vol.6 一条零
Synaptic Driveがデビューして、まだ数日。
街のざわめきは、僕たちの名前を呼ばない。
代わりに、テレビをつけても、スマホを開いても、同じ名前が流れてくる。
一条零。
音楽チャートを長く支配する、ソロアイドル。
年齢は十九歳。
けれど、その落ち着きと、どこか「こちら側ではない」感じは、とても十九には見えなかった。
人々は彼女を、さまざまな言葉で呼んでいた。
「音の探求者」
「音楽の求道者」
そして——絶対的歌姫。
そんな言葉が、半ば敬語みたいにつきまとう。
まるで、この時代に偶然生まれてしまった、音楽の巫女。
まるで、音楽そのものに選ばれた人間。
彼女の歌声は、宇宙の真理の断片を運んでくる──。
そんなふうに本気で信じているファンがいても、おかしくない存在だった。
その日のRogue Soundでも、テレビから彼女の新曲が流れていた。
『光の裏の闇』
スタジオの照明は、夜の底のように暗く落とされている。
白いスポットライトだけが、一条零の輪郭を浮かび上がらせていた。
マイクを持つ横顔には、ほとんど感情がない。
けれど、最初の声が空気を震わせた瞬間、会場のざわめきが消えた。
誰かが静かにするよう求めたわけではない。
話し声も、衣擦れも、息を呑む音さえも、一条零の歌に捕らえられていく。
高音も低音も、ただ正確なのではなかった。
伴奏が途切れたあとも、彼女は何の支えもなく、たった一人で音を保ち続ける。
わずかな揺れもない。
最後には、その声を糸のように細くしながら、照明の暗がりへ溶かしていった。
輝くほどに 影が濃くなる
この場所に立つための痛みを
美しいと言うのなら
まだ胸の奥で 揺れている
名前のない孤独——
才能とは、祝福なのか。
それとも、呪いなのか。
一条零は、その両方を飲み込んで歌っているように見えた。
そして僕は、まだ何も飲み込めていなかった。
曲が終わる。
誰も動かなかった。
一条零がマイクを下ろしてから、ようやく思い出したように拍手が起こる。
その音は瞬く間に広がり、会場全体を包み込んだ。
司会者が一条零へ歩み寄る。
「一条さん、圧倒されました。
その歌声と、独創的な音楽は、いったいどこから生まれるのでしょうか?」
一条零は、すぐには答えなかった。
視線を落とし、何かに耳を澄ませるように沈黙する。
やがて、マイクを口元へ寄せた。
「……祈りです」
司会者が次の言葉を見つけられずにいる。
一条零は、静かに続けた。
「音楽は、人の心が言葉になる前に生まれる祈りだと思っています」
その瞳は、誰にも向けられていなかった。
「私は、人の評価より、私の耳を信じています。
たった一つの音にでも心が震えたなら、そこに真理のかけらが宿っているのではないかと思うのです」
それだけ言うと、一条零は口を閉じた。
司会者は小さく息を吐き、次の質問へ移る。
「では最近、一条さんの心を震わせた音楽はありますか?」
「はい」
今度は、迷わなかった。
「気になっている作曲家がいます」
会場がざわめく。
一条零が特定の個人に言及することは滅多にない。
司会者も前のめりになった。
「それは、どなたですか?」
「まだ、世間の光の中心にはいない方です」
一条零は、初めてまっすぐカメラを見た。
「その人の紡ぐユーロビートには、技巧だけでは作れない震えがある。
音が嘘をついていません」
少し間を置いて、まるでその存在を慈しむかのように、優しい口調で続けた。
「その旋律は、閉じ込められるべきではない。
もっと多くの人の胸に触れ、心に根を下ろし、世界の色彩を変えるべきです。
私は、そう願っています」
一条零の言葉に、その場にいた誰もが「いったい誰のことだろう?」と、大きな疑問を抱いた。
その時、テレビの向こうで、無意識のうちに鍵盤に手を伸ばす者がいたことは、まだ誰も知らない。
けんたろうの心臓は、これまでになく激しく、未知のリズムを刻み始めていた……
♪ ♪ ♪
【ネット民の反応】
「今日の零、すごすぎた。曲が終わっても誰も拍手できなかったぞ」
「『祈りです』で鳥肌立った。十九歳の答えじゃないだろ」
「気になる作曲家って誰だよ?」
「ユーロビートなら、Midnight Verdictのけいとじゃないの?」
「でも『まだ光の中心にいない』って言ってた。けいとはもう有名だろ」
「Synaptic Driveのけんたろうじゃね?顔を隠してるキーボーディスト」
「あの八十九位の新人?さすがに飛躍しすぎ」
「Synaptic Driveって誰だよ」
「もしシナドラのことなら、次の曲で全部わかるだろ」
♪ ♪ ♪
ちょうどその頃──。
世間がまだ名前すら知らぬ場所で、Synaptic Driveは地下水脈のように、静かに、しかし確実に熱狂を集め始めていた。
口コミだけが頼り。
手売りのCDだけが武器。
それでも僕——けんたろうは、すでに次の曲作りに取り憑かれていた。
頭の中を疾走する光の粒たち。
心臓を打ち抜く鼓動のリズム。
鍵盤に指を落とすたび、【僕の中の宇宙】が広がっていく。
生まれたのは、『FIRE ON THE MERCURY』。
灼熱と冷酷のあいだで跳ねるビート。
水星を燃やすような、重厚なユーロビートだった。
――そして、僕の背中で曲を聴き終えたユージが、ぽつりと呟いた。
「……来たな。この曲で世界を燃やそうぜ」




