬が走り出した。
十七頭。
夜の森を駆ける。
三年間の潜入任務は終わった。
証拠も持ち帰った。
原本は今、ゼインがヴァルドの元へ運んでいる。
俺も。
ようやく帝国から帰ってきた。
それなのに。
また。
帝国領へ向かっている。
「レオン」
前からエレナの声がした。
「何?」
「間に合いますか?」
知らない。
中止されているかもしれない。
間に合わないかもしれない。
行ったところで、十七人で何ができるのかも分からない。
それでも。
机の上にあった数字を思い出す。
二千四百十三。
まだ。
死者数ではない。
「ああ」
手綱を握り直した。
「間に合わせる」




