信頼
悠馬は一人の女性を苦しめた。今、あんなに私を気遣ってくれるのは後悔の念からだと分かった。もちろん今この瞬間でも悠馬のことは信頼している。さっき話してくれた天狗になっていた時期は、今とは違う性格だっただろうと思う。私の知っている悠馬は冷たいけれど温かい。優しい気持ちをうまく表面から隠して、何にも気持ちを動かされないように装っている。でも実際にはそうではない。私に対してどうしたらいいのか分からず、接近してこなかった。それでも私の逃げ場はきちんと残してくれていた。そしてその気遣いは過去の経験からくるものだ。
いつの間にか浩久のことを思っていた。かなり昔のことに思えるが私を愛してくれていた時はあった。確かにあったと自信を持って言える程度には私たちは向き合っていた。いつから心が通わなくなったんだろう。あんなに思い合っていたからあの義母ともやっていけると思っていたのに。
もしかして私は浩久との別れを後悔しているのかもしれない。あんな酷い目にあったのに、しかも長い間。それでも悠馬の後悔を見せられて彼の気持ちも分かってしまった。どうしたいのか分からなくなってしまった。
「帰ろう」
馴染んだ声が聞こえる。そっと肩に乗せられたのは悠馬がよく来ているジャケットだ。周りを見れば空が白み始めている。寝なくてはいけない、寝られるわけがない。
「もし、気になるのなら今日は俺が家を出るから。有希は帰って寝ろよ」
普段は最小限の荷物しか持ち歩かない彼が小さいけれどパンパンに張ったボストンバッグを持っている。きっとお泊まりセット的なものが入っているのだろう。
「いい、あそこは悠馬の家だから居て。迎えに来てくれてありがとう」
彼の家だから仕方がないと思ったのか、それとも悠馬の過去は気にならなかったのかは分からないけれど、一緒に帰りたかった。
その後しばらくは悠馬の家で何事もなかったように過ごさせてもらった。仕事の都合もあり、悠馬とはあまり会わなかった。もちろん彼が時間を調整したのかもしれないけれど。とにかく私は家ではいつも通りパソコンばかりを眺めていた。
「お義母様が最後に一目お会いしたいと言っているんですが」
ある日、離婚に関する全てをお願いしている弁護士から連絡が来た。当然会わなくても良いだろう、義務はない。でも、このままで終わらせたら今後も何かとか関わらなければいけない気がして会うことにした。
弁護士の立会い、義実家以外の場所など注文は付けさせてもらった。結局はお互いの弁護士が立会い、こちらの弁護士が用意した場所で会うことになった。
「有希……」
私と私の弁護士が待つ部屋に彼らは入って来た。浩久はやつれたように見える。何かを言おうとした瞬間には義母の声でかき消されていた。
彼らは、というか義母はいくつかを要求した。慰謝料等は払うが、その後は一切関わらないこと、不倫の事実や経緯を誰にも話さないこと、証拠となる様々なものを廃棄することなどだ。そもそも不倫の経緯はSNSに載っているし、すでに何人かには話してしまっている。今後離婚について聞かれる場面はどうして欲しいのかを聞いた。それに証拠とするものは持っていたくないが、彼らに渡すのは私だって嫌だった。廃棄するなら弁護士に任せたい。
SNSについてはすでに削除済みだった。もちろんインターネット上に出回った情報が半永久的に消えないことを理解した上でだが、削除されていた。すでに知っている人には口止めをすること、知らない人には性格の不一致とでも言うことになった。実は義母は不妊だから離縁されたと言えと要求して来たのだけれど、珍しく浩久が反論していた。証拠とする様々は一旦弁護士が預かってくれることになった。弁護士は私からの要求はないのかと聞いて来たけれど、もう本当に義母に会わなくていいのなら何もないと伝えた。義母には「一切接触しない」と一筆書いてもらって私の安定剤代わりとした。
「有希、少しだけ話せないか」
