第二話 2413
黒い資料を開いた。
最初の頁には帝国軍の紋章。その下に、第三種広域魔導毒性兵器〈GRAY〉と記されている。
三年間、噂と断片だけを追い続けてきたものが、ようやく手の中にある。
だが、感慨に浸っている時間はない。
懐中時計を見る。
二十二時三十一分。
午前零時まで、一時間二十九分。
頁を捲った。
製造責任者。
研究責任者。
承認部署。
試験記録。
必要なのは、帝国が〈灰の雨〉を製造し、使用し、その命令を出したと証明できるものだ。
資料の冒頭には、兵器の概要が簡潔に記されていた。
毒性を持たせた魔力を霧状にして広範囲へ散布。吸い込んだ人間の体内へ侵入し、血液とともに全身へ拡散。最終的には臓器を破壊する。
建造物への被害はほぼない。
土地への長期汚染もない。
水源への影響も軽微。
つまり。
奪った土地を、そのまま使える。
「……よく考えるな」
感心する気にはならなかった。
次の頁を捲る。
第一回実地試験。
対象地域――ルド村および周辺集落。
人口七百十一名。
死亡確認。
六百四十三名。
評価――良好。
指が止まった。
もう一度見る。
六百四十三。
名前はない。
年齢もない。
誰が死んだのかも書かれていない。
ただ、六百四十三という数字だけが記録され、その横に短く評価が添えられている。
良好。
次の頁を捲った。
第二回実地試験。
死亡確認、三百二十一名。
評価――改善の余地あり。
第三回。
死亡確認、八百九十二名。
評価――成功。
数字だけなら、兵器の性能試験にしか見えない。
実際、帝国にとってはそうなのだろう。
資料を閉じかけた。
これだけでも十分だった。
製造記録がある。
実地試験がある。
承認印も残っている。
帝国が〈灰の雨〉の存在を否定したところで、これを持ち帰れば言い逃れは難しい。
任務は達成した。
あとは予定通り北西門へ向かえばいい。
その時、黒い表紙の内側に挟まれていた一枚の紙が目に入った。
他の書類より新しい。
紙も白い。
それを抜き取った。
第四回実地運用計画。
視線を落としていく。
実施予定地――アルネおよび周辺三集落。
軍事施設、なし。
帝国軍駐留部隊、なし。
主要産業、農業。
そして。
推定人口。
2413。
三日前、廃棄前の書類で見た数字だった。
「……これか」
ようやく意味が繋がった。
過去の記録を見る。
六百四十三。
三百二十一。
八百九十二。
そして。
二千四百十三。
違う。
まだ。
死者数ではない。
実施予定日を見る。
二日後。
午前五時。
あと三十一時間ほど。
紙を資料へ戻した。
任務の意味が変わった。
証拠を持ち帰るだけではない。
アルネへ、二日後に何が起きるのかを知らせなければならない。
それでも脱出計画そのものは変わらない。
午前零時までに北西門へ行く。
残り一時間二十六分。
予定よりまだ余裕がある。
資料室を出ようとして、ふと足が止まった。
第三回実地試験。
八百九十二名。
何かがおかしい。
資料を開き直した。
対象人口、一千四百六十七名。
想定死亡率、九十二パーセント。
死亡確認、八百九十二名。
五百人近く、想定より多く生き残っている。
それなのに評価は、成功。
頁の下部に追記があった。
予期せぬ高位回復魔法による医療介入。
兵器性能そのものに問題なし。
医療介入者。
帝国軍所属。
大回復魔道士。
エレナ・アルフォード。
「……エレナ?」
その名前は知っている。
帝国最高の大回復魔道士。
一人いれば部隊の生存率が変わるとまで言われ、帝国内では英雄として扱われている女だ。
その女が、なぜ帝国の兵器試験を妨害している。
続きを読む。
帝国軍より治療停止命令。
拒否。
帰還命令。
拒否。
対象地域住民への治療を継続。
さらに後ろには、エレナが治療した者たちの記録が残っていた。
毒性魔力の残存量。
治療開始までの時間。
回復魔法の使用回数。
