第一話 帝国一の無能兵
「悪い、ルドルフ! 手が滑った!」
頭から水を被った。
冷たい水が髪を伝い、軍服の襟から背中へ流れ込む。
二階の窓から笑い声が降ってきた。
「おい、廊下まで濡らすなよ!」
「掃除当番なんだから自分で拭いとけ!」
「魔法で乾かせ、魔法で!」
俺は足元に転がった木桶を拾い、二階を見上げた。
「そんな便利な魔法、使えませんよ」
「知ってる!」
また笑われた。
帝国軍北部魔導研究所。
帝国北部における魔法研究の中枢であり、新型術式や魔導兵器の研究、開発を行う軍事施設。
そこで俺は三年間、無能として生きてきた。
ルドルフ・ベルン、二十七歳。
剣術は最低評価。雷属性の魔法を持ちながら、訓練で出せるのは指先に小さな火花を散らす程度。実戦経験もなければ、これといった功績もない。
任される仕事は掃除、荷運び、倉庫整理、研究員の使い走り。
後輩には階級を抜かれ、新人兵からは「ルドルフに負けたら終わり」と笑われる。
三年間。
そう思わせてきた。
そして今日。
ルドルフ・ベルンは消える。
「何をしている、ルドルフ」
背後から声がした。
振り返ると、ヴァルガス大尉が立っていた。
三十七歳。北部魔導研究所の警備部隊を預かる男で、俺の直属の上官でもある。
大柄な身体に、隙なく整えられた軍服。腰には帝国軍制式の長剣と、七本の鍵が下がっている。
「水をかけられました」
「誰にだ」
「見てませんでした」
「なら自分で転んだんだろう」
「桶の水を頭から被る転び方ってあります?」
「口答えするな」
「すみません」
頭を下げる。
ヴァルガスは鼻を鳴らし、そのまま通り過ぎようとした。
「ああ、ルドルフ」
「はい」
「今夜、酒を買ってこい」
「またですか?」
「何か文句があるのか」
「先週も俺でしたよね」
「だから何だ」
「店の主人に、大尉の名前を出したら次は売らないって言われました」
「俺の名前を出せ」
「もっと怒られます」
「黙って買ってこい」
「はい……」
ヴァルガスが去っていく。
その腰で、七本の鍵が鳴った。
六本の銀。
一本の黒。
黒鉄の鍵が加わったのは、一年七か月前だった。
最初は何の鍵か分からなかった。
だから調べた。
研究棟、武器庫、魔導具保管庫、地下施設。
ヴァルガスがどこへ行き、何時に戻り、鍵の位置が変わっているのはいつか。
一つずつ潰した。
三か月前。
ようやく辿り着いた。
地下第四区画。
帝国軍北部魔導研究所、最高機密資料室。
俺は雑巾を絞った。
床に広がった水を拭きながら、いつものように困った顔で笑う。
誰も俺を見ていなかった。
無能な男が何を見ているかなんて、誰も気にしない。
それが、三年間で得た一番大きなものだった。
夜。
「遅いぞ」
「店が混んでたんですよ」
「いつもの酒だろうな」
「三年間買わされてますからね。間違えません」
警備室で、ヴァルガスが俺から酒瓶を奪い取った。
「お前にも一つくらい取り柄があったな」
「酒の買い出しが取り柄って嫌だなあ」
「靴磨きも上手いぞ」
「それ、兵士として褒めてます?」
「磨いていけ」
「言わなきゃよかった」
ヴァルガスが椅子へ腰を下ろした。
俺は仕方なく布を取り出し、その前へしゃがみ込む。
黒い軍靴を磨く。
右。
左。
ヴァルガスは早くも酒瓶を開けていた。
警備室の奥では、二人の兵士が明日の配置について話している。
「視察団、本当に明朝なんですか?」
「ああ。帝都を昼に出たらしい。今夜中には北部へ入る」
「面倒だな。こっちは巡回まで増やされてるのに」
「仕方ないだろ。第三研究棟に一人追加。地下巡回も二十三時に一度増える。忘れるなよ」
布を動かす手は止めなかった。
地下巡回が一度増えた。
予定にはなかった。
問題ない。
北通路を捨てる。
第三研究棟を経由すれば九分増えるが、二十二時十五分の魔力炉放出には間に合う。
ヴァルガスが酒を飲む。
「まだか?」
「もう少しです」
「さっさとしろ」
「だったら自分で磨いてくださいよ」
「お前の方が上手い」
「やっぱり転職しようかな」
笑いが起きた。
俺も笑った。
