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vol.7 水星の炎、夜空を駆ける

 けんたろうの部屋で、動いているものは二つだけだった。

 カーテンの隙間から差し込む朝日。

 鍵盤の上を這う、指の影。


 昨夜から一睡もしていない。

 時計の針の音は、とうの昔に意識の外へ追いやられていた。

 今ここにあるのは、同じ小節を何十回も繰り返す音と、かすれる自分の呼吸だけ。


「もう少し……ここのリズムを……」


 独り言が漏れた。

 何度も同じフレーズを叩く。

 指先が覚えている感触と、脳内で鳴っている爆音が、あと数ミリ噛み合わない。


 ふと、イメージが降りてきた。


 水星だ。


 太陽に一番近い、孤独な岩塊。

 昼は鉛も溶ける灼熱地獄。

 夜はすべてを凍らせる極寒の世界。

 まるで、熱病と悪寒を同時に味わっているような——


 指先が、熱い。

 背中が、冷たい。

 水星が身体と重なる。

 そんな感覚。


 同じ星なのに、片側は炎、反対側は氷。

 そんな無茶苦茶な世界のイメージが、彼の中で、音の断片と結びつきはじめた。


 もし、その地平線を「炎」が駆け抜けるとしたら。

 音はどんなふうに、空気を震わせるのか。


 指が走る。

 もはや考えていない。

 音が音を呼び、旋律が重力を生む。

 部屋が宇宙になる。

 鍵盤が惑星になる。

 けんたろうの内側で何かが燃え上がり、それは炎となって指先から溢れ出した。


「これだ……」


 声は確信だった。


 ——FIRE ON THE MERCURY。


 灼熱と極寒が交錯する水星を、一本の炎が貫く。

 重いビートと疾走するシンセのユーロビート。

 限界を超えて夜空を駆ける炎の軌跡が、音になって部屋に影となって焼き付いた。


 ♪ ♪ ♪


 その日の午後。

 Rogue Sound の小さなスタジオに、新しい曲のデモが流れはじめた。


 デモが流れ始めた瞬間、ユージの身体が反応した。

 目が見開かれ、肩が揺れ、足がリズムを刻む。

 音が彼を操る。

 いや、彼が音に身を委ねる。


 曲が終わると同時に、椅子の脚がギィと鳴り、ユージが飛び上がる。


「うおおおっ!

 マジかよ、けんたろう!」


 ユージは言葉にならない興奮を抱えて、スタジオ中を駆け回る。


「これヤバすぎる!

 まるで宇宙から届いた音みたいだ!

 世界がひっくり返る音がしたぞ!

 お前の頭ん中、どうなってんだよ。

 宇宙人か?」


 綾音は黙っていた。

 でも、その瞳は潤んでいるようにも見える。


「凄いです。

 本当に……。

 鳥肌が引かない」


 ため息交じりにそう言ったあと、彼女はふと現実に引き戻されたような顔をした。


「でも……どうしましょう」


「あ?」


 ユージが足を止める。


「どう届けるか、です。

 宝石だって、泥の中にあったらただの石ころですよ」


「どうプロモーションするか、ですね」


 沈黙が落ちる。

 ユージの足が止まる。


「私たちはまだ無名です。

 いくら曲が素晴らしくても……届ける手段がなければ」


「そんなの何とかなるって!」


 ユージの声には、いつもの強気が混ざっている。

 けれど、その顔にはかげりが見えた。


「……て言ってもなぁ。

 ライブで歌っても、CDは手売り。

 口コミ人気だけじゃ、この炎、まだライターの火くらいかもな……」


 現実的な問題。

 数字。

 宣伝。

 タイアップ。

 そういう単語は、けんたろうにとって、まだ遠い国の言葉みたいに感じられる。


 彼は黙って聞いていた。

 そのあいだにも、頭の中では既に、次の曲の断片が星屑のように漂い始めていた。


 一方、Rogue Sound事務所の奥の社長室。

 社長は古い電話帳を机に広げていた。


「お前たち、見てろよ」


 社長は胸を張る。

 その仕草だけは、やけに大物っぽい。


「俺の、この蜘蛛の糸みたいに細いコネ、全部束ねてな。

 絶対になんか、仕事を取ってくるからな!」


 悲壮な決意。

 片っ端からダイヤルを回す。


「あ、もしもし山田か?

 吉岡だ。

 いや、今日は金の無心じゃなくて……あ、切れた」


「鈴木くん?

 俺だよ俺!