浩久は義母と弁護士を先に部屋から出して私の目を見てそう言った。こうやって向かい合えたのはいつ以来だろう。もう分からないほどで、悲しいものだと思った。
少し迷ったけれど、これを逃したら私は彼と会うことがないだろうと思い、話すことにした。でも、二人きりは嫌だったので弁護士さんには部屋にいてもらった。浩久は二人きりを望んでいたようだったけれど、少し顔を歪めただけだった。
「有希、長い間、本当に申し訳ないことをした。許してもらえるとは思っていなけれど、俺が謝ったという事実を持って帰って欲しいんだ。本当に悪かった」
傲慢な態度を取っていた人とは思えなかった。あの日は彼女のところに出かけるのを少しも悪びれずに見せたくせに。
「彼女とはどうなったの?っていうか、どれくらいお付き合いしていたの?」
付き合っていたという表現が正しいのかは分からないけれど、どれくらい不倫していたの?とは聞けなかった。
「広島に移動する少し前。この間別れた」
ああ、そんなに前からだったのか、という思いが湧く。別れた理由を聞いてもいいのか分からなかった。
「俺が有希と別れることになったって知った母親が、彼女に会わせろって言ったんだ。また揉めるだろうから、かわしてたんだけど妊娠騒動もあったし彼女が会えるって言うから顔合わせしたら、案の定大波乱でね。しかも結局妊娠してなくて、それについても母親が暴れちゃってさ」
振られたわけ、と言った浩久の顔が印象的だった。以前は二人きりの時によく見た顔だ。多分自信がない時の顔。
「そっか、子供、残念だったね」
義母は跡取りの話を良くしていた。早く孫が見たかったのだと思う。直接的には言ってこなかったけれど良く近所の人の孫の話をしていた。
「今更何をと思うかもしれないけど、なんでそんなふうに言ってくれる有希を大事にできなかったんだろうって思うよ。まあ、頑張ってる有希を応援できなくて、寂しくて堪え性がなかった俺が悪いんだと思うけどさ。マジでごめん」
私の目を見つめてそう言うと、彼は失礼しますと弁護士に声をかけて部屋を出て行った。彼が私が仕事に没頭していて寂しかったと発言したのは今日が初めてだった。私たちはずっとずっと向き合えていなかったのかもしれない。今になって気づいたところで遅いのだけれど、もっときちんと向き合えていればこんな状態にはなっていなかったのかもしれない。
だからと言って彼のしたことが正当化されるわけではないけれど、私も反省すべき点があったのだと実感する。この反省を生かさなければと思った。
「悠馬、話したいの」
今日は彼は休みだと言うことはホームページを確認したので知っていた。ただ、ステージ以外の会社での打ち合わせなどは知る由がないけれど、行動を見ていれば特に予定がないのだと分かる。
「外に出る?」
小雨が降っている。夏の湿気の多い空気が肌に纏わりつく。私はいつものように台所の片隅でもいいと思っていたけれど、悠馬は「外にしよう」と言って出かける準備をした。私はこの前買った安いワンピースを身につけて階段を降りた。
「ちょっと用事があるんだ。駅前のチェーン店のカフェで待ち合わせな」
私が用意をしている最中に戸の向こうから話しかけた悠馬は階段を駆け下りる足音を残して出て行った。休みじゃなかったんだろうか。少し心配したけれど、こういう時の悠馬に何を言っても予定は変更されないことが多いので今は聞かないことにした。あとで聞けば教えてくれると思う。それで十分だ。
カフェには私が先に着いた。こうなるとますます用事の内容が心配になる。コーヒーを注文して窓際の席に座った。
店内は広いけれど騒がしいのはいつものことだ。時々ここで仕事をしているからこの雑踏の音が世間との繋がりのように思えて嫌いではない。持ち帰りを希望する客がひっきりなしにやってくる。近所の老人たちがちょっとお茶して話をする社交の場としての意味合いもある。子供が寝ているすきに私のように世間との繋がりを求めているのか、ベビーカーを引いたママもやってくる。悠馬はまだ来ない。私は何を話したいのだろう。ただ向き合いたいと思っていただけだった。