軍靴を磨き終える。
立ち上がる時、ヴァルガスの腰に手が触れた。
「すみません」
「気をつけろ」
「はい」
頭を下げて警備室を出た。
扉を閉める。
廊下を歩く。
角を一つ曲がったところで、右手を開いた。
黒鉄の鍵があった。
十二秒。
それだけ借りればいい。
懐から薄い型板を取り出し、鍵を押し当てる。
表。
裏。
溝。
深さ。
もう必要な形状は分かっている。
最後の確認だけを終え、来た道を戻った。
「大尉」
「今度は何だ」
「布、忘れました」
「お前は本当に使えんな」
「よく言われます」
机の横に落としておいた布を拾う。
ヴァルガスの背後を通った。
黒鉄の鍵を元の位置へ戻す。
「失礼しました」
「明日の朝は遅れるなよ」
「分かってます」
「お前は放っておくと寝坊するからな」
「今日は早く寝ますよ」
警備室を出た。
今度は戻らない。
廊下の窓に映る自分の姿を一度だけ見る。
猫背。
僅かに外へ開いた爪先。
小さな歩幅。
人とすれ違うたびに相手へ道を譲る癖。
全部、三年前に作った。
角を曲がる。
人影が消えた。
背筋を伸ばした。
爪先を戻す。
重心を変え、歩幅を広げる。
呼吸を浅くする。
足音が消えた。
ルドルフ・ベルンの歩き方も消えた。
懐中時計を開く。
二十二時四分。
残り、一時間五十六分。
午前零時。
北西門。
三年前から決まっている。
連絡はない。
変更もない。
俺が今日まで生きていることを、向こうが知る方法すらない。
それでも午前零時になれば、北西門で脱出路が開く。
俺がそこにいようが、いまいが。
それが三年前に決めた約束だった。
目的は一つ。
帝国が存在そのものを否定している広域魔導毒――〈灰の雨〉。
製造記録。
使用記録。
命令系統。
帝国の関与を証明できるものを持ち帰る。
三年間潜っても、確証は掴めなかった。
だが三日前。
ようやく見つけた。
廃棄直前の書類に記されていた、二つの文字列。
〈GRAY〉。
そして。
2413。
意味は分からない。
調べる時間も、もうない。
今夜が最後だ。
第三研究棟へ入った。
昼間とは違い、夜間の照明は最低限まで落とされている。
人はいない。
いや。
正確には、二十七秒後に来る。
俺は歩みを止めず、突き当たりの扉を開いた。
清掃用具庫。
中へ入る。
扉を閉めた七秒後、廊下から足音が聞こえた。
二人。
「……視察のたびにこれだ」
「あと一周だ。終わったら飲みに行こうぜ」
「ヴァルガス大尉みたいになるぞ」
「それは嫌だな」
笑い声が遠ざかる。
俺は十二秒待ってから扉を開けた。
巡回が増えても、人間が歩く速度までは変わらない。
階段を下りる。
地下第一層。
ここから先は、昼間の俺には入る理由がない。
最初の扉には鍵がない。
代わりに、通過する人間の魔力を読み取る認証術式が埋め込まれている。
登録されていない魔力が触れれば、警備室へ通知が飛ぶ。
俺は扉の前で待った。
懐中時計を見る。
二十二時十四分五十八秒。
十五分。
低い振動が地下を走った。
研究所中央の大型魔力炉が、蓄積した余剰魔力を外へ放出する。
その瞬間だけ、地下の認証術式へ流れる魔力が僅かに乱れる。
毎日一度。
十一秒。
三年前には知らなかった。
知るまでに八か月かかった。
扉へ手を当てる。
開く。
通過。
閉める。
九秒。
警報は鳴らない。
その先で、足を止めた。
何もない廊下。
少なくとも、目にはそう見える。
腰の小袋から黒い筒を取り出し、先端を捻った。
細かな銀色の粉が空気へ舞う。
次の瞬間。
廊下を埋め尽くすように、無数の赤い線が浮かび上がった。
縦。
横。
斜め。
床から数センチ。
腰。
首。
天井近く。
魔力感知線。
一本でも触れれば、地下区画が封鎖される。
しかも配置は一定ではない。
十二秒ごとに切り替わる。
俺は時計を見なかった。
必要ない。
覚えた。
右足を一歩。
止まる。
目の前を赤い線が通過する。
消えた瞬間に身体を横へ向け、二本の間を抜ける。
左足。
しゃがむ。
頭上を三本。
立たない。
次の切り替えまで二秒。
一。
二。
床すれすれの一本が消える。
