女性
悠馬の働く店は都心の地下にあった。階段の下から大きな音が聞こえる。重たい扉を開けると、うるさいと感じるほどの音量で音楽が流れていた。
「ご予約はございますか?」
「ああ、えーっと」
どうなのか分からない。でも、席を取っておくと言っていた。きっと予約してあるのだと思うけれど、私は彼の苗字を知らないし、彼も私のを知らない。さっき声を掛けてくれた男性はただ首をひねるようにして、私を見ていた。
「本日こちらでドラムを叩く悠馬の知り合いなのですが」
「ああ、有希さんですね。ロングヘアの方が来られると聞いていたので。こんにちは、店長の西山です」
そういうと、すごく丁寧や笑顔を向けてくれた。店長が直々に案内してくれる。スタッフが一瞬首をひねるけれど「ああ!」という反応を示して笑顔を向けてくれるのを見て、この店はこういうアットホームな店なのだと理解した。
「飲み物は?」
店長だというのに、聞いてくれる。オレンジジュースを頼むと、笑顔で去って言った。少し離れた場所で人と話している。その人が私の元にやって来た。
「はじめまして、有希ちゃん。フロアマネージャーの宮野です。タケシって呼んで?」
なんだ、この人。40は優に過ぎているであろうその人は、メガネを上にあげながらすっごい笑顔で話しかけてくる。その話ぶりに頷かずにはいられない。私は二度顔を縦に動かした。
「悠馬から話は聞いているよ。一人でいいんだよね?悠馬はあとちょっとで出番だから、もしかしたら打ち合わせ中で出てこれないかも。一応店長が声を掛けているはずなんだけど」
「大丈夫です。ちょっと見たくて来て見ただけなんです。あと、一人なんですがこんなに広い席を用意してもらってよかったんですか?」
店の奥まった部分にあるボックス席だ。ステージから多少離れてはいるけれどゆっくり見たい人もいるだろう。人気の席だと思う。前の方は所狭しと机と椅子が設置されていてさっきからスタッフが間を縫うように体の向きを変えて進んでいる。
「いいの、いいの。今日はあんまり予約も入ってないしね。あ、どうぞ」
フロアにいたアルバイトらしき店員の子が私の飲み物を持って来てくれた。タケシさんはその女の子を紹介してくれたけれど、人の名前を覚えるのは正直に言えば得意ではない。あの女性の名前を一度で覚えられたのは奇跡と言って良い程に。そしてタケシさんは食事の注文を聞いてくれた。フライドポテトを頼むと「もうすぐ始まるからね」とその場を離れて言った。
にわかに店内が騒がしくなる。店内の照明が暗くなって来たと同時に口笛が鳴る。初めての空間はなんとも言えないものだった。
「こんばんは!」
ちょっとレトロな衣装に身を包んだ女の子がマイクを握る。一斉にステージ上の照明がついて、目が眩んだ。そして中心から少し右にずれたところに悠馬が座っていた。もちろん叩いていた。私の知らない目をしていた。
私はただ悠馬が演奏するのを見ていた。別人かもしれないという目元はもちろん、素早い動きを初めて見たような気がする。手が何本もあるかのようにあちらを叩き、こちらを叩きしているのはなんとも面白かった。時々コーラスをして常に全体を見回していた。バラードで照明が落ちると悠馬は見えなくなった。しっとりと歌う女性は年齢不詳だ。かなり年上に感じる瞬間もあるし、20歳そこそこに見える瞬間もあった。ベースの人はかなり年上だ。白髪にハンチング帽をかぶって渋い。でもたぶん悠馬は一番年下だった。
「このステージ最後の曲です。リクエストもお待ちしています」
そう女性が言いながら手を挙げたのが合図だったみたいだ。悠馬がスティックを打ち鳴らしてカウントをする。こんな大きな声を出す人だったんだ。生命力が見えるような瞬間は初めてだと思った。
いつのまにかテーブルに置かれたフライドポテトをつまみ上げた。まだ温かい。きっとステージが終了する間際に持って来てくれたのだろうけれど、全く分からなかった。ステージに夢中になっていた。
「今日はあと二回演るけど、見ていける?」
タケシさんがフロアを一周した後で来てくれた。30分くらい演奏して40分のインターバルというようなスタイルをとっているそうだ。もう少し見たい気もした。
「あっ、ねぎちゃん」