「ごめん、遅くなった」
悠馬はアイスコーヒーを持って来た。ガムシロップを手にしている。額に汗が光っている。いつもより少しだけ生き生きしているように見える。
「用事、大丈夫だったの?休みだと思っていたんだけど」
ああ、と言いながら額の汗を拭っている。何度か意識して瞬きをしていた。悠馬は大きく息を吸って話してくれた。
「さっき里菜から電話で話したいって連絡があったんだ。ただ、どんな話か分からなかったから有希のいる家では話したくなくて公園にいただけ。彼女結婚することになったって報告くれて」
まだ何度も瞬きをしている。あまり視線が絡まないのはいつもと一緒だ。ただいつもより長い間目を閉じているように思う。
「どう感じた?」
複雑だろう。自分が幸せにしたいと、一緒に幸せになりたいと思った相手が別の人とその未来を掴もうとしている。
「嬉しいと思った」
彼は微笑んでそう言った。彼の顔を見れば、それが強がりでも虚栄心からでもないということは分かる。心の底から彼女の再婚を喜んでいる。
「すごいね」
私は浩久との話し合いの最中、彼が再婚をしようと思っていた話を聞いて少なからず動揺していた。その場ではああやって答えるのが正しいと思ったから言ったけれど、心の中は嵐が吹き荒れていた。
「どうした?有希は何かあったんだろ?」
彼は一歩前に進めたのかもしれない。目に少しだけ光が灯っているように見えた。
「私は……この前旦那に会ってきた。まあ、正確には義母が最後のお小言のために呼びつけたんだけど」
ちょっとした自嘲のつもりだったけれど悠馬は気に入らなかったみたいだ。眉間に皺を寄せて不快そうな顔をする。
「そのあと二人で少しだけ話をした。それで、悠馬と話したいなと思って」
悠馬は怪訝とも不安とも言える視線をこちらに向けた。
「本当は悠馬に、なんて酷いことをしたんだ!とか、もう男なんて信じられない!って気持ちをぶつけようかと思ってたんだけど。でもさっきの話を聞いて、悠馬の顔を見て、なんだかどうでもよくなっちゃった」
どうでもよくなったわけではないけれど、悠馬にはもう必要のない言葉だ。私だって悠馬に言ったって仕方がないと思っているし、浩久にだってある程度は打つけた。
誰かが言っていた、怒ると言うことは自分にも非があるってことを分かっているからだ、と。その通りだ。私だって悪かった。
「そうなの?俺、別にぶつけられてもいいと思ってるよ。あの当時、里菜は俺にぶつけなかったんだ。言ってくれたら俺も何か言って喧嘩別れみたいになって、って思うのに里菜は俺に向かって笑ったんだ。そして出て行った。蔑んだ笑いとかじゃなかった。本当に笑顔を向けてくれたんだ。だからその瞬間から後悔した」
悠馬の目には明るい光が写り込んでいる。いつの間にか小雨は止んで、あちこちの雫がキラキラと太陽の光を反射していた。
「よかったね」
悠馬が、悠馬と里菜さんの結婚生活がやっと決着がついたのだと思った。彼女が再婚することで悠馬が抱えていた後悔が消えたんだと思う。
「ああ、幸せそうな声で笑ってた。なんなら結婚式に来てもいいとか言うんだ。ありえないだろ?」
そう言って、彼は笑う口元を隠す素振りをしながら下を向いた。目元にキラリと光るものがあった。
私も調子を合わせて笑い、店の大きく弧を描いた窓から外を見た。雨は止むのだ。
「悠馬、私、そろそろ家を探そうかな」
悠馬はいつものように私を見ない。でも、光は宿したままだ。
「いいんじゃない?でも、たまに話したいから近所にしなよ」
目をひそめるため以外で、眉を大きく動かして話すのは見たことがなかった。
「こうやってコーヒーもいいけど、悠馬の家でのスープがお気に入りなんだけど」
目を閉じながらも彼の口角が少し上がり、頬が盛り上がった。
「鍵は持ってていいよ」
そう言って、彼の荒れた親指が私の濡れた目元を拭って行った。
ありがとうございました。