生存率。
どの段階なら治療でき、どこを越えれば治療が困難になるのか。
帝国は、それをすべて記録していた。
次の第四回実地運用計画には、改良点が並んでいる。
毒性魔力濃度、増加。
初期浸透速度、増加。
高位回復魔法による除去耐性、追加。
眉を寄せた。
「治されたから、治せないようにしたのか」
第三回から、治療法まで逆算している。
アルネで同じことが起きれば、前回と同じ方法では助けられない可能性が高い。
頁を捲った。
最後に、人事処分記録が綴じられていた。
三週間前。
対象者。
エレナ・アルフォード。
軍命令違反。
敵性指定地域住民への無許可治療。
治療停止命令違反。
帝国軍負傷者優先の治療命令拒否。
軍籍離脱の意思表明。
拘留。
処分。
死刑。
執行予定日。
明朝六時。
「……明日か」
エレナ本人なら。
改良前とはいえ、実際に〈灰の雨〉を治療した経験がある。
毒性魔力がどう人体へ侵入し、どの段階で何が起きるのかを知っている。
資料だけ持ち帰るより、価値はある。
かなりある。
それでも。
任務上、必須ではない。
アルネへ警告すれば避難させられる。
資料があれば、こちらでも対策は考えられる。
帝国最高の大回復魔道士を連れて脱出する危険と釣り合うかと言われれば、答えは簡単だった。
釣り合わない。
資料の最下部に目を落とす。
身柄の収容先は北部魔導研究所になっている。
ここにいる。
帝国最高の回復魔道士を拘束するなら、普通の牢では足りない。
魔力そのものを削る設備が必要になる。
北部魔導研究所で、それがある場所は一つ。
地下三層。
拘束区画。
帰路から大きく外れてはいない。
時計を見る。
二十二時三十六分。
予定より四分早い。
「三分」
それだけ確認する。
本人が本当にいるのか。
〈灰の雨〉について、資料にない情報を持っているのか。
使える情報がなければ、そのまま帰る。
資料を鞄へ入れた。
五重封鎖を元へ戻す。
第五。
第四。
第三。
第二。
第一。
侵入した痕跡は残さない。
扉を離れ、地下第四層を抜ける。
警報は鳴っていない。
ここまでは予定通りだった。
地下三層へ上がる。
拘束区画へ続く通路の手前で足を止めた。
警備兵が二人。
この時間なら、あと一分ほどで交代する。
壁際で待つ。
やがて一人が欠伸をした。
「交代、遅いな」
「明日の朝までだろ。我慢しろ」
「あの女の処刑が終われば、ここも楽になるか」
「楽になるだろ。あれが魔法使えたら、こんな人数じゃ足りねえんだから」
いた。
確認は取れた。
交代の兵士が来る。
四人の視線が一瞬、引き継ぎ用の記録板へ集まった。
その間に反対側の通路へ回る。
拘束区画の構造は知っている。
入ったことはない。
だが、清掃用の裏口なら三年間で何度も見てきた。
雑用ばかりやらされたことも、たまには役に立つ。
鍵を開け、中へ入る。
空気が重かった。
壁。
床。
天井。
区画全体へ魔力抑制術式が張られている。
ここに長くいれば、魔力は少しずつ削られていく。
帝国最高の大回復魔道士を三週間閉じ込めている。
今、まともに魔法が使えるとは思えない。
通路の一番奥。
鉄格子の向こうに、女がいた。
壁にもたれて座っている。
長い髪は乱れ、頬は痩せていた。
両手には魔力封印用の拘束具。
足首には鎖。
英雄だ、大魔道士だと帝国中で騒がれていた女とは思えない姿だった。
「エレナ・アルフォード」
女がゆっくり顔を上げた。
「……誰ですか」
「明日の朝、処刑?」
一瞬、怪訝そうな顔をされた。
「予定通りなら」
「ここにはどれくらいいる」
「三週間ほどです」
やはり長い。
魔力はほぼ残っていないだろう。
身体もかなり弱っている。
連れて出るなら、想定していた最悪に近い。
エレナがこちらを見た。
「帝国兵……ではありませんね」
「服は帝国兵だけど」
「歩き方が違います」
少しだけ眉を上げた。