タケシさんがどこかを見ている。きっとお客さんのことだろうと思っていたが、さっきのベースの人だ。こちらに向かって歩いて来ている。
「こちら有希ちゃん」
タケシさんはベースの人に紹介してくれた。その人は少し屈んで握手をしてくれる。
「どうも、根岸です。このバンドのバンマスやってます。今日はありがとね」
ガサガサとした大きな掌だった。下がった目元が優しそうな印象だ。
「こ、ちらこそ、すみません。お邪魔しちゃって」
なんだか恐縮する。どうやらご挨拶に来てくれたようだ。もちろん、他のテーブルのお客さんにもさらっと声をかけながらフロアを一周して、もう一度戻って来た。
「たぶん、今日は悠馬出てこれないわ。ちょっと熱烈なお客様来てて」
と言って目配せをした先には女子力を目一杯体現したような女性がいた。その人はバーテンダーの男の子に「悠馬くん呼んでよ」と大きな声で言っている。
「わあ、あういう人もいらっしゃるんですね」
暗くて年齢は分からないけれど、深く開いた胸元と短いスカートは忘れられない。むっちりとした太ももがここからも見えて、なぜか同性なのにドキドキしてしまう。
「まあ、あいつ若いし。見た目も悪くないしね。でも彼女のアプローチがあからさますぎて他のお客さんからクレーム来ちゃうんだよね。いつも。だから、出てこれないの」
ああ、挨拶では終わらないってことか。人気商売だから邪険にはできないだろうけれど、他からの苦情は避けたいだろう。
「じゃあ、根岸さんがここにいるのもダメなんじゃないですか?」
私はちょっと焦って根岸さんと距離を置いた。彼は低く響く声で笑った。
「大丈夫。俺はそんなお客さんいないから。妻も子供も来たことあるし」
だからちょっとここでお話でもしようかな、と言って私の相手をしてくれた。タイミングよくタケシさんと交代する。彼らはとても上手に、でもさりげなく私をもてなしてくれていた。
「閉店後も店内にいていいから、待っててって伝言だよ」
結局全てのステージを見終わって、会計をしようかと思っていたけれど、他のお客さんを優先した方がいいのではと思って待っていた。幸い終電にはまだ余裕がある。久しぶりにちょっとだけ飲んだアルコールに体が対応していない気がして、ソファに深く腰掛けて待っていた時、タケシさんがたくさんのグラスを乗せたトレーと共に私のテーブルに来て伝言してくれた。
待っててってどういうことだろう?悠馬はたいていもっと遅い時間に帰って来ていた。まだ何か用事があるのかと思って先に帰宅するつもりだった。もちろん会計時に店長さんに伝言を残して。
何人かのお客さんが店のスタッフと親しげに話している。私の存在に気付いて誰かがバーテンダーに聞いている。目が合ったのでつい癖で会釈をした。さっきの太ももの女の子はまだ悠馬と話したいと言っていた。アルコールのおかげで頬が赤い。胸元もいい色になっている。
「きゃあ、悠馬くん!!」
その人の声が一際大きくなる。悠馬は会計をするために列に並んだ女性の隣で話し相手をしていた。まださっきのステージ上の人の目だ。何が違うのか分からないけれどきっちりして見えた。
「客電、点きまーす」という声が聞こえて店内が明るくなった。ずっと薄暗い店内にいたせいで顔をしかめて目が慣れるのを待つ。見渡すと全てのお客さんが席を立っていた。まだ店内にいるのは、私とさっきの太もものお姉さんだけ。そのお姉さんも「またねー」と言って帰っていくのが見えた。最後に悠馬に抱きついていたのも見えた。あの胸は押しつぶされたのだろうか。
「いやマジで、今日も強烈。すげーパワーだな」
私の方に歩きながら近寄ってくる悠馬の姿は、いつものように死んだ魚の目になっている。後頭部を掻き、首を回すようにしながら足を引きずって歩いて、どかっと音を立てて私の隣に座った。
「わりーな、放ったらかしにして」
「いや、そんなの全然いいけど。ってか悠馬まだ帰らないでしょ?先に帰るよ」
スタッフの女の子が計算された伝票を持って来てくれる。ものすごく安い。どんな魔法を使うとこうなるのだろう?私が財布を出そうとした瞬間に悠馬は伝票をひっつかむようにして女の子に渡した。
「店長、俺につけておいてもらえます?」