手をつき、身体を滑らせた。
立ち上がる。
最後の一本が胸の前を横切った。
消える。
通過した。
振り返る。
赤い線が再び廊下を塞ぐ。
ここを初めて見た時は、突破できるとは思わなかった。
今は違う。
さらに地下へ降りた。
第二層。
第三層。
途中で予定になかった警備兵を一人見つけた。
曲がり角の向こうから足音が近づいてくる。
この時間、この通路を使う者はいないはずだった。
足音の間隔を聞く。
一人。
急いでいる。
俺は壁際の配管へ手を伸ばし、細い留め具を抜いた。
金属片が床へ落ちる。
甲高い音。
「ん?」
足音が止まった。
俺は反対側の資材棚の影へ入る。
警備兵が角から顔を出した。
「何だ?」
床の金属片を見る。
近づく。
拾う。
「……また緩んでるのか」
警備兵が配管を見上げた。
その背後を通った。
走らない。
息も止めない。
ただ歩く。
十歩。
十一歩。
角を曲がる。
警備兵は振り返らなかった。
想定外。
それくらいは起きる。
三年間で学んだ。
計画通りにいくことを前提にした計画は、計画とは呼ばない。
地下第四層。
空気が変わった。
壁も床も、それまでとは違う黒い石材で覆われている。
魔力を吸収する特殊建材。
窓はない。
逃げ道もない。
突き当たりに、一枚の扉があった。
帝国最高機密資料室。
俺はその前に立った。
扉の横には五つの装置が並んでいる。
第一封鎖。
物理錠。
複製した黒鉄の鍵を差し込む。
回った。
小さな音がする。
第一封鎖、解除。
第二封鎖。
魔力認証。
細い針を認証盤の下へ差し込み、内部の術式へ触れる。
雷属性の魔力をほんの僅かに流した。
強ければ壊れる。
弱ければ反応しない。
必要なのは、一か所だけ。
術式の流れが一瞬途切れた。
その間に、認証盤の横にある接点を繋ぐ。
第二封鎖、解除。
この位置を知るまで、一年二か月。
第三封鎖。
八桁の暗号。
入力する。
五。
一。
九。
七。
四。
二。
六。
三。
第三封鎖、解除。
これは簡単だった。
管理官が暗号を覚えられず、机の裏へ書いていた。
第四封鎖。
時限式。
表示されている文字盤を見る。
二十二時二十七分。
開錠可能になるまで、あと十九秒。
急がない。
十七。
十六。
十五。
背後から音はしない。
十一。
十。
九。
右手を装置へ置く。
三。
二。
一。
術式が切り替わる。
回す。
第四封鎖、解除。
そして。
第五封鎖。
鍵穴もない。
認証盤もない。
ただ帝国の紋章が刻まれているだけだった。
最後の一つだけがずっと分からなかった。
何を入れるのか。
誰の魔力を使うのか。
どんな術式なのか。
そもそも装置がどこにあるのかさえ分からない。
答えを見つけたのは。
先月だった。
俺はしゃがみ込んだ。
帝国の紋章には触れない。
見るのは床。
扉の前。
黒い石材の継ぎ目。
右から七枚目。
爪を差し込み、僅かに持ち上げる。
下に小さな金属板があった。
押す。
何も起きない。
そのまま三秒。
離す。
立ち上がり、扉の取っ手へ手をかける。
五秒以内。
回した。
重い音が地下に響いた。
扉が、ゆっくりと開いていく。
警報は鳴らない。
誰も来ない。
五重封鎖。
突破するのにかかった時間は、二分にも満たない。
準備には。
三年かかった。
中へ入る。
扉を閉めた。
広い。
天井まで届く書架が、何列も並んでいる。
帝国が存在を認めない研究。
失敗した魔導兵器。
人体実験。
軍内部ですら閲覧を許されない記録。
そのすべてが、この地下に眠っている。
だが、興味はない。
探すものは決まっている。
書架の番号を確認しながら奥へ進む。
十二。
十三。
十四。
ない。
次。
十六。
十七。
その途中で足が止まった。
最下段。
黒い背表紙。
文字は一つしかなかった。
――〈GRAY〉。
三年間。
笑われた。
馬鹿にされた。
床を拭いた。
酒を買った。
上官の靴まで磨いた。
その全部が。
ここへ繋がっている。
俺は黒い資料へ手を伸ばした。
「やっと会えたな」
帝国一の無能兵が。
三年かけて、帝国最高機密へ辿り着いた。