「よく見てるね」
「三週間、やることがありませんでしたから」
声は弱い。
だが頭は働いている。
「名前は」
「レオン」
「姓は?」
「三分しかない」
「では所属だけでも」
「三分しかない」
「随分と秘密が多い人ですね」
「牢屋にいる人に言われたくない」
エレナが僅かに笑った。
「それで、レオン。何をしに来たんですか」
「聞きたいことがある」
「私を助けに来たわけではないんですね」
「違う」
「そうですか」
妙にあっさりしていた。
鉄格子の前へしゃがむ。
「〈灰の雨〉」
エレナの表情が変わった。
「……どこで、その名前を知ったんですか」
「質問はこっち」
「なら、答えたくありません」
「明日の朝死ぬのに?」
「明日の朝死ぬからです」
少し面倒な女らしい。
「第三回の実験。治療したのはお前?」
「……はい」
「何人治した」
「覚えていません」
「覚えてない?」
「一人ずつ数える余裕なんてありませんでした」
即答だった。
「どう治した」
「毒性魔力を身体から剥がしながら、壊れた組織を回復させました。ただ、侵食が深くなるほど除去が難しくなります」
「第四回は改良されてる」
「でしょうね」
驚かなかった。
「分かってた?」
「私が治した人たちを帝国の研究員が調べていました。何を失敗したのか調べているのだと思っていました」
「次は治せないように?」
「おそらく」
少し考えた。
「改良されても治せる?」
「見てみないと分かりません」
「可能性は」
「あります」
「どれくらい」
「だから、見てみないと分かりません」
「便利な答えだな」
「嘘を言うよりいいでしょう」
確かに。
資料だけより、この女を連れて帰る価値はある。
だが、価値があることと助けるべきことは別だ。
「帝国から治療を止められた」
「はい」
「命令違反になるのは分かってた?」
「はい」
「それでも続けた」
「はい」
「なんで」
エレナは一瞬、不思議そうな顔をした。
「苦しんでいる人がいたからです」
「帝国から敵性地域に指定されてた」
「だから何ですか」
今度も迷わなかった。
「帝国兵なら助ける。敵と決められた人なら見殺しにする。私は、それを回復魔法だとは思いません」
「軍人には向いてないな」
「自覚しました」
エレナは少しだけ視線を落とした。
「誰を治して、誰を見殺しにするのか。それを帝国に決めさせるのは、もうやめました」
黙った。
三分。
もう過ぎている。
聞くべきことは聞いた。
エレナには価値がある。
〈灰の雨〉を実際に治療した唯一の人間かもしれない。
連れて帰れば、アルネを救う可能性は上がる。
だが。
今の状態では、戦力にはならない。
むしろ完全な足手まといだ。
帝国内で顔も知られている。
一緒に逃げれば追跡の規模も変わる。
何より、三年間かけて作った脱出経路は一人用だった。
「分かった」
「何がですか?」
「十分」
立ち上がる。
エレナがこちらを見上げた。
「行くんですね」
「ああ」
「そうですか」
「悪いな」
「なぜ謝るんです?」
「何となく」
「あなたには、あなたの仕事があるのでしょう」
「ある」
「なら、行ってください」
エレナは鉄格子から視線を外した。
「二千人以上の命がかかってる」
「……何ですか?」
「何でもない」
背を向けた。
拘束区画を出る。
裏口を閉める。
通路を進む。
一人なら帰れる。
証拠もある。
アルネにも知らせられる。
何も間違っていない。
二十歩ほど進んだところで、足が止まった。
時計を見る。
二十二時五十一分。
まだ間に合う。
一人なら。
「…………くそ」
十秒だけ立ち止まった。
それで十分だった。
踵を返した。
拘束区画へ戻る。
裏口を開ける。
一番奥まで進む。
足音に気づいたエレナが顔を上げた。
「……忘れ物ですか?」
「エレナ」
「はい?」
「走れる?」
「……え?」
「走れるか」
エレナは自分の脚を見た。