悠馬は死んだ目のまま、ステージ上のような大きな声を出している。遠くから「はいよー」と返事があって女の子は持ち場に帰って行った。
「ありがと」
いつもみたいに手をひらひらさせる返事、もういつもの人だ。
「悠馬って、大きな声出せるし、素早く動けるんだね」
つい本人に言いたくなって口にすると、どこからともなくやって来たバンドメンバー達が笑っていた。
「店長、全員ビールいただきます」
根岸さんの声に、また「はいよー」という返事がある。悠馬が仕草だけで私にも聞いて来た。私は首を横に振って答えた。
口々に「お疲れ様」という言葉をかけて乾杯している。フロアスタッフのみんなは賄いを食べていた。バンドメンバーは食べる人とと食べない人とそれぞれだ。
「んで、有希ちゃんってこの間電話してた子だろ?」
悠馬が目をつむったまま小さく何度か頷く。
「彼女?悠馬、全然そういう話してくれないんだもん」
歌っていた女性の名はナツコさんというのだと、ステージ中に知った。その人が私を見ながら話してくれている。私は否定しようと手をあげたけれど、どこかから聞こえた男性の声に動きが止まってしまった。
「ちゃんと里菜ちゃんの話しとかなきゃだめよー」
根岸さんとナツコさんが一瞬フリーズしてから後ろを見やる。酔った顔の男性がこちらを見ていた。
「そんなんじゃありませんから。ただの友人です」
と言いながら目の前の二人に否定の意味を込めて手を振った。少しだけ、ほんの少しだけ、悠馬が動いた気配がある。熱を感じた。近づいたのだと思う。
「ねえ、里菜さんって誰?彼女?」
他の人が別の話をしているのを確認して小さな声で聞いた。
普段、悠馬と暮らしていて女性の影はない。でも、ここにいる悠馬を見ていると彼女がいないということが不自然に思える。あんな熱烈なお客様もいる。ここのメンバーたちは口々に彼女という言葉を吐く。彼女がいて当然だというように。
「ああ、元嫁。その話は家ででもいいか?」
元嫁。この言葉は思いの外、衝撃的だった。私は悠馬の言葉に返事をしたかどうか覚えていない。どこかへ意識を飛ばしていて、気付いた時にはみんなが「帰ろう」という雰囲気になっていた。私は悠馬に促されて立ち上がり階段を登った。
「悠馬、乗って行くでしょ?」
ナツコさんが声をかけてくれる。彼女は近くに止まっていた車の助手席のドアに手をかけていた。運転席には知らない男性が乗っている。
「あーっと……」
悠馬が迷ったように私を見た。それを見てナツコさんはヒールの音を響かせて私たちの近くまで来ると、私の手を引いた。そして「今日は悠馬が助手席」と言うと私を後部座席に押し込んでから、自分も乗り込んだ。
「いつも一緒に帰って来ているんですか?」
私は悠馬のことを何も知らない。
「そうね。リハーサルとかの都合もあるけれど。あと、主人が迎えに来れない日もあるから。私、隣の駅に住んでいるの。車ならついででしょ?」
ナツコさんの笑顔は眩しい。彼女は自ら輝くみたいな人だと思った。ステージの中心がとても似合う。悠馬みたいに死んだ目にならない。
「有希ちゃんって、一緒に住んでいるんでしょ?さっき聞いたんだけど。でも彼女じゃないの?」
「ナツコさん、ごめん。その話しないで。俺から有希に話があるから」
悠馬が低く真剣な声で眉をひそめて言った。ただし、目には覇気がない。ナツコさんは悠馬の失礼とも言える言い草を全く気にしていない様子で「そうなの?」と言う。
私は「ちょっと事情があって住むところがなくなってしまったんです」とだけ伝えた。そして小さく頭を下げた。
「じゃ、悠馬また明日。有希ちゃん、また会おうね」
ナツコさんは助手席に移りながら、私たちに手を振ってくれた。彼女はまだ輝いている。家の前の街灯でさえ、彼女にとってはスポットライトみたいだ。
あの後車内が暗い雰囲気にならなかったのも、ナツコさんのおかげ。ご主人と話したり、悠馬や私に話を振ったり、とても上手に場を回した。喋り慣れているのが手に取るように分かった。
「下で待ってる。スープでいいか?」
話をしようと言うことなのだろう。
「お水で十分」