 え? 『どこの俺だ』って……泣くぞ?」


 受話器を置くたび、社長の肩が少しずつ下がっていく。

 電話帳のページだけが、やたらと分厚く、時代遅れな重さを主張していた。


「社長のコネって、飲み屋のツケの名簿くらいじゃないスか」


 ユージが、ソファに寝そべりながら茶々を入れる。


「失敬な!

 俺だってな、やるときゃやるんだ!」


 社長はむっと言い返すが、その声にもどこか力がない。


「……て言ってもなぁ。

 俺のコネだけじゃ、やっぱ限界あるのかもなぁ……」


 ため息混じりの独り言。

 そのとき、事務所の電話が唐突に鳴り響いた。


 どうせまた営業か間違い電話だろう——

 社長はそう思いながら、気のない声で受話器を取った。


「はい、もしもし、Rogue Sound です……」


 ♪ ♪ ♪


 都内の一等地。

 豪華なレコーディングスタジオ。

 成功の匂いと、張りつめた緊張。

 高価な機材の金属臭。


 一条零がヘッドフォンを外す。

 彼女の歌声が、まだ空気の中に余韻を残している。


「素晴らしい、零。

 いつも通り完璧だ」


 真壁がガラス越しに微笑んだ。

 六十歳。

 銀髪のオールバック。

 黒いスーツを着こなす男。

 彼の手がけたアーティストはことごとく頂へと昇る。

 伝説のプロデューサー——その名に嘘はない。


 零はスタジオを出て、真壁の前に立った。


「真壁さん」


 その声は、いつもより少しだけ熱を帯びていた。


「ある人を、世に出したいのですが」


 真壁の眉がわずかに上がる。


「零が他人に興味を持つとは……珍しいな」


「Synaptic Drive というバンドのキーボーディスト。

 けんたろうという人物です」


「知らないな。

 小さなインディーズか?」


「はい。

 でも、彼の音楽には……魂があります」


 真壁の目が光った。


「零がそう言うなら——面白い」


 ♪ ♪ ♪


 Rogue Sound 事務所。

 受話器を握りしめたまま、社長が固まっていた。

 顔色が赤い。

 いや、青いか。

 ゆっくりと、錆びついたロボットみたいに三人を振り返る。


「なんとか……なんとかどころじゃない。

 とんでもない仕事が舞い込んできたぞ!」


 声が震えている。

 言葉が、興奮に追いついていない。


「深夜ドラマの主題歌だ!

 しかも、オープニングとエンディング、両方だ!」


 三人は、口をパクパクさせている。

 ドラマの主題歌。

 無名に近い彼ら。

 夢にしては出来すぎている。


「オープニングには、今の新曲がイメージぴったりだとさ。

 で、エンディングにもう一曲欲しいそうだ。

 ただ……」


 社長が言いよどむ。


「悪い、けんたろうくん。

 急いでもう一曲作れるか!?

 締め切りは一週間後だ!」


「一週間!?」


 ユージが叫ぶ。


「殺す気かよ!」


 綾音も顔面蒼白だ。


「さすがに無茶です。

 プロモーションも準備も……」


 終わった。

 空気がそう言っている。

 だが、けんたろうの口から出た言葉は違った。


「……大丈夫です」


 自分でも驚くほど冷静な声だった。

 いや、冷静ではないのかもしれない。

 頭の中はもう、次の宇宙へ飛んでいたから。


「今、メロディが流れてます。

 止まらないんです」


 部屋の空気が、もう一度止まる。

 三人分の視線が、同時にけんたろうに刺さった。


 次の瞬間、ユージが破顔する。


「マジかよ、けんたろう!

 お前、やっぱ天才だ!

 社長、こいつは俺たちのスーパープロデューサーなんですよ!」


 社長は、驚きと喜びをそのまま顔に貼りつけたような表情で、けんたろうを見つめた。


「……やってくれるか?」


 けんたろうは、ゆっくりと頷いた。


 目を閉じると、ひとりの少年が見えた。

 どこにも属さない、宇宙のただ中をふわふわと漂う少年。

 星と星のあいだを、まだ自分の重さも知らない足取りで進んでいく。


 ——UNIVERSE BOY。


 FIRE ON THE MERCURY が、燃え上がる炎だとしたら。

 UNIVERSE BOY は、真空に跳ねる光の粒だ。

 オープニングの壮大な火柱と対をなす、浮遊感があって、立体的で、でもどこかイケイケなユーロビート。


 まだ鍵盤に触れてもいない。

 だけど、けんたろうの中ではもう、イントロのフレーズが鳴り始めていた。

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