「たぶん、無理です」
「どれくらい無理?」
「三週間ほとんど歩いていませんので、走ればすぐ転ぶと思います」
「最悪だな」
「戻ってきて最初に言う言葉ですか?」
「歩ける?」
「それなら……なんとか」
「分かった」
鉄格子の錠を確認した。
通常錠。
魔力封印錠。
そして緊急開錠装置。
正規の鍵はない。
通常の手順で開けるには、警備室から二人分の認証が必要になる。
そんな時間はない。
「何をするんですか?」
「予定変更」
「まさか、私を?」
「今さら確認する?」
「でも、先ほど行ったじゃないですか」
「戻った」
緊急開錠装置へ手をかけた。
エレナの表情が変わる。
「待ってください」
「何」
「それを使えば警報が鳴ります」
「知ってる」
「地下区画が封鎖されます」
「それも知ってる」
「なら――」
「他に開け方がない」
「私を置いていけばいいでしょう」
手が止まった。
「さっきは行けって言っただろ」
「本当に戻ってくるとは思いませんでした」
「俺も思ってなかった」
「でしたら今からでも――」
「遅い」
「まだ開けていません」
「俺の中では遅い」
エレナが黙った。
装置を握り直した。
「一応言っとくけど」
「はい」
「助ける価値はある」
「……それは褒めています?」
「〈灰の雨〉を治療した人間は貴重だ」
「なるほど」
「でも、任務だけ考えたら置いていく方が正しい」
「随分はっきり言いますね」
「だから後で足引っ張ったら文句言うから」
「まだ出てもいないのに?」
「先に言っとく」
「性格悪いですね」
「よく言われる」
装置を引いた。
重い金属音。
鉄格子の封印が外れる。
一秒後。
地下全体へ警報が鳴り響いた。
赤い魔法灯が一斉に点灯する。
遠くで巨大な隔壁が閉じ始める音がした。
警備兵の怒鳴り声。
駆ける足音。
三年間調べ続けた巡回経路も、警備配置も、通行可能時間も。
この瞬間から全部変わる。
鉄格子を開けた。
エレナが呆然とこちらを見ている。
「……本当に開けましたね」
「開けるって言っただろ」
「ここまで迷いなく警報を鳴らすとは思いませんでした」
「俺も鳴らしたくなかったよ」
エレナの足首の鎖を外す。
次に両手の拘束具。
最後の留め具が外れた瞬間、エレナの身体が前へ崩れた。
肩を支える。
「おい」
「すみません……」
「立てるって言ったよな」
「歩けるとは言いました」
「立てなきゃ歩けないだろ」
「今から立ちます」
エレナは壁へ手をつき、ゆっくり立ち上がった。
膝が震えている。
魔力もほとんど感じない。
「魔法は?」
「使えません」
「一つも?」
「今は、たぶん」
「回復も?」
「無理です」
「…………」
「何ですか」
「いや」
額を押さえた。
帝国最高の大回復魔道士。
魔力なし。
走れない。
まともに立つのも怪しい。
警報は鳴っている。
脱出経路は封鎖され始めた。
「想像より酷かった」
「助けた人に言うことではないと思います」
「俺もそう思う」
腕を差し出した。
「掴まれ」
「大丈夫です」
一歩。
エレナの膝が折れた。
受け止める。
「…………」
「今のは床が」
「普通の床だ」
「少し滑りました」
「乾いてる」
「…………」
「手」
エレナは少し不満そうな顔をしながら、俺の腕を掴んだ。
「離すなよ」
「はい」
エレナの脚を見る。
「可能な限り速く歩け。勝手に動くな。勝手に何か触るな。俺が伏せろと言ったら伏せる」
「分かりました」
「本当に?」
「信用がありませんね」
「会って十五分だからな」
遠くで扉が開いた。
複数の足音がこちらへ向かってくる。
剣へ手をかけた。
「行くぞ」
「はい」
一歩。
エレナを連れて、牢を出る。
三年間。
一度も鳴らさなかった警報。
一度も使わなかった逃走経路。
一度も崩さなかった予定。
その全部を、自分で壊した。
それでも。
もう戻す気はなかった。