そう言って荷物を置きに行った時、着替えが駅に置きっぱなしだと言うことに気付いた。もう遅いから明日でいいか。きっと悠馬との話は大事だ。手が洗いたい。そればかりを考えながら着替えていた。
「もうそれくらいにしておけば?」
悠馬は自分も着替えたり荷物を置いたりしてから下に降りて来た。待っていると言ったのに、彼は私を待たせた。私はそれをいいことに念入りに手を洗った。
前回は私のすぐ後ろに回って水を止めていた。でも、今はまだ台所の入り口で私を見ている。私はもう少しだけ手に冷たい水を当ててから蛇口を止めた。
悠馬は小さなダイニングの椅子を引いた。私は空いている方の椅子に座った。彼は私が座ってから椅子を大きく動かして、向かいではない場所に座った。目の前にいないのは気が楽だ。私の方が入り口にも水道にも近い。彼は配慮をしてくれたけれど、死んだような目のままで厳しい声で言った。
「4年くらい前に離婚した。原因は俺の浮気」
逃げ出したい気分だ。嫌悪感はひどい。吐き気もして来たけれど、冷たく冷えた手がそれを止めてくれた。
「詳しく聞いてもいいの?」
悠馬はいいとも悪いとも返事をせず、淡々と話した。何かの物語かのように、自分の感情なく話をしていた。
「里菜と結婚したのはまだ23とか世間を解っていない時で、当時は飲食店でバイトしながら時々演奏の仕事をしていた。でも妊娠が発覚して速攻で籍入れたんだ。仕事はそれから考えようと思っていた矢先流産で。周りは急いで結婚するからとか言って来たけど、2年くらい付き合ってたし、本当に食えない時期は食わしてもらってたし、結婚するなら里菜だと思っていたから俺自身は全然後悔していなかった。
ある日、先輩ドラマーがテレビだかコンサートだかの仕事で店の仕事が出れなくなって代わりにって声をかけてくれたんだ。それから時々出るようになって。結局その先輩が店のレギュラーをやめることになった時に俺がレギュラーで出演することが正式決定して。その頃はちょうど里菜も仕事を忙しくしていて、お互い仕事に夢中って感じでさ。
そのバンド、今はいないけどすごくカリスマ性を持ったギタリストがいて。めちゃめちゃお客さんが入っていたんだ。俺、すっかり自分が売れてる気分になって天狗になって、夜中じゅうリハしたり、飲み会っていうコミュニケーションとったりして、完全に家庭をないがしろにしてた。
それでだんだん俺の顔が売れてくると、まあ、当然若かったからお客さんが悪い遊びに誘ってくるわけ。お姉さんと遊ぼうって。最初はちゃんと断ってたはずなんだけど、毎日のように言われると悪いことだって分からなくなって来た。初めは飲みに行くだけだったのに、ソファのある店で飲んで体触ったりするようになって、気づいたら毎日違う客に飯食わしてもらって酒飲ましてもらって、セックスしてた。
だんだん家に帰るのも適当になっていってさ。もちろんその頃には店長やバンドメンバー、長く勤めてるスタッフには俺の素行の悪さはバレてたんだけど、社長が俺を守ってくれてた。時々注意して、さりげなくフォローして。
でもある日里菜が店に来たんだ。
多分連絡くれてたと思うんだけど、俺、遅刻ギリギリの出勤が癖になってて見てなくて。店のカウンターでその日アフターしに行く客とイチャイチャしてたんだよね。ステージ直前に。そっからはまあ、いわゆる不倫原因の離婚に向かって突っ走って。そりゃ有希みたいに現場を見られたわけじゃないから言い逃れしようと思えばできなかったわけじゃないけど。なんか、もういいかって気持ちと、ここで言い訳するほど失礼なことはないだろうっていう、なんか変な気遣い?があって。まあ、そんな感じ」
最後にぼそりと「有希にはデリケートな問題なのに、こんな形でごめん」と言った。
私は少しだけ考えて、あの公園に行くことにした。今日は雨じゃない。でも少しだけ外の空気が吸いたかった。
私の行動に少し怪訝な顔をしたけれど、気をつけるように言っただけで好きにさせてくれた。大丈夫、少しだけ。心の中でそう返事をして玄関の引き戸を開けた。
今夜は涼しい。湿気のない風が肌を撫でて行くと肌寒いくらいだ。空梅雨なのかあまり雨が降らない日が続いている。夜、雨が降らないのは嬉しいけれど、そうばっかりは言っていられない。公園でいつもの東屋で座った。




