vol.301 戦争はベッドの外から始まる
翌日。
ONYX TRAXの社長室。
重厚な革張りのソファに沈み込んだ社長は、書類から顔を上げもせずに言う。
「デカい予算をつけろ?
……美咲くん、夢を見るのは寝てからにしろ」
社長は葉巻の煙を吐き出しながら、冷酷に告げた。
「結果が出ていないプロジェクトに金は出せん」
社長はようやく私を見た。
その目が、プロデューサーを見る目ではない。
品定め。
「今夜、大手の連中と会食がある。
リサとミナを連れてこい。
【営業】だ。
アイドルなんて、そうやって育てるんだよ」
社長の視線が、いやらしく歪む。
夜の接待。
枕営業。
この業界の暗部。
瞬間、私の脳裏に、あの二人の顔が浮かんだ。
『美咲さん、私たち、もっと頑張ります!』
ひたむきで、私を信じてついてくる愛しい教え子たち。
(……ふざけるな)
私は奥歯を噛み締め、笑顔を作った。
「お断りします。
あの子たちはアーティストです。
安売りする娼婦ではありません」
「綺麗事を言うな!
ならどうやって金を稼ぐ!
お前のクビだけじゃ足りんのだぞ!」
社長が声を荒らげる。
私は一歩も引かず、社長の目を真っ直ぐに見据えた。
……切るしかない。
私の、最後のカードを。
「社長。
……そろそろ、本音をおっしゃったらどうです?」
私の言葉に、社長の眉がピクリと動いた。
彼の視線が、私の胸元から足先までを舐めるように這う。
「……何年待たせる気だ、美咲。
俺がどれだけお前を欲しがっているか、知っているだろう」
そう。
この男は、ずっと私を狙っていた。
Crimson Kissのプロデューサーという地位と引き換えに、いつか身体を要求されることは分かっていた。
「奥様がいらっしゃるでしょうに」
「形だけだ。
だが、お前になら本気になってもいい」
反吐が出る。
けれど、ここで私が拒絶すれば、リサとミナの未来は閉ざされる。
あの子たちが、汚い男たちの慰みものにされるかもしれない。
……それだけは、絶対にさせない。
私はゆっくりと息を吐き、覚悟を決めた。
「賭けをしましょう、社長」
「賭け?」
「今回の新戦略、そして増員プロジェクト。
これに予算を出してください。
もし、これでCrimson Kissが失敗し、トップに立てなかったら……」
私は妖艶に微笑んでみせた。
「その時は、いいでしょう。
あなたの愛人にでも、妾にでもなります。
好きになさってください」
社長の目が、欲望にギラリと光った。
彼は満足そうに笑い、グラスを掲げた。
「……乗った。
その言葉、忘れるなよ」
♪ ♪ ♪
社長室を出た私は、廊下の壁に背中を預け、震える息を吐いた。
身体が熱い。
屈辱と、恐怖と、そして奇妙な高揚感。
スマホを取り出し、リサとミナに『開戦よ』とだけメッセージを送る。
すぐに『了解です!』『やります!』と、元気なスタンプが返ってきた。
あの子たちは何も知らない。
この予算が、私の身体を担保に引き出されたものだなんて。
(……それでいいの)
私はスマホの画面を優しく撫でた。
リサ、ミナ。
あなたたちは、ステージの上でならいくらでも悪役を演じなさい。
泥を被り、世間から指をさされ、罵声を浴びる汚れ役になりなさい。
けれどね。
その身まで、本当に汚れることはないのよ。
大人の汚い取引も、夜の匂いも、全部私が引き受ける。
あなたたちは、ただ純粋に、輝くことだけを考えなさい。
たとえ私が、どれだけ泥にまみれても。
あなたたちだけは、誰よりも気高い「アイドル」でいさせるわ。
「……さあ、戦争の再開よ」
私はヒールを鳴らし、再び歩き出した。
私の戦いは、もう夢を見る年頃のものではない。
それでも私は、自分のすべてを賭ける場所へと歩き出した。